数々の歴代最多記録を塗り替える

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ついにフェラーリでのカーナンバー1を手にいれたシューマッハ。翌年からは無敵の強さをみせ、2000年を含めて5年連続チャンピオンを獲得した。

2003年にはキミ・ライコネン(当時マクラーレン)と最終戦まで競り合ったが、ファン・マヌエル・ファンジオが持っていた史上最多チャンピオン記録(5回)を上回り、最終的に7回という記録を樹立した。

その後も彼の勢いは止まらず、2004年にはアラン・プロストが持っていた通算最多優勝記録(51勝)を更新。こちらも通算91勝というとんでもない勝利数を打ち立てた。

そして2006年にはセナが持っていた“向こう10年は確実に塗り替えられないだろう”と言われていた通算65回のポールポジション記録を更新。こちらも通算69回まで伸ばした。

 

2006年いっぱいで引退…しかし数年後に驚きの現役復帰

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まさに最強の名をほしいままにしたシューマッハだが「世代交代」というものは必ずやってくる。2005年にはフェルナンド・アロンソ率いるルノーが躍進。

この年、わずかシーズン1勝に終わりチャンピオンの座を明け渡してしまう。そして2006年いっぱいで引退を決断。

この年も最後までアロンソと争ったが、最後の最後で運に恵まれず敗北。ちょうど、セナからシューマッハへ世代が変わってから約10年。また一つの時代が終わりを告げた。

しかし、それから数年経った2010年、なんとシューマッハは現役復帰を宣言する。

©Pirelli

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この年、メルセデスがワークスでのF1参戦を表明。チーム代表はかつて彼の戦友であり、前年には自らチームを率いてF1王座を獲得したロス・ブラウン。

またメルセデスでは、若い頃に世話になったメーカーでもあり、恩返しという意味もあったのだろう。

懐かしいシルバーアローでカムバックを果たすが、初年度の成績は今ひとつ。しばらくレースから離れていたブランクがあるかに思われたが、2012年にはモナコGPでポールポジションを獲得(前戦のペナルティによりグリッド降格してのレースとなった)したほか、シーズン中には3位表彰台やファステストラップも記録。

この時すでに40歳を過ぎていたが、上位陣と遜色ない走りを見せた。

©Pirelli

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だが、この年の日本GPで2度目となる引退を表明。通算19シーズン、出走回数は306戦。彼のF1キャリアは、ここで幕を閉じることになった。

 

スキー事故で昏睡状態に、現在も自宅でリハビリ中

引退後はどこかのチーム監督に就任、もしくは自らチームを立ち上げるのではないかという期待もあったが、2013年の年末に彼の趣味でもあるスキーを楽しんでいた最中、事故に遭い頭部を負傷。

昏睡状態に陥った。なんとか一命を取り留め、意識を回復。現在は自宅のあるスイスに莫大な費用をかけて専用設備を設け、リハビリを行っているという。

しかし、退院後の情報は家族の意向もあり、あまり表には出ておらず、事故以降も公の場に姿を現していない。

そのため、彼が今どんな状態にあるのかも定かではないが、残念ながら「元F1ドライバー」として何かしらのイベントでレーシングカーを走らせられる状態への復帰は、難しい状況にあるようだ。

 

まとめ

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今年のF1日本GPでもそうだが、彼のユニフォームを身につけたファンを今でもサーキットでよく見かける。

それだけ彼も世界中の多くのファンを魅了し、今でも彼が一番のドライバーだった感じている人が多いという証拠なのだろう。

今回は彼のF1キャリアを時系列で紹介をしてきたが、次回は「なぜ彼はここまで強かったのか?」という点に迫っていこうと思う。

 

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