1992年 Nigel Mansell(ENG)

@鈴鹿サーキット

1992年 F1世界選手権チャンピオン

ナイジェル・マンセル

マシン

ウイリアムズFW14B

ルノーV10

 

幾度となくチャンピオンになれるチャンスを逃してきたナイジェル・マンセルは「無冠の帝王」と呼ばれていましたが、最強のマシンを手にした92年、ついに念願のワールドチャンピオンを獲得します。

F1に乗るきっかけとなったロータスの選考テスト直前に事故で怪我をしてしまい、通常の何倍も鎮痛剤を打ち選考会に参加してF1への切符を手にするなど、苦労やトラブル、そして破天荒な話しには事欠かないキャリアを持つマンセル。

マンセルの性格上、モチベーションが走りに影響してしまうため、波に乗っている時は切れ味抜群で他を寄せ付けない圧倒的な走りを見せますが、波に乗り損ねるとトラブルがないのにリタイヤしまうようなこともありました。

また、90年の地元イギリスGPでリタイヤしてしまい、モチベーションを激しく下げて突然引退表明をしたり、それを撤回して急遽移籍を発表したりとメディアも目が回るような展開を見せています。

これだけを見るとただの気分屋と思われてしまいそうですが、レースから一歩離れると家族との時間を大切にしたり、勝者を讃える姿もよく見られ、メディアに対してもきちんと対応しています。

そして、なによりファンサービス精神が旺盛で、レース中でもそれ以外でも世界中のファンの心を掴んで離しませんでした。

F1引退後、インディでもチャンピオンを獲得しているマンセル。

「無冠の帝王」と呼ばれた男は、F1とインディという二大舞台で栄冠を手にすることに成功したのです。

 

1993年 Alain Prost(FRA)

@鈴鹿サーキット

1993年 F1世界選手権チャンピオン

アラン・プロスト

マシン

ウイリアムズFW15C

ルノーV10

 

1年間の休養を経て、93年のF1に復帰したアラン・プロスト。

プロストは93年に、F1に復帰・F1に優勝・F1でチャンピオン・F1を引退という偉業を成し遂げたのです。

93年に抜群の安定性を見せたプロストですが、F1デビュー当初のプロストはとにかく速く走ることを考えており、それが原因でクラッシュやリタイヤをしてしまうことが度々見受けられました。

しかし、安定した成績を残すことがチャンピオンへの近道だと気付き、それを実践した結果、4度のワールドチャンピオンと「プロフェッサー」と言う称号を手にしたのです。

93年で引退したプロストは、現役時代にあまり目立ったチャリティー活動を行っていませんでしたが、引退後にはユーロディズニーランドに6500人の子供を招待するなど夢を与える活動も行うようになりました。

また、プロストとセナが同じ表彰台に上がる最後の機会となった93年の最終戦オーストラリアGPでは、表彰台で握手をした後に肩を組みお互いを讃え合い、氷河期に終止符を打ったのです。

https://youtu.be/EEN1lWtvlls

実はプライベートでは連絡を取り合っていたというこの2人ですが、オンとオフの切り替えができるあたりが、本当のプロと言えるのではないでしょうか。

 

1994年 Michael Schumacher(GER)

©鈴鹿サーキット

1994年 F1世界選手権チャンピオン

ミハエル・シューマッハ

マシン

ベネトンB194

フォード ZETEC-R V8

 

「ターミネーター」と言われたミハエル・シューマッハ。

90年にドイツF3でチャンピオンを獲得し、マカオと富士スピードウェイで行われたF3世界一決定戦でも勝利を挙げています。

89年のマカオF3初登場では、日本のテレビ放送で「Michael Schumacher」を英語読みにした「マイケル・シューマーカー」として紹介されていたこともありました。

ザウバーメルセデスの育成選手として元F1ドライバーとパートナーを組み、グループCで修行をしたミハエルは、91年のベルギーGPで急遽できたジョーダンF1チームの空きシートを手にします。

そして技術と度胸が試させるスパ・フランコルシャンで、新鋭チームのマシンに乗りデビュー戦で予選7位を獲得したミハエルは、F1界に衝撃を与るのです。

また同時に、その活躍がベネトンチームの目にとまり、次のイタリアGPからはベネトンチームの一員となりました。

この移籍は、契約問題以外でも様々な物議を醸すことになりましたが、後のミハエルのキャリアにとって成功を納める第一歩となりました。

そして、1年後の92年ベルギーGPで初優勝を挙げ、この勝利はF1における最後のマニュアル車両による勝利ともなったのです。

初のチャンピオンを獲得した94年は、大きなレギュレーション変更があったり、大きなアクシデントがあったりと混乱を極め、最終戦までチャンピオン争いが縺れます。

ミハエルとチャンピオンを争ったデーモン・ヒルとコース上で直接対決となりますが、ミスをしたミハエルとミスを見逃さずに仕掛けたデーモンが接触してしまい、共にリタイア!ミハエルのチャンピオンが確定する、混乱の94年を象徴するような幕引きとなりました。

接触時にミハエルが見せた必死の抵抗は、ターミネーターと呼ばれたミハエルの人間らしさが垣間見えた瞬間とも言えるのではないでしょうか。

 

1995年 Michael Schumacher(GER)

1995年 F1世界選手権チャンピオン

ミハエル・シューマッハ

マシン

ベネトンB195

ルノーV10

 

ルノーエンジンを獲得したミハエルとベネトンは、前年の勢いをそのままにチャンピオンシップ2連覇を達成します。

チームと車が「ミハエル仕様」と成るほど、絶大な信頼を得たミハエルの好みに合わせて作られたマシンは極端なオーバーステアで、パートナーを組むドライバーが苦労したと言われています。

そんな特別仕様のマシンで、マシンコントロールとタイヤの使い方が抜群に上手かったミハエルは速さを見せていくのです。

特にタイヤの開発や使い方については、ブリジストンの浜島氏が絶賛するほどの技術を持っていたそうです。

ベネトンでも、後に移籍するフェラーリでも「チーム・シューマッハ」が作られ、最強と言われるドライバーとチームとなりました。

また、ミハエルは勝つために手段を選ばないような面もあり、接触やラフプレーなどが多々見られ、あまりにも派手にやり過ぎた97年にはランキング除外の厳しい裁定を受けたこともあります。

「勝ちたい」と強く思うからこそ起きたこの行動は、石の心を持った「ターミネーター」と呼ばれたミハエルが、人間であることを唯一証明してくれた部分ではないでしょうか。

 

1996年 Damon Hill(ENG)

©鈴鹿サーキット

1996年 F1世界選手権チャンピオン

デイモン・ヒル

マシン

ウイリアムズFW18

ルノーV10

 

「イギリスの紳士」の鏡とも言えるようなデイモン・ヒル。

父親はモナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルであり、飛行機事故により若くして父を亡くしたデイモンは苦労を重ねてF1まで上り詰めます。

F3やF3000を経て、ウイリアムズチームのテストドライバーとなり、並行してブラバムでF1デビューを果たします。

そのブラバム時代には、綴りや意味は違うものの「同じデーモンだから」と言う理由でデーモン閣下率いる日本のロックバンドである聖飢魔II(せいきまつ)からスポンサーを受けるという、ダジャレのようなエピソードもありました。

そんなヒルですが、堅実な走りと高い開発能力を発揮して、92年ウイリアムズのドライバーズ・コンストラクターズ両チャンピオン獲得に大きな貢献をします。

92年をもってウイリアムズの両ドライバーがチームを離れたため、93年よりアラン・プロストのパートナーとしてウイリアムズでF1に参戦。

派手さはないものの、堅実な走りをしたヒルは、プロストという最強のお手本を前にみるみる実力をつけていきました。

94年にセナが亡くなり、No1ドライバーに昇格したヒルですが、勝負弱い面もあり、その年のチャンピオン争いでは破れてしまいます。

翌年95年の不振から奮起した96年、パートナーとなった同じ2世ドライバーでルーキーのジャック・ヴィルヌーヴの刺激を受けたことと、今までの苦労と学習が実を結び、ついにチャンピオンを獲得するのです。

その後、アロウズやジョーダンなどの中堅チームで走りますが、アロウズでは優勝目前にトラブルで2位となったり、ジョーダンに初優勝をプレゼントしたりと、強いチームでなくても通用する腕があることを証明してみせました。

https://youtu.be/6bjhLCwMSY4

偉大なる父を持つデイモンは、その父に頼ることなく自らの力で堅実な走りと高い開発能力を手に入れ、一流ドライバーであることを示した選手といえるのではないでしょうか。

 

1997年 Jacques Villeneuve(CAN)

Photo by Neil Thompson

1997年 F1世界選手権チャンピオン

ジャック・ヴィルヌーヴ

マシン

ウイリアムズFW19

ルノーV10

 

偉大なる父、ジル・ヴィルヌーヴを父に持つジャック・ヴィルヌーヴ。

父はチャンピオンになれませんでしが、絶大なる人気を誇った選手であり、ジャックがレースを始める時には良くも悪くも「ジルの息子」という肩書きが付きまとったといいます。

「自分はジャック・ヴィルヌーヴという一人の人間なんだ」という気持ちが次第に強くなったジャックは、全日本F3参戦を経てインディカーにデビューし、世界3大イベントと言われているインディ500とシリーズチャンピオンを勝ち取ったのです。

しかし、その時に付けていたカーNoがジルの象徴とも言える「27」であったことで話題を呼び、父親の面影を断ち切ることはできませんでした。

その後96年からウイリアムズチームにてF1に参戦し、デビュー戦でポールポジションを獲得!あわや優勝というレース展開を見せ驚異の新人と呼ばれたジャック。

デビュー2年目となる97年に ワールドチャンピオンを獲得したジャックは、表彰台で父・ジルに報告し、その時に初めて「”ジルの息子”ではなく、ジャック・ヴィルヌーヴという一人の人間になれた」と実感したといいます。

普段は明るく、歯に衣着せぬ発言で人気者のジャックですが、常に父という存在を意識せざるをえない環境にあったのです。

その後、F1では目立った成績は残していませんが、父から委ねられた大仕事を見事にやり遂げたジャック・ヴィルヌーヴもまた偉大なレーシングドライバーと言えるでしょう。

 

1998年 Mika Hakkinen(FIN)

Photo by Cord Rodefeld

1998年 F1世界選手権チャンピオン

ミカ・ハッキネン

マシン

マクラーレンMP4/13

メルセデスV10

ナイスガイでイケメン、そして速いという3拍子揃ったドライバーであるミカ・ハッキネン。

ジュニアフォーミュラーとイギリスF3でチャンピオンを獲得したしたミカは、90年のマカオF3で永遠のライバルとなるミハエル・シューマッハと出会います。

しかし、この運命的なレースでは、ミハエルの仕掛けた罠にかかり負けてしまいます。

91年にロータスからF1デビューし、戦闘力の乏しいマシンでポイントを獲得するなど非凡な才能を見せ、それがマクラーレンチームの目にとまります。

93年より、マクラーレンのリザーブ兼テストドライバーを勤め、シーズン後半よりレギュラードライバーに昇格し、復帰初戦の予選でパートナーのアイルトン・セナより前のグリッドを獲得するという速さを見せたことで周囲を驚かせます。

その後ミカは、マクラーレンチームが低迷気味だったこともあり成績は振るいませんでしたが、マクラーレンのシャーシとメルセデスベンツのエンジン開発が進み、機が熟した1998年に、宿敵ミハエル・シューマッハを破り初のチャンピオンを獲得するのです。

ロータスとマクラーレンで苦労と我慢を重ねたミカにとって、このチャンピオンは本当に喜ばしいものであり、エリートコースを歩んだ対称的なキャリアを持つミハエルを初めて倒した瞬間でもありました。

 

1999年 Mika Hakkinen(FIN)

©︎鈴鹿サーキット

1999年 F1世界選手権チャンピオン

ミカ・ハッキネン

マシン

マクラーレンMP4/14

メルセデスV10

 

98年に続き99年のチャンピオンとなったミカ・ハッキネン。

強豪揃いだった当時のF1で連覇をすることは非常に困難なことでした。

チャンピオンを取るためには、エゴイスティックな面が強くなる選手が多いのですが、ミカはそうではなかったといいます。

レースウィークであっても、「普通の人」と呼ばれるほど常識人だったミカは、ポテンシャルの低いマシンに手を焼くライバルを陰で笑っていた選手をたしなめたりもしたといわれています。

他の選手と戦うレーシングドライバーという立場ながら、他の選手やチームにも気を配っていたミカは、メディアや関係者からも評価が高く、ファンからも絶大な人気を誇っていました。

また、クリーンでフェアなバトルをすることでも有名で、汚いと言われるような技は持ち合わせておらず、見ていて清々しいレースを展開しています。

「セナの再来」とも言われたミカは、純粋にモータースポーツを愛し、レースやバトルを楽しんでいたと言えるのではないでしょうか。

 

安全性が見直された90年代のF1

Photo by Martin Lee

90年代初頭からセミオートマチックやアクティブサスペンション、トラクションコントロールなどのハイテク技術が搭載され始めたF1。

それは開発費の高騰とマシンポテンシャルの差を生み出し、1994年にセミオートマチックを除き禁止となります。

しかし、今までハイテク機能ありきで開発されたマシンであったため、システムを外した途端に速いが乗りこなすことが困難な危険なマシンとなってしまいました。

その代償として、アイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの事故死や、カール・ベンドリンガーの重大事故が起きてしまったのです。

早急な対策として、コースに特設シケインを設けたり、マシンの速度を下げる対策がなされました。

また、ベンドリンガーの事故で、側面からの衝撃の弱さが露呈したことにより、コックピットの形状に問題があるとされ、ドライバーを保護する形状に変更がなされました。

しかしドライバーやファンからは、従来のサーキットを走りたい、走る姿を見たいとの声が上がり、FIAとサーキットが安全を加味しながらレイアウトの変更を行ったり、ランオフエリアを広げたりと様々な対策がなされたのです。

現在、多くのレースで義務化となったHANSなどもドライバー保護となるアイテムですが、90年代のF1においては、マシンとコースにおける安全性が課題となり、改善され、現在のF1にも活かされています。

このように、F1は教訓と犠牲を無駄にせず日々進化しており、「安全で速いF1」を目指していったのです。

 

まとめ

©︎鈴鹿サーキット

90年代のF1チャンピオン特集、いかがでしたか?

当時は空前のF1ブーム真っ只中。

記憶の引き出しを引っ張り出した方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。

安全に対する変化が見られたのもこの時代で、現在のF1と比較すると、思わぬ発見があるかもしれません。

懐かしい思い出と共に、2017年のF1を観戦してみてはいかがでしょうか。

 

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