エンツォ・フェラーリが立ち上げたスポーツカー・メーカー「フェラーリ」の発展に大いなる貢献をした一人に、とある名前をよく耳にします。アルフレード”ディーノ”フェラーリ、エンツォの実の息子であり、フェラーリ初のV6エンジン開発に携わった優秀な技術者でした。「Dino」の名はフェラーリのマシンに幾度となく登場し、近年その復活も噂されています。「V12以外はフェラーリに非ず」と譲らなかった父親に新時代を見せたディーノが、フェラーリに残したものについて、今回は振り返っていきます。

出典:http://www.promotor.ro/

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創始者エンツォ・フェラーリと”フェラーリ”

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イタリアの自動車メーカー「フェラーリ」の創設者であり、F1チーム「スクーデリア・フェラーリ」のオーナーでもあった「エンツォ・フェラーリ」。

僅か13歳でクルマの運転を覚えたという彼は、21歳でレースデビューを果たした後、翌年1920年にはアルファロメオのワークスドライバーとなり、タルガ・フローリオで総合2位を獲得。

1923年のラヴェンナのレースにおいて、自身のキャリア初となる総合優勝を勝ち取り、この活躍を見たイタリアの英雄的撃墜王・フランチェスコ・バラッカ伯爵の両親から、息子の紋章をエンツォに授けることを提案されたと逸話が残っています。

これこそが有名な「カバリーノ・ランパンテ」すなわち跳ね馬のロゴマークであり、エンツォはそれを故郷モデナのシンボルであるイエローの盾にあしらい、自身のエンブレムとして使い始めました。

第一次世界大戦におけるイタリアの撃墜王、フランチェスコ・バラッカ伯爵の機体に「Cavalino Rampante」が描かれている。(出典:http://assivolanti.altervista.org/)

第一次世界大戦におけるイタリアの撃墜王、フランチェスコ・バラッカ伯爵の機体に「Cavalino Rampante」が描かれている。(出典:http://assivolanti.altervista.org/)

その後、オーナードライバーとしてレーシングチーム「スクーデリア・フェラーリ」を興したのは1929年、若干31歳の時でした。

当初はサテライトチームとしてアルファを走らせましたが、勝利を重ねた彼らはやがてアルファロメオのレース部門を率いるまでに成長。

程なくエンツォ自身はマネージメントに専念し、ドライバーとしては引退します。

1938年にはワークスチーム「アルファ・コルサ」のトップに登り詰めたエンツォですが、翌年、経営陣との確執とともにアルファ・ロメオを離れることに。

その後エンツォは第2次大戦の混乱を挟み、1947年に伝説のV12エンジンを搭載した初のオリジナル・レースカー「Tipo125S」で、ここに自動車メーカーとしてのフェラーリを発足させるのです。

1.5リッター・60度V12エンジンを搭載した125S。フェラーリの名を冠した初めてのモデルである 出典:http://www.motortrend.com/

1.5リッター・60度V12エンジンを搭載した125S。フェラーリの名を冠した初めてのモデルである 出典:http://www.motortrend.com/

その後は正に破竹の勢いでF1、ルマン24時間、タルガフローリオ、ミッレミリアと名だたるレースで輝かしい成績を残していきます。

その名声とともに「レースの資金稼ぎの為に」ストラダーレ(ロードカー)を富裕層の顧客に売り込み、その性能と美しさで商業的にも成功を掴んでいくのです。

 

最愛の息子”ディーノ”

出典:https://s3-us-west-2.amazonaws.com/find-a-grave-prod/photos/2013/315/120232188_138431179723.jpg

アルフレード・フェラーリ 出典:http://7car.tw/

生まれ切ってのレーシング・ドライバーであり、自身が走る為にチームを作ったエンツォがマネジメントに専念し、自らステアリングを握ることを辞したのは、長男の誕生がきっかけでした。

後に「独裁者」「暴君」とすら言われた妥協を許さぬその手腕からは、この「息子の為にレーサーを辞めた」という優しげなエピソードには違和感すら覚えるのですが、つまり、エンツォがモーター・レーシング以上に愛したものは、後にも先にもその最愛の息子・アルフレード・フェラーリただひとりだったと言えるかもしれません。

ちなみに、アルフレードとはイタリアで長男に付けられる名前で、その愛称は”ディーノ”または”アルフレディーノ”となり、彼もまたこの愛称でよく知られることとなります。

アルフレードは父の思いを一身に背負い、ボローニャ大学工学部を経て、技術者への道を順調に進んでいきます。

フェラーリの精神を代弁するものとしてV12にこだわってきたエンツォは、兎角「パワーがすべて、シャシーは2の次」というラジカルな考えを持っており、しかしこの思い切りの良さがフェラーリ草創期の快進撃を支えてもいました。

 

ヴィットリオ・ヤーノとの出会い

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ランチア・アウレリア#/media/File:Lancia_Aurelia_GT_1957.jpg

ヴィットリオ・ヤーノがランチア在籍時に設計したランチア・アウレリア。エンジンはヤーノの部下、de Virgilioが設計を担当している。 出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

そんな折、戦前のアルファロメオ・グランプリカーを数多く手がけ、既に伝説的エンジニアとして名高かったヴィットリオ・ヤーノが、ランチアのF1撤退によりフェラーリ開発陣に加わります。

彼はランチア在籍中、世界初のV6エンジン搭載車であるランチア・アウレリアを世に送り出しましたが、この当時のエンジンといえばパワーで圧倒するV型12気筒か、もしくは信頼性の高い直列エンジンか、というカテゴリ分け以外はほとんどなく、気筒を増やさずにサイズだけを小さくする”V6エンジン”を搭載するメリットは、ほとんど着目すらされていませんでした。

一方でアルフレード・フェラーリは「エンジン・パワー至上主義」のエンツォとは一線を画す考えを持っており、やがてスポーツカーもレーシングカーも「パッケージング」がその性能を左右する時代が来ることを予見していたのです。

事実、フェラーリ設立当初こそパワー面で圧倒的だったV12も、50年代中盤には優位性に陰りが見え始めていました。

(実はフェラーリが初のF1チャンピオンを獲得したマシンは、レギュレーションの都合上堅実な2L直列4気筒エンジンを搭載していたのですが)

レシプロエンジンのひねり出せるパワーには限界があるとして、その先に待つのは「シャシー性能」「トータルパッケージ」の競争になる訳で、その上でコンパクトなエンジンを設計できればパッケージングにも自由度が広がります。

そこにきて天才ヴィットリオ・ヤーノがV6エンジン搭載車のノウハウを携えてフェラーリにやってきた訳で、この2人の出会いは運命的だったと言えるかもしれません。

2人はともにフェラーリの次世代を担うV6エンジン設計について意見を交わし、エンツォの関心はさておきその開発に励むのです。

 

ディーノ誕生に関わる3人の登場。

この運命的な出会いがなければ、フェラーリの中に「ディーノ」と言うモデルは誕生しなかったかもしれません。

次のページでは、対に誕生するV6のフェラーリと、歴代「ディーノ」についてご紹介します。