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初の親子2代によるF1チャンピオンを実現したレーサー。デイモン・ヒルとは

1960年代に2度のチャンピオンを獲得した名ドライバー、グラハム・ヒルの息子であることは有名ですが、その戦歴に関してはあまり知られていないのが、1996年のF1ワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルです。F1デビュー当時、下位カテゴリーでの成績がパっとしなかった上に31歳という年齢のため、期待される存在ではなかったヒルが、どのようにしてチャンピオンのタイトルを獲得したのでしょうか。

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ブラバムでのほろ苦いF1デビュー

 

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1988年にベネトンのF1テストドライブを経験するも、残念ながらデビューには至らなかったデイモン・ヒルは、1991年にF1の名門ウィリアムズにテストドライバーとして起用されました。

そして、翌1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わり、ブラバムからF1に初めてエントリーすることになったのです。

しかし、ブラバムはチーム状態が安定せずマシンの競争力無かったため、多くのレースで予選落ちを重ねました。

その為、母国のイギリスGPで初めて予選を通過し決勝レースに出走したのが、ヒルのF1デビューとなります。

その後ハンガリーGPでも決勝レースへ出走を果たすも、ブラバムはF1から撤退。

ヒルもこの年のレースへの出場を断念することになりました。

 

ウィリアムズ正式加入と初優勝

 

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1993年、ナイジェル・マンセルとリカルド・パトレーゼが離脱したウィリアムズは、アラン・プロストを迎えると同時に、ヒルをレギュラードライバーに昇格させます。

すると、経験不足ながらも、3度のワールドチャンピオンを相手に次第に存在感を現すようになったのです。

プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得すると、第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離し、F1参戦19戦目にして初優勝を達成!

その後、ベルギーGP、イタリアGPと3連勝し、チャンピオン候補にも浮上しましたが、結果として年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えることとなりました。

 

万年チャンピオン候補のデイモン・ヒル

 

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翌1994年には、アラン・プロストに替わりエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦したヒルは、サンマリノGPでセナの事故死により、エース・ドライバーに昇格。

ミハエル・シューマッハを相手に6勝をもぎ取り、最終戦直前には1点差のところまで追いつく活躍を見せました。

そして迎えた最終戦オーストラリアGPで、両者が激しく衝突するレーシングアクシデントで2台ともリタイア。

初のワールドチャンピオンをシューマッハに奪われる結果となりました。

さらに、1995年は4勝7ポールポジションを獲得したものの、決勝でリタイアとなってしまう事も多く、シューマッハの2年連続チャンピオンを許してしまうのです。

 

ついにチャンピオン獲得、そしてチーム離脱

 

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1996年は、チームにジャック・ヴィルヌーヴが加入します。

そして、この年のFW18が優れた戦闘力を発揮し、チームメイトの「2世ドライバー」同士がチャンピオン争いを展開します。

ヒルは前半9戦中6勝を挙げましたが、後半戦はヴィルヌーヴの猛追を受け、タイトル争いの決着は最終戦の日本GPへ。

その日本GPで、ヒルは予選2位ながらスタート時にポールポジションのヴィルヌーヴをかわしてトップに立ちます。

そして、ヴィルヌーヴがタイヤ脱落トラブルでリタイアした瞬間に自身初のワールドチャンピオンを決定させたのです。

 

チャンピオン獲得もチーム離脱の真相

 

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F1史上初の親子2代ワールドチャンピオンとなったヒルは、この年の全てのレースでフロントローを獲得。

安定感を欠く事のない走りで、ヴィルヌーヴとの決定的な差を見せました。

しかし、この年の8月にヒルはチームから翌シーズンの契約を行わないことを通告されます。

これはチームがBMWエンジン獲得のために、ドイツ人ドライバーとの契約を必要としていた事が要因であったとされています。

 

引退

 

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1997年にアロウズ・ヤマハ、1998年にジョーダン・無限ホンダと、日本製エンジンを採用するチームに移籍します。

しかし、1勝を挙げるものの、その後競争力のないチームでモチベーションを低下させ成績も低迷。その年で引退することを決めました。

 

ミュージシャン、デーモン・ヒル

 

若い頃はパンク・ロック・バンドをやっていたヒルはギターの腕もプロ級で、1980年代に大活躍し、アルバム総販売枚数6500万枚を達成したイギリスのモンスターバンド「DEF LEPPARD(デフ・レパード)」の楽曲「Demolition Man」というアルバムにギターソロで参加したほどです。

音楽関係者との交友関係が多く、ヒルと顔が似ているといわれた元ビートルズの故ジョージ・ハリスンとの仲の良さは特に有名で、ハリスンのドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の映像特典の中にジョージについて語ったインタビューが収録されています。

また、ジョージ・ハリスンの没後、ジョージの愛車であったマクラーレン・F1を譲り受け、現在もガレージで保管しているそうです。

そして1995年のポルトガルGPにはミック・ジャガーが陣中見舞いに訪れています。

 

 まとめ

 

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アラン・プロスト、アイルトン・セナという2人のチャンピオンと、その後チャンピオンとなるジャック・ビルヌーヴのチームメイトとなったデイモン・ヒルは、手堅く、あまり派手さのない印象でした。

それに加え、ウィリアムFW18という傑作マシンに恵まれたために、ドライバーとしての評価も決して高いものではありません。

しかしプロストに学んだという、マシンに負担をかけない安定したドライビングと、的確な開発能力は関係者から高い評価を受けており、チャンピオンになるべくしてなった名ドライバーと言えるのです。

 

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Writer Introduction
Mr.ブラックビーン

子供のころからモータースポーツに憧れ、小学校5年生の時の愛読誌はオートスポーツ。リアルタイムでジル・ビルヌーブを観ていたのが自慢。 古き良き時代のF1などのモータースポーツや、名車などを中心に、クルマの面白さ、モータースポーツの楽しさを様々なwebメディアで執筆しています。http://blackbeansht.blogspot.jp/

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