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最高位は2位!F1優勝まであと一歩に迫った往年の名ドライバーたち

F1では頂点を掴んだことのあるドライバーについて語られることが主ですが、優勝まであと一歩のところで叶わなかった選手について語られることはあまり多くありません。F1優勝という大きな夢に向かって、あらゆる可能性を模索するのは多くのドライバーに共通していますが、ではそんな優勝まであと1歩のところまで迫ったF1ドライバーはどのようなキャリアを送ったのでしょうか?そこで今回は2位が最高位だったF1ドライバーたちに注目しました。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Timo_Glock_2008_China.jpg

デレック・ワーウィック

 

出典:http://www.wikiwand.com/sl/Derek_Warwick

 

まず最初ご紹介するのは、未勝利ドライバーの中で最も素晴らしいドライバーとの呼び声も高いデレック・ワーウィックです。

近年はF1のレーススチュワード(競技審査委員会)を務めており、2016年にはブルーフラッグの撤廃やペナルティの緩和を提言し、現在のF1にも影響を与え続けている人物です。

そんなワーウィックは1981年にトールマンからデビューを飾りましたが、初陣となったサンマリノGPから11戦連続で予選落ちを喫するという、苦しい幕開けとなってしまいました。

まだチームが創設されて間もないことも手伝い苦戦を強いられてしまいますが、最終戦のアメリカGPで初の決勝進出を果たすと、それ以降は少しずつ速さを見せるようになります。

そしてデビュー2年目となった1982年には予選落ちの数を大幅に減らし、オランダGPでは非力なマシンを駆って自身初となるファステストラップも記録。

こうした速さが認められ、1984年からはルノーへの移籍が実現しました。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Derek_Warwick_Renault_RE50_1984_Dallas_F1.jpg

 

デビュー4年目にして優れたマシンを手にしたワーウィックは、移籍初戦となるブラジルGPでそれまでの不振を払拭するかのように3番グリッドを獲得。

決勝では残念ながらリタイアに終わるも、一時はトップを走行するなど存在感を示す活躍を見せます。

そして次戦となった南アフリカGPではその速さを結果に結びつけ自身初となる3位表彰台を獲得。

続くベルギーGPでも、2位に入るという好成績を収めたのです。

こうして4度の表彰台を獲得し、優勝にあと一歩まで迫る活躍を見せたのですが、この年を境に再び上位争いから遠ざかってしまいます。

翌年はチームの低迷に苦しめられ、ワーウィックはその年限りでルノーを離れロータスへの移籍を望みました。

しかし、当時ロータスのエースドライバーであったアイルトン・セナに拒否されたため、ワーウィックは浪人のまま開幕を迎えることになってしまうのです。

その後、ブラバムのエリオ・デ・アンジェリスがテスト中に事故死したことを受け、チームに加入することになりますが、浮上のきっかけを見いだせず無得点でシーズンを終えてしまいます。

キャリア終盤にはアロウズや、1度は加入に至らなかったロータスのシートを獲得し中団で入賞争いを繰り広げましたが、1984年以来となる表彰台には届かず、1993年を最後にF1から引退することになりました。

引退後はBRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)の会長を務め、シルバーストーン・サーキットの開発に尽力するなど、レースと深く関わる人生を送っています。

 

イヴァン・カペリ

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Capelli_1991.jpg

 

続いては通算3度の表彰台を獲得しながら惜しくも優勝には届かなかったイタリア人ドライバー、イヴァン・カペリをご紹介します。

実に9シーズンに渡ってF1に参戦したカペリも、優勝まであと一歩に迫る活躍を見せたドライバーの一人。

そんな彼のデビューはティレルからのスポット参戦という形で訪れ、初戦のヨーロッパGPではリタイアに終わるものの2戦目となったオーストラリアGPで4位に入る快挙を達成しました。

しかし、そうした活躍もありながら翌年もレギュラードライバーの座を射止めることは出来ず、AGSから2戦限りの参戦となってしまいます。

そして、1987年にようやくマーチからフル参戦を果たしたカペリは、F3000を改良したという非力なシャシーで苦しみながらもモナコGPで6位入賞。

すると翌1988年、カペリに大きなチャンスが訪れるのです。

レイトンハウスのスポンサーを受けたマーチは体制が整い、予選でトップ10に進出することも増え、カペリが入賞圏内に顔を出す機会が増加。

シーズンが進むにつれて力を増していったチームと共にカペリは、ベルギーGPで初の3位を獲得。
さらにはポルトガルGPで3番グリッドからアラン・プロストに次ぐ2位でフィニッシュを果たしたのです。

また、日本GPでは結果こそリタイアに終わったものの、プロストを抜いて一時ラップリーダーに躍り出る好走も披露。

シーズンを通して印象的な活躍を見せたカペリには初優勝へ向けて大きな期待がかかりましたが、残念ながらこれが結果的に彼のベストシーズンとなってしまいます。

翌年も引き続きマーチから参戦するも、チームはマシン開発で躓いてしまい優勝どころか完走も果たせず、1シーズンで14回ものリタイアを喫してしまう厳しい結果に終わってしまいました。

ここからカペリのキャリアは苦しい戦いが続き、マーチがレイトンハウスに買収された1990年もリタイアが目立つ結果となりましたが、フランスGPでは約1年半ぶりとなる2位表彰台を獲得。

表彰台上で優勝を飾ったプロストから握手を求められると感極まって涙を流し、チームが苦しい状態のなかで好結果を残せた喜びを語りました。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ivan_Capelli_1991_USA.jpg

 

しかし、その後はこの勢いを持続できず、1991年のシーズン終盤にはチームが資金面で苦難に立たされると、カペリは長年在籍したチームの存続を願って、スポンサーを持参したドライバーにシートを譲りそのままチームを離れることに。

1992年にはジャン・アレジのチームメイトとしてフェラーリへ加入しましたが、当時低迷期にあったチームの中で結果を残せずに僅か1年でチームを離脱。

1993年はジョーダンのシートを獲得するも、資金面でのトラブルなどから2戦限りでチームを離れ、そのままF1から引退することとなりました。

 

ペドロ・デ・ラ・ロサ

 

出典:https://www.wikiwand.com/gl/Pedro_Mart%C3%ADnez_de_la_Rosa

 

1999年からF1に参戦し、日本とも関わりの深いスペイン人ドライバーであるデ・ラ・ロサ。

フォーミュラ・ニッポン(現:スーパーフォーミュラ)に参戦していた際には静岡県御殿場市に住んでおり、F1参戦以前から日本のレースに触れてきた彼も、F1優勝まであと一歩に迫る戦いを見せたドライバーとして知られています。

1999年に高木虎之介のチームメイトとしてアロウズからデビューを飾ったデ・ラ・ロサは、開幕戦オーストラリアGPで6位入賞という華々しいデビューを飾ります。

2000年もアロウズに在籍し2度の入賞を達成しますが、この年限りでアロウズを離れることになり、ここからデ・ラ・ロサは引退までに様々なチームを渡り歩くことになります。

翌年はプロストGPのリザーブドライバーとして開幕を迎えますが、母国スペインGPより新興チームであるジャガーのレギュラードライバーに起用されます。

しかし、ここに約2シーズンに渡って在籍しましたが、チームメイトのエディ・アーバインに劣勢を強いられたこともあって、再びレギュラーシートを失い、2003年からはマクラーレンのリザーブドライバーとして契約を交わすのです。

これでデ・ラ・ロサはレースに出場できる機会が減ることになりましたが、結果的にこれが彼にとって飛躍のチャンスをもたらす決断となりました。

マクラーレンのリザーブドライバー就任から3年目を迎えた2005年には、前年のコンストラクターズランキングが5位だったため、金曜日にサードカーを走らせることが可能に。

ここでデ・ラ・ロサは毎戦のようにステアリングを握る機会を手にすると、第3戦バーレーンGPでは負傷欠場したファン・パブロ・モントーヤに代わって、レースに出場するチャンスが巡ってきたのです。

ここでアグレッシブな走りを見せたデ・ラ・ロサは5位入賞に加え、自身初となるファステストラップを記録し、代役として見事な走りを披露しました。

この年はこの1戦限りの出場となりましたが、金曜日にデ・ラ・ロサがもたらす走行データはセットアップに大きく役立ち、チームから高い評価を勝ち取ると、その翌年に大きなチャンスが巡ってきます。

モントーヤがシーズン半ばでチームから離脱し、デ・ラ・ロサがその代役としてレギュラードライバーを務めることが決まったのです。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pedro_de_la_Rosa_Hungaroring.jpg

 

そして、代役として3戦目を迎えたハンガリーGPで5番手グリッドを獲得し、レインコンディションで幕を開けた序盤に同僚のキミ・ライコネンと1-2体制を築き上げることに成功します。

さらにデ・ラ・ロサはこの後も好ペースを刻み、一時はライコネンに迫るほどの速さを見せ、シーズン初勝利を目指すチームはデ・ラ・ロサを先行させるかという話し合いも行っていました。

しかし、この最中にライコネンが周回遅れのマシンとクラッシュを喫し、この時出動したセーフティカーの影響でデ・ラ・ロサも後退することに。

これで残念ながら初優勝への道のりは遠ざかってしまいますが、この後も見事な挽回で最終的に2位でフィニッシュ。

自身初の表彰台を獲得して見せました。

2007年からは再びリザーブドライバーに復帰しマシン開発に尽力すると、2010年からはその経験を買われザウバーのレギュラードライバーとしてカムバックを果たします。

ここでは小林可夢偉のチームメイトとして再び日本人ドライバーとコンビを組み、ハンガリーGPでは7位入賞を達成。

最後のシーズンとなった2012年は新興チームであるHRTに所属し、レギュラードライバーとして最後の1年を全う。

引退後はフェルナンド・アロンソの進言もあって、フェラーリのリザーブドライバーとして迎えられることになりました。

 

ニック・ハイドフェルド

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nick_Heidfeld_2014_WEC_Fuji.jpg

 

続いては未勝利ながら8度も2位を獲得したドイツ人ドライバー、ニック・ハイドフェルドをご紹介したいと思います。

2000年にプロストからデビューを飾ったハイドフェルドは、翌年にザウバーへ移籍したことをきっかけに飛躍し、デビューから20戦目にして早くも3位表彰台を獲得。

その後も安定感ある走りを披露し7度の入賞を飾り、ザウバーの最高成績となるコンストラクターズランキング4位に大きく貢献します。

当時メルセデスとの契約を交わしていたハイドフェルドは、マクラーレン・メルセデスに所属していたミカ・ハッキネンの後任に挙げられるなど、若くして高い評価を勝ち取ることに成功したのです。

しかし、マクラーレンは前年のチームメイトであったライコネンを抜擢し、ハイドフェルドはあえなくトップチームへの移籍を逃すことに。

このザウバーで3年間を過ごした後に2004年からジョーダンへ移籍しましたが、チームの体制が整っておらず下位を争うケースが目立つ苦しいシーズンを送りました。

しかし、2005年にハイドフェルドはアントニオ・ピッツォニアとの激しいシート争いを制し、ウィリアムズに加入すると目覚ましい活躍を見せたのです。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heidfeld_(Williams)_in_practice_at_USGP_2005.jpg

 

そして移籍2戦目となったマレーシアGPで3位に入ると、モナコGPではタイトル争いを繰り広げるフェルナンド・アロンソを豪快に追い抜き自身最高位となる2位表彰台を獲得します。

続くニュルブルクリンクで行われたヨーロッパGPでは自身初のポールポジションを奪い、決勝でも2位フィニッシュ。

もはや初優勝は秒読みかとも思われる速さを見せました。

しかし、イタリアGPを前にテストで負傷したハイドフェルドは、シーズンの残りを棒に振ると共にこのままチームを離れることになり、翌年からは古巣ザウバーが名を変えたBMWに復帰することに。

チームを牽引する活躍が期待されたハイドフェルドは、チームメイトのジャック・ヴィルヌーブを上回る成績を残し、チームと共に着実な進歩を見せていきます。

その後2007年のカナダGPでは自身初となる2位表彰台を獲得し、チームのコンストラクターズ2位獲得に大きく貢献。

ドライバーズランキングでも自己最高となる5位に入りました。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nick_Heidfeld_2007_Canada.jpg

 

その翌年にはさらなる飛躍が期待され4度も2位表彰台を獲得するのですが、成長著しい同僚ロバート・クビサがチームに初優勝をもたらしたこともあり、その陰に隠れてしまいます。

2009年はチームがKERSを搭載したマシンを開発したことが裏目に出てしまい、成績が下降線を辿ると共にBMWはチームを売却するに至ります。

ハイドフェルドはそれに伴いチームを離れると、2010年からはかつて契約を結んでいたメルセデスのワークスチームに移籍する方向で話し合いを進めました。

しかし、ミハエル・シューマッハが同チームよりF1復帰を果たしたことで、ハイドフェルドはリザーブドライバーに。

その後はザウバーでデ・ラ・ロサ、ルノーではクビサの代役としてドライバーを務め、2011年のマレーシアGPでは2年振りとなる表彰台を獲得するも、再びレギュラードライバーに復帰することは叶いませんでした。

 

ティモ・グロック

 

出典:https://nl.wikipedia.org/wiki/Timo_Glock

 

最後にご紹介するのはトヨタのドライバーとしてもお馴染みのドイツ人ドライバー、ティモ・グロックです。

2004年にジョーダンからF1参戦を果たしたグロックは、デビュー戦となるカナダGPで7位入賞を果たすという見事なデビューを飾り、スポット参戦でこの年は3戦に出場します。

翌年にはフル参戦を目指してシートを模索しするも、残念ながら叶わずチャンプカーや創設間もないGP2に参戦することを決断しました。

他のカテゴリーに移ってもあくまでF1を目指したグロックは2007年のGP2王者に輝き、その翌年からはトヨタからF1復帰を実現することに。

以前F1に昇格した際にはそのまま定着できなかった悔しさから、当時のヘルメットには復讐の象徴である犬をペイントしてレースに臨むなど、強い気持ちを持ってF1に返り咲くことに成功したのです。

以前に在籍したジョーダンとは違いチーム体制が整っていることもあり、グロックは多くのレースで入賞争いを演じカナダGPでは実に4年振りとなる入賞を4位で達成します。

さらにハンガリーGPでは予選5位と好位置から発進し、レース終盤にはフェラーリのライコネンに激しい追い上げを許すも、これを見事に抑え込み自身初の2位表彰台を獲得。

そしてトヨタで2年目を迎えた2009年は開幕戦から4位、続くマレーシアGPでは雨天中断となったレースで3位表彰台と好調なスタートを切り、同僚のヤルノ・トゥルーリと共にトヨタ初優勝へ向け、大きな期待を背負うことになりました。

 

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyotas_2009_Italy_2.jpg

 

そのなかで迎えた第4戦バーレーンGPではトヨタ、そしてグロックにとって大きなチャンスが訪れます。

予選でトゥルーリと揃ってフロントローを獲得し、ついに悲願となるトヨタF1初優勝に向けてこれ以上に無い走りを見せたのです。

この重要な1戦で絶好のスタートを切ったグロックはトゥルーリを交わし、1周目でトップに浮上。

絶好の位置を守り抜くために、懸命な走りで最初のピットストップを迎えます。

しかしタイヤ戦略が上手く機能せず、グロックは徐々に順位を下げ最終的には7位と自身にとっても期待外れの結果となってしまいました。

その後はマシン開発で出遅れていたマクラーレンやフェラーリといったトップチームの開発が進むと共に、トヨタも少しずつ苦戦するケースが増加。

そのなかでも奮闘を続けたグロックは、シンガポールGPで荒れたレース展開を切り抜けて2位表彰台を獲得。

続く日本GPに期待を抱かせる結果を残したのです。

しかし、日本GPで迎えた予選Q3で大クラッシュを喫し無念の負傷欠場となるだけでなく、これが彼にとってトヨタでの最後のレースとなってしまいました。

2009年末でトヨタはF1から突然の撤退を表明し、グロックはF1で戦える場所を探すことになってしまったのです。

そこでグロックは豊富な参戦経験を買われ、2010年より新規参入するヴァージン・レーシングへの移籍を決断します。

しかし、新興チームの戦力はなかなか向上せず、3年間で1度も入賞を果たせずにF1から別れを告げることになりました。

F1引退後の2013年以降は母国の人気カテゴリーであるDTM(ドイツツーリングカー選手権)に参戦し、今季は4年目のシーズンを迎えています。

 

まとめ

 

F1のように勝負の世界では勝者ばかりに目が行きがちですが、あと一歩のところで届かなかったドライバーたちもあらゆる可能性を模索し、F1優勝という大きな夢を目指してきました。

どうしてもマシン開発という要素が入るF1では優勝はおろか表彰台を獲得するために、運や巡り合わせという実力とは離れた要素も味方につける必要があります。

ここでご紹介した彼らはチャンピオンドライバーのように華々しい戦績を残すことが出来ませんでしたが、素晴らしい実力の持ち主であり、コースでも印象的な走りをファンに披露してきました。

残念ながら彼らはほんの僅かな差で優勝という金字塔こそ達成できませんでしたが、偉大なドライバーたちと共にそれぞれの時代で語られる名ドライバーたちなのです。

 

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Writer Introduction
shunsuke_kawai

モータースポーツライターをさせて頂いております、河合俊佑です。10代にF1の魅力にハマり、以後フォーミュラレースに憧れを抱く。大学時代は自身でカート活動を始め、モータースポーツの面白さを体感し、魅力を伝える事を志しています。少しでもモータースポーツを楽しく、分かりやすく伝えられるよう取組んで参ります。宜しくお願い致します。

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