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“F1界の伝説でありヒーロー” アイルトン・セナとはどんなドライバーだったのか?改めて振り返りましょう。

みなさんは「アイルトン・セナ」というF1ドライバーをご存知でしょうか?通算41勝、65回のポールポジション、そして3度のワールドチャンピオンに輝いたドライバー。1994年の事故死から20年あまり、今では彼を知らないという人も増えてきているのが現実。ここで改めて、アイルトン・セナとはどんなドライバーだったのかを振り返っていきたいと思います。

©鈴鹿サーキット

ルーキーイヤーから発揮させた“天才的な走り”

セナがF1デビューを果たしたのは1984年。最初に所属したのはトールマンという中堅チームだった。すると、いきなり才能あふれる走りを披露した。

大雨に見舞われた第6戦モナコGP決勝。まともに走れるコンディションではなかったが、難しいコンディションでセナの才能が発揮される。

予選13位からスタートすると次々と前を行くマシンパス。ついに2番手まで浮上し、1位まであと少しと迫ったが、雨がさらに酷くなりレース途中で赤旗終了。惜しくも2位に終わったが、これをきっかけにトップチームも彼に目をつけ始める。

翌年、名門ロータスへの移籍を果たすと、早速第2戦ポルトガルGPで初優勝を飾った。なお、この時もモナコ同様に大雨のレース。今後も雨の場面でライバルを圧倒する強さをみせた。

 

1000馬力近いマシンを自在にコントロールした“セナ足”

彼が活躍した当時、現在のF1マシン「デジタル」的な要素はほとんどなく全幅は現在より35cmも長く、エンジンは1000馬力以上とも言われていたターボエンジンだった。

このようなモンスターマシンをパワステの付いていない重たいステアリング、さらにHパターンのギアシフトとクラッチ付きの3ペダルでドライブしていた。

この時にセナの強さの一つと言われたのが、ハイパワーなマシンを自在にコントロールすることを実現させていた、通称「セナ足」だ。

コーナリング中や出口での加速時に、わざとアクセルを小刻みに踏むのだ。余分なパワーをかけてマシンの挙動が乱れることを防いでいた。

 

雨の中でみせた“神がかり的な速さ”

また雨のレースでも圧倒的な強さをみせることで有名だった。

特に世界中のファンで語り継がれているのが1993年に行われたドニントン・パークでのヨーロッパGPだ。

予選では強敵ウィリアムズ勢に1.5秒以上離される惨敗を喫したが、雨の中で決勝レースがスタートすると、セナのテクニックであっという間に前のマシンを逆転していく。

わずか1周足らずで3台のマシンをパス。あっという間にトップに躍り出たのだ。

この他にも前述で紹介した若手時代の2レースをはじめ、1993年日本GPでもアラン・プロストの先行を許すが雨が降り出すと、一気に接近し逆転。最終的に勝利を決定づける走りを雨の中でみせた。

 

セナの活躍に欠かせなかった第2期ホンダF1の活躍

©鈴鹿サーキット

また、セナは何よりも日本好きなドライバーとしても有名。1987年から1992年までホンダエンジン(うち1988年からマクラーレン・ホンダで参戦)とともに戦い、その間に3度のワールドチャンピオンを獲得。しかもその全てが鈴鹿サーキットでの日本GPで決定したという偶然なエピソードもある。

セナの活躍を語る上でホンダの存在は欠かせず、時に最強を求めるがゆえにホンダに対して厳しい態度や要求をすること。しかし1992年の活動休止の際には、涙を流し残念がるシーンも。その年の日本GPでは感謝の気持ちを込めヘルメットに日の丸をデザインし鈴鹿を疾走した。

 

数多くのF1ファンを魅了したライバル対決

©鈴鹿サーキット

現役時代は数々の名バトルを演じてきた。その中でも有名なのがアラン・プロストとの「セナプロ対決」だ。

同じチーム内で繰り広げたチャンピオン争いが予想以上にお互いの距離を遠ざけ「紳士協定があった・なかった」と批判合戦が展開されるなど、ひどい時はドロ沼の戦いになったこともあった。

それを象徴したのが鈴鹿サーキットでの日本GP。1989年はシケインでセナが抜きにかかったところをプロストが強引にブロックし接触。

セナはコースに復帰し最後まで走るが接触時にシケインを通過していなかったことが審議対象となり結果的に失格。プロストにチャンピオンを奪われた。

翌1990年にはスタート直後の1コーナーで、今度はセナが強引にインに飛び込み接触。その場で両者リタイアとなり、今度はセナのワールドチャンピオンがそこで決まった。

2年連続で確執が生んだ接触が原因でのチャンピオン誕生と、後味の悪い結果となった。

©︎鈴鹿サーキット

1991年以降、セナのライバルとして台頭したのがナイジェル・マンセル。

彼とのバトルで最も代表されるのが1992年のモナコGP。ラスト9周になってトップ独走のマンセルが緊急タイヤ交換。これでセナが逆転してトップに立つ。

何としても逆転したいマンセルが1周2秒以上速いペースでセナを追い回し、残り6周で1秒後方まで接近。

この年は負けっぱなしだったセナも、シーズン初勝利をつかむべく意地でブロック。ファイナルラップまで続いたモナコGP史上最高のバトルは、セナに軍配があがりチェッカーフラッグを受けた。

これを含めてセナはモナコGPで歴代最多の6勝をマーク。「モナコマイスター」として今でも語り継がれている。

 

サンマリノの悲劇

©︎鈴鹿サーキット

1994年、これまライバルであったアラン・プロストやナイジェル・マンセルはF1から去り、この年のライバルは台頭してきた若い世代とバトルすることに。

開幕2戦はミハエル・シューマッハが勝利し、第3戦サンマリノGPへ。

金曜日のフリー走行で、ルーベンス・バリチェロがクラッシュを喫し、一時意識不明になるほどの重症。土曜の予選ではローランド・ラッツレンバーガーも大クラッシュ。

その後搬送先の病院で死亡が確認された。シリアスな事故が立て続けに発生し、呪われたような…そんな週末だった。

そして、1994年5月1日の決勝日。我々は最悪の光景を目にすることになる。

当時はゆるい左に曲がる高速コーナー「タンブレロ」。通過スピードは時速300kmを超える高速コーナーだった。ここで7周目に飛び出し、そのままコンクリート壁に激突。

すぐにドクターヘリで近くの病院へ搬送されたが、現地時間午後6時40分に死亡が確認。享年34歳。あまりにも早すぎる英雄の死に、世界中が涙した。

事故原因については、様々な憶測などが飛び交ったが、未だに決定的な原因は明らかになっていない。

このセナの事故により、F1は「安全基準の見直し」を特に意識する動きが加速する。

マシンも含め、コースの安全基準も年々厳しくなり「二度と悲劇を繰り返さないように」F1関係者が一丸となって、レース運営に取り組んだ。

以来、2015年にジュール・ビアンキが亡くなるまでの21年間、F1ドライバーの死亡事故は起きなかった。

事故当時は安全性というものが軽視されつつあった時でもあり、皮肉にも時代を引っ張っていたセナが、その命と引き換えに安全性を強化というメッセージを残すことになったのだ。

 

 

まとめ

©︎鈴鹿サーキット

あれから早いもので20年あまり。現在では特に20代前半の人に聞いても「アイルトン・セナ」を知らない人がほとんどだが、気がつくと「セナ」と名前がつく人が多くなっているのも、少なからず彼の存在が影響していたのだろう。

今回は、ほんの一部しか彼の魅力を紹介できなかったが、それだけ“人々を魅了し感動を与えた”ドライバーだったのだ。

また機会があれば、セナの活躍を振り返っていこうと思う。

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Writer Introduction
Tomohiro Yoshita

フリーのモータースポーツジャーナリスト。サーキット取材は2011年からスタートし、最近ではSUPER GTスーパーフォーミュラを全戦取材。この他にもF1をはじめとする海外レースや、2輪レースもカバー。レースに関する記事だけでなく、サーキットに来場するファンに役立つ情報発信も展開しています。http://www.kansenzyuku.com

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