バイクのエンジン部品を手作業で改造する小さな町工場『ヨシムラ』から始まった、世界を相手に戦うプライベーターレーシングチームの名門”ヨシムラ・スズキ”を知っていますか?POPヨシムラと呼ばれた、社長 吉村秀雄の作るパーツは、バイクの性能を引き出し、米兵の間で『ゴッドハンド』と言われたほど。今回は、そんな日本が誇るヨシムラジャパン、そしてレーシングチーム『ヨシムラ・スズキ』をご紹介します。

 

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始まりは吉村少年の空への憧れ

 

出典:http://thebeast.exblog.jp/m2007-12-01/2/

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現在ではバイクファンなら誰もが知る二輪および四輪部品・用品の研究開発(レース参戦)、製造・販売メーカである”ヨシムラ”。

しかし、その始まりは、筑紫郡那珂村(現在の福岡市博多区)で材木屋を営む父、吉村又平と母フイの間に次男として生まれた吉村秀雄少年の空への憧れでした。

空、つまり航空機に憧れた秀雄は大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つである海軍飛行予科練習生の受験を決意し、見事第8期生として入隊を果たします。

そして入隊から1年が経った頃、秀雄は操縦科に進級する事を決めました。

そこでの操縦訓練を順調にこなしていた矢先、訓練中の事故により除隊、操縦士としての道を絶たれてしまうのです。

除隊となっても夢を諦めきれなかった秀雄は独学で国家検定試験を受験し、航空機関士免許を取得。

日本で398人目の、当時最も若い航空機関士となったのです。

 

戦争、そしてオートバイ屋の開業へ

 

出典:http://madvnz.com/tag/yoshimura/

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見事、航空機関士となった秀雄は福岡を起点にアジア圏を飛び回っていましたが、1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に戦争に駆り出される事となってしまいます。

そして戦争が終わると、吉村家は材木屋から鉄工所へと事業転換を行い、秀雄を含む吉村一族総出で炭鉱で用いられるベルトコンベアの継ぎ手などの製造を行っていました。

そんな飛行機への未練はあるものの家業を手伝う事にした秀雄の元に、だんだん米兵たちが集まるようになります。

理由は航空機の整備に携わっていた秀雄の技術力を見込んで、自分たちのオートバイの修理を頼むため。

秀雄の物怖じしない言動と面倒見のよさに、オートバイの修理を頼む米兵の数はどんどん増えていきました。

そしてまるで本物の父親のように『POP(おやじ)』と呼ばれ、慕われていったのです。

その後、1954年に鉄工所の片隅でオートバイ屋を開業します。

 

レース活動の開始

 

開業して約2年後、1人の米兵が板付基地の補助滑走路で開催されていたゼロヨンレースに秀雄を連れていきます。

キャブトン600で参加した秀雄は久しぶりに味わう真剣勝負に魅了され、どうすれば速く走れるのか、どうしたらエンジンの性能が上がるのかと試行錯誤を始め、ドラッグレースにのめり込んでいきました。

そして試行錯誤とテストを繰り返し、ドラッグレースに参加し続けた結果、秀雄のマシンは他のマシンより1秒から2秒は速くなり、圧倒的な強さを見せるようになったのです。

 

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その頃、1955年に全日本オートバイ耐久ロードレースが初開催されたり、1958年にアマチュアライダーを対象にした全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースが始まるなど、日本でもロードレースの大会が開催されるようになりました。

そして1961年、ホンダのロードレース世界選手権125cc、250cc両クラス制覇や1962年の日本で初めての本格サーキットである鈴鹿サーキットが完成するなど、モータースポーツが盛り上がっていく中で、速いマシンを作る男が九州にいるという評判が広まり、秀雄の元に人が続々と集まってくるようになります。

そしてヨシムラモータースは全日本モーターサイクル・クラブマンロードレースに参戦し、各地で好成績を勝ち取っていきました。

その後、進駐軍が板付基地から撤退する事が決まると、1965年4月、日本のロードレースの発展と共に活動拠点を東京都西多摩郡福生町(現在の福生市)に移転し、ヨシムラ・コンペティション・モータースと名称を改めたのです。

 

SUZUKIとの運命の出会い

 

レース活動を本格化した秀雄は、レースを見ていたホンダの社長である本田宗一郎に気に入られ、ホンダから部品供給を受けた二輪・四輪(S600、S800)のチューニングを開始します。

また、現在のバイクではスタンダードである『集合マフラー』を発明し、それをチューニングして装着したCB750で出場したアメリカのレースで数々の好成績を上げていきました。

しかし、とんとん拍子に拡大していくかと思われた秀雄に、数々の悲劇が襲い掛かります。

それは、高度な秀雄のチューニング技術を妬んだホンダのレース担当者による部品供給のストップや、集合マフラーの成功によるアメリカ進出を果たした会社の乗っ取り。

そして1977年の工場全焼。

そんな失意のどん底にいた秀雄を救ったのもやはり、バイクだったのです。

 

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それは、レースを通して知り合ったKATANA、ガンマ、油冷エンジンの生みの親である元スズキ取締役二輪設計本部長の横内悦夫氏からの、スズキ初4ストローク市販車であるGS750のチューニング依頼でした。

そして、秀雄がチューニングを請け負ったGS750は、9月のアメリカAMAスーパーバイク選手権に参戦し、9戦目のラグナセカで優勝を果たしたのです。

この偶然の出会いで、横内氏に秀雄のチューニングへの絶大な信頼が生まれ、現在まで続くヨシムラスズキへと成長していく事になります。

 

動画で見るヨシムラの戦い

 

ヨシムラチューンGS1000R エンジンサウンド

2016年鈴鹿8時間耐久ロードレース ヨシムラの戦い

 

名門レーシングチーム”ヨシムラスズキ”

 

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スズキとの強い絆を手に入れたヨシムラは、その後もスズキのオートバイをチューニングしてレース活動を続けます。

そしてGS1000Rで出場した第1回・第3回鈴鹿8時間耐久ロードレースでワークスチームを退け優勝という快挙を成し遂げ、バイク業界、レース業界にその名を轟かせる事に。

現在では代表取締役社長には秀雄の長男である吉村不二雄が就任し、孫の加藤 陽平が監督を務め、鈴鹿8時間耐久ロードレースやスーパーバイク世界選手権、全日本ロードレース選手権などに参戦を続けながら、スーパーバイク世界選手権参戦チームにエンジン、エキゾーストシステムを供給するなど、ロードレースの復興に尽力し続けているのです。

 

まとめ

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航空機、戦争を経て偶然たどり着いたオートバイのチューナーという道。

そこで努力して成功しては、不運に見舞われる。

それでも諦めず立ち上がり、新たな目標を達成し続ける。

その歴史に創業者、吉村秀雄の不屈の精神と吉村一族の家族力を感じ、感動せずにはいられません。

1954年のヨシムラモータース創業から62年。

町の小さなチューニング屋さんだったヨシムラが日本のプライベーターレーシングチームとしてレースを続るという事は、簡単な事ではないと思います。

しかし、多くの逆境を乗り越えて、そしてそれでもなおレースにこだわり続ける精神が名門チーム”ヨシムラスズキ”を発展させ続けているのです。

 

ヨシムラジャパンHP:http://www.yoshimura-jp.com/

 

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