「はっちゃん」の愛称で親しまれているレーシングドライバー、服部尚貴選手。第一線で活躍していた頃は「このカラーリングと言えば服部尚貴!!」と言えるほど、印象的なマシンが沢山ありました。51歳となった2017年も現役レーサーとして大混戦の86レースなどに参戦している彼のキャリアを、印象深いマシンやエピソードと共にり返ってみました。
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「EIKI LIVES」
チームやスポンサー、コンストラクターと長期間に渡り良い関係を築くことは簡単ではありません。
しかし服部選手はチームやスポンサー、コンストラクターから絶大な信頼を得ることに成功し、長期間良い関係を築いてきました。
それは彼の人柄の良さや、技術の高さが買われた結果といえるでしょう。
現在では埼玉トヨペットと手を組み現役でレース活動を行っている服部選手ですが、キャリア初期に事故で親友を失っています。
その親友の名は村松英輝選手。
切磋琢磨してきた村松選手の事故死は、彼に大きなショックを与えました。
そのショックから這い上がり、日本を代表するレーシングドライバーとして活躍するようになった服部選手のヘルメットには「EIKI LIVES」の文字が刻まれています。
彼は、自分の活躍は村松選手の存在があったからこそ、という思いを強く抱いているのです。
そのことからもわかるように、服部選手は周りへの感謝と配慮を忘れない、義理堅い人柄なのではないでしょうか。
その結果として、Super GTのドライビングスタンダードオブザーバーを依頼されたり、チーム監督を務めたり、現役でのレース参戦に繋がっているのだと思います。
今回は、そんな彼が第一線で活躍していた当時のマシンたちの中から、印象的な物をご紹介していきます。
ダートトライアルからの挑戦
ダートトライアルで腕を磨いた服部選手は、その後FJ1600やワンメイクレースなどで活躍し、1987年の鈴鹿FJ1600Bでシリーズチャンピオンを獲得します。
当時の日本では、ダートトライアルはマイナーな存在であり、服部選手は異色とも言えました。
しかし、高いドライビングテクニックを持った服部選手は、ツーリングカーからフォーミュラーまで器用に乗りこなしたといいます。
1988年よりF3に参戦することになった服部選手ですが、F3に参戦する傍ら当時若手の登竜門であったでフォルクスワーゲンのワンメイクレースにも参戦していました。
このレースには当時の若手実力派ドライバーがひしめきあっており、非常にレベルの高いレースとなっていたのです。
現代でいうところのヴィッツレースといえば分かりやすいのではないでしょうか。
では、ここで服部選手の若かりし頃のレースをご覧ください。
こうした経験を経て、次々とステップアップしていったのでした。
全日本F3時代
カワイスチール・ラルトRT33 MF204
FJ1600でチャンピオンを獲得した翌年、服部選手は全日本F3選手権に参戦を開始します。
初年度から上位争いをする活躍を見せた彼は、1990年にカワイスチールのサポートを受け見事に全日本F3のチャンピオンを獲得したのです。
このカワイスチールは主に鋼鐵(こうてつ)を扱う企業なのですが、当時の全日本F3ではスポンサー最王手の1つに数えられており、この水色と白にカラーリングされたマシンに乗ればチャンピオン争いができると言われるほどの強さを誇っていました。
白ベースに水色と黄色でカラーリングされた彼のヘルメットは、マシンのカラーリングとマッチしており、その圧倒的な強さと共に非常に印象に残るカラーリングパッケージとなったのです。
あのミハエル・シューマッハも1990年のマカオGPと富士で行われたF3選手権でカワイスチールカラーのマシンに乗って優勝しており、一世を風靡したカラーリングともいえるでしょう。
国内トップフォーミュラー時代
X-JAPAN Le Mans レイナード96D MF308
F3でチャンピオンを獲得した服部選手は、翌1991年から全日本F3000選手権に参戦を開始します。
競合ひしめく日本最高峰のフォーミュラ選手権では、これまで破竹の勢いだった服部選手もさすがに苦戦を強いられてしまいますが、参戦3年目となる1994年に見事初優勝。
全日本F3000選手権ではその後2勝を挙げ上位争いを展開する好走を見せますが、残念ながらシリーズチャンピオンを獲得するには至りませんでした。
そして、1996年から「フォーミュラ・ニッポン」として生まれ変わった日本最高峰フォーミュラ選手権の初年度、チームメイトであり後にF1で優勝も経験するラルフ・シューマッハと死闘を繰り広げ、シリーズ2位を獲得します。
ラルフと共に圧倒的な強さを見せたこの年のマシンには、日本を代表するロックバンドである「X JAPAN」のスポンサーがつき話題となりました。
日本一と言っても過言ではないロックグループは、その年日本最強とも言えるレーシングチームとドライバーを見事にサポートし、服部選手の大活躍に華を添えたのです。
その後もフォーミュラニッポンで活躍しますが、シリーズ2位を2回経験し悔しい思いを残しつつ、2005年をもって参戦を休止しています。
服部選手は、フォーミュラニッポン界の「無冠の帝王」だったといえるでしょう。
ツーリングカー時代
ジャックス シビック&アコード
「服部尚貴と言えばジャックスカラー!」と記憶されている方も多いのではないでしょうか?
EG型のシビックでグループAと呼ばれるツーリングカー選手権に参戦しているころからサポートを受けていたジャックスは、派手なカラーリングだったこともありひときわ目立つ存在となっていました。
服部選手はツーリングカーがグループAで開催された最後の年となる1993年に、この派手なカラーリングのシビックで見事にチャンピオンを獲得しています。
1994年よりツーリングカーがグループAからJTCCと呼ばれるシリーズに移行した後もジャックスのサポートが継続され、派手なカラーリングが施されたシビックで参戦しており、服部尚貴=ジャックスの印象が増々強くなっていきました。
シビックからアコードに参戦車種が変更となってもジャックスカラーは継続され、カラーリング同様にシリーズ5勝という派手な活躍を見せた服部選手は、1996年度の全日本ツーリングカー選手権のシリーズチャンピオンとなりました。
JGTC時代
CCIあめんぼうシルビア
服部選手は、日本有数のカーコンストラクターの一人である由良拓也氏が手掛けるムーンクラフトの車両と深い関わりがあります。
F3・F3000などのカテゴリーで、ムーンクラフトがモディファイしたマシンで戦っていた服部選手は、1994年の全日本GT選手権初年度にムーンクラフトがモディファイしたS13型シルビアで参戦しました。
ホンダのイメージが強い服部選手には意外なマシンかもしれませんが、若かりし頃からのライバルである大井貴之選手とタッグを組みGT-Rやスープラ、ポルシェなどを相手に善戦したのです。
服部選手の技術がFFだけでなくFRでも十分に通用することを証明した1台といえるでしょう。
ラークマクラーレンGTR
服部選手は、当時話題を集めたマクラーレンGTRでも全日本GT選手権に参戦。
1996年に全日本GT選手権にデビューしたマクラーレンGTRは、初戦から戦闘力の高さを見せつけ、ライバルを驚かせます。
服部選手とラルフ・シューマッハという、フォーミュラーニッポンでもチームメイトであり、当時日本最強といわれたこのコンビは台風の芽となり大活躍を見せたのです。
しかし、もう一台参戦していたマクラーレンがベテランコンビで安定した成績を積み上げていたのに対し、若手ならではの攻めた走りでミスも多く安定性に欠けた服部・ラルフコンビはわずか3ポイント差という僅差でシリーズチャンピオンを逃してしまいます。
また服部選手は2001年、2002年にもマクラーレンで全日本GT選手権に参戦しており、旧知の仲である中谷明彦選手ともコンビを組みますが、ライバルチームの戦闘力が上がったこともあり、残念ながら以前ほどの活躍は見られませんでした。
このマクラーレンのカラーリングも奇抜な物で、1996年は日本たばこの代表格である「LARK」がスポンサードをしており、黒とピンクという渋いながらも目を引く斬新なデザインが印象的なマシンとなっていました。
2000年・2001年はイエローコーンからのスポンサード受けていたため、その名の通り鮮やかなイエローのボディーで参戦しており、性能だけではなく、見た目も非常に目立つ存在となっており、当時、非常に貴重な存在であったマクラーレンF1でレースに参戦できたのは、彼のドライビング技術の高さを物語っているといえるのではないでしょうか。
世界のトップフォーミュラー
コローニ・コスワースV8(F1)
服部選手は、1991年にスポット参戦という形でF1にも参戦しています。
日本GPとオーストラリアGPの2戦に参戦しましたが、コローニというイタリアの弱小チームからの参戦だったため、どちらも予備予選不通過という残念な結果に。
しかし、彼のこのF1参戦は非常に話題が多いものでした。
日本GPでは、一口2万円からという個人スポンサーを募り、ボディーのサイドポンツーン部に個人の名前が記されたステッカーを貼るという当時では珍しい試みがとられています。
また、コローニよりオファーが来た際、持参金を持ちかけられたそうですが断ったところ、「それでもいいから乗ってくれ」と依頼を受け、移動費などもチームが負担したといわれています。
コローニチームは、近年もWTCCで大活躍していたガブリエル・タルキーニ選手など優れた技術を持ったドライバーを選択することが多く、そのチームに抜擢された服部選手も同様に優れた技術を持った選手という認識がされたといえるのではないでしょうか。
レイナード・ホンダ(CART)
アメリカのF1ともいえる存在だったCARTは、現在のINDYCARと同等の位置づけと言えるカテゴリーでした。
トップスピードは400Km/h近く、2017年のインディ500では佐藤琢磨選手と熾烈な首位争いを演じたエリオ・カストロネベス選手なども参戦していた競合揃いのシリーズ。
服部選手はフォーミュラーニッポンで活躍した後、1998年よりインディライツという、日本でいうところのF3000相当のレースで経験を積み、1999年よりCARTに参戦しています。
しかし、開幕戦でクラッシュし大怪我をしてしまったことにより、シーズン前半を棒に振ってしまいました。
CARTはオーバルコースがメインのシリーズであり、慣れるまでには時間と経験が必要となります。
この怪我により時間を失ってしまった服部選手は、後半で復帰しますが残念ながら思ったような成績は残すことができず無念の思いを抱いたまま帰国することとなってしまうのです。
まとめ
服部尚貴選手のキャリアと印象的なマシンを振り返ってみましたがいかがでしたか?
現在でも現役の選手として活躍する彼のキャリアは、その人柄と高い技術の上に成り立っているといえるでしょう。
印象に残るカラーリングのマシンが多いのは、周りに支えられながら成長した服部選手のキャリアを物語っています。
ダートトライアルから世界のトップフォーミュラーまで上り詰めた彼のキャリアは、これからレーシングドライバーを目指す選手にとって良いお手本となるのではないでしょうか。
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