大人しい見た目に、スポーツカー顔負けのエンジン。もともと大衆車として生まれたシビックは、グループAレースへの参戦をきっかけに、誰もが認める”スポーツカー”へと徐々に変貌を遂げていきます。レースから生まれた「速いシビック」。その飽くなき進化を追いかけました。
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グループA参戦に向けて
F1へのワークス参戦に始まり、それまでフォーミュラ一辺倒だったホンダのモータースポーツ活動に変化が起き始めたのは、1980年代に入ってからの事でした。
それまで、ホンダにとってツーリングカーレースは「下位カテゴリー」という認識で、日産 スカイラインGT-R対マツダ ロータリー勢が熱い戦いを繰り広げた70年代も、これにメーカーを挙げて対抗する考えは、微塵も無かった様です。
そんなホンダをよそに、国内では「全日本ツーリングカー選手権(以下JTC)」の発足が決まります。
当時の国際自動車スポーツ連盟が定めた「グループA規定」が本格的に導入されるこのレースの魅力は、見た目はほとんどノーマルのクルマが戦うところにありました。
連続する12ヶ月間で5000台以上(1985年当時)生産されたモデルのみが参戦可能とされており、外観も含めて改造範囲はかなり狭いもの。
ホンダ社内でこのJTC参戦に向けて最初に動いたのは、シビック ワンメイクレースで車両開発を担当していた社内クラブ「チームヤマト」でした。
ふだんは市販車の設計・開発に携わる彼らは早速、「どのクルマで出たら勝てるか」の検討に入ったのです。
「速いシビック」はこうして生まれた
JTCの発足は1985年。
ホンダはこの年、新型1.6リッター DOHCエンジン「ZC型」を搭載した、クイントインテグラの発売を控えていました。
当時はこれをグループA仕様に仕立てることが検討されたものの、レース車両としては車格が大きいことが問題となります。
車体だけで考えると、理想的なサイズは3代目となるAT型 ”ワンダー”シビックでしたが、そのエンジンはパワフルとは言い難いものでした。
ならば、シビックにZC型エンジンを搭載すれば理想的ではないかという結論に至ったものの、市販モデルには存在しないエンジンと車体の組み合わせは、当時のグループAレギュレーションでは認められません。
そこでチームヤマトは、ZC型搭載のシビックを発売し、これを5000台生産して公認を取る、という計画をホンダ側に提案。
市場でのニーズも見込めるという判断から、開発のゴーサインを得ることに成功するのです。
こうしてJTCへの参戦が決まり、シビックの新グレードは市販車と同時進行で、レース仕様の開発が行われました。
同時にこれは、社内クラブ活動の一環とはいえ、ホンダ初のツーリングカーレースへの本格参戦となったのです。
伝説の幕開け。AT型”ワンダー”シビック
ホンダが参戦するカテゴリーは、全体の中では下位カテゴリーに位置するディビジョン1(同クラスは後にクラス3へと呼称変更)。
1.6リッタークラスのマシンによるカテゴリーで、ホンダのライバルはトヨタでした。
同じく1.6リッターDOHCの「4A-G型」エンジンを搭載するAE86型トヨタ カローラレビンは、すでに海外ツーリングカーレースへの参戦実績もあり、強力なライバルとなることは明らかだったのです。
彼らに勝つ事は、グループA計画にOKを出した研究所から、チームヤマトに突きつけられた”条件”でもありました。
そしてJTC開幕直前の1984年10月、ZC型エンジンを搭載した「シビックSi」が発売されます。
シビックの市販車開発にはチームヤマトのメンバーが参画しており、グループAで勝つことを視野に、最善が尽くされました。
アルミ合金製エンジンブロックに、F2用エンジンの機構を流用したDOHCヘッドを組み合わせたZC型は、低速域から高速域までクセのない特性を発揮。
市販仕様では130PSという出力を達成し、鋳鉄製ブロックの4A-Gより20kg軽量な重量も相まって、そのポテンシャルは充分でした。
そして、いよいよ迎えた1985年、シリーズ開幕の年。
第1戦には車両の公認が間に合わず、やや投入が遅れたものの、グループA仕様のシビックは第3戦 西日本サーキットで実戦デビューを果たします。
そして、このレースこそ、リタイヤに終わりますが、第4戦 鈴鹿サーキットでは、なんと上位クラスをも打ち破って総合優勝を果たし、強烈な速さを披露。
早速ライバル達の度肝を抜いてみせました。
トヨタとの戦い
翌年1986年シーズンには、3台体制へと強化されたホンダ勢でしたが、この年は開発過程のパーツにトラブルが多く発生したことで、わずか1勝という結果に終わります。
速さこそ見せるものの、ここまでのディビジョン1の製造者部門タイトルはトヨタが2連覇しており、「トヨタに勝つ」を果たせずにいました。
この状況を打破すべく1987年、ホンダ勢は1台プラスしての4台へと体制を強化。
信頼性の向上したシビック勢は快進撃を見せ、なんとシリーズ6戦すべてでトヨタを破り、初の製造者部門・ドライバー部門のダブルタイトルを獲得したのです。
そして翌年の1988年、ホンダはシビックをフルモデルチェンジ。
EF3型”グランド”シビックがデビューしました。
エンジンは従来のZC型を継承する一方、サスペンションには新たにダブルウィッシュボーン式を採用。
ホイールベースが延長させたことで、挙動もよりマイルドに改善しています。
また、市販車に合わせてグループA参戦車両もEF3へと変更となり、この年もトヨタを下してダブルタイトルを獲得。
これに続く1989年は、チーム同士で勝ち星が分散したことでドライバーズタイトルこそトヨタに譲ったものの、製造者部門では3年連続となるチャンピオンを獲得。
シビックはグループAを舞台に「テンロク最速」の名を欲しいままにしていきました。
B16A型エンジン投入への議論
1990年、ホンダは「VTEC」を採用した新型エンジン B16A型を搭載する「シビックSIR」を発売。
同時に、その形式名称も「EF9」へと変更されました。
B16A型に採用されたVTECとは、ホンダが技術力の翠を集めて開発したメカニズムです。
その特徴は、バルブの開閉時期とリフト量を変える事で、低回転域でのトルク確保と高回転域でのパワーを両立できること。
しかし一方で、VTECをレースに持ち込むことには議論があり、そもそもレースにおいて、低速トルクが重要な場面は多くありませんでした。
加えて構造が複雑になる為、エンジン自体の重量増と、機構がヘッドに集中することで重心が高くなるというデメリットも。
一方で、ZC型エンジンの開発も限界に達しつつあり、既にトヨタ 4A-Gがパワーでは勝っているという状況です。
こうなるとVTECの是非はともかく、より高出力化が見込める新型エンジンを歓迎しない理由はありませんでした。
VTECで更なる高みへ。EF9型”グランド”シビック
こうして1990年、B16A型エンジンを搭載したEF9型シビックは、グループAデビューを飾ります。
しかし信頼性への懸念から、参戦当初はVTECを”封印”し、ハイカム固定仕様としていた様です。
しかし程なくしてその機能が解放され、サーキットでもその優位性を見せはじめました。
当時のグループAはギアボックスの規制が厳しく、そのギア比を含めて申請が必要で、シビック勢はわずか2種類のギアボックスでシーズンを戦っていました。
つまり、各ギア比をサーキットごとにセットアップして最適化するというきめ細かなセッティングができなかったのです。
しかし、ギア比が合わないことで発生していたパワーロスを、回転数に応じて出力特性を変えられるVTECでサポートし、主に低速トルクを向上させる事でカバーしました。
こうして新たな心臓を手に入れたシビックは、デビューイヤーの1990年、続く1991年にも製造者部門タイトルを独占。
エンジンパワーの面でトヨタ勢に負けない様、ギリギリの戦いを繰り広げながら、B16A型はその限界を高めていきました。
グループAの完成系。EG6型”スポーツ”シビック
一方、もともとZC型の搭載を前提に作られたEF9のシャシーには、B16Aを搭載することにより新たな課題が生まれます。
そこもVTEC機構を搭載することで、特にヘッド部分が大型化。
これにより搭載位置が前進し、フロントヘビーな特性に拍車がかかっていきました。
加えて、ギアボックスの位置もエンジン搭載位置と一緒に本来の位置から移動しており、ドライブシャフトに想定以上の角度がついたことで駆動系のトラブルが多発。
ドライブシャフトの問題は徐々に改善されていったものの、パッケージ的にはかなり苦しいクルマであり、車体開発に限界が見え始めていました。
そして1991年9月、ホンダはシビックをフルモデルチェンジし、EG6型スポーツシビックが発売されます。
これは、その名が示す通り、EG6型の更なるスポーツ性能向上を図る為、EF型をベースに徹底的なブラッシュアップが図られていました。
そしてEF型とは異なり、開発段階でB16A型に合わせたシャシーが設計され、エンジン搭載位置を最適化。
これにより、持病と言われた駆動系の問題と、性能に大きく関わる重量配分の問題が、同時に改善されました。
加えてEF型ではストローク不足で、可動域の狭かったダブルウィッシュボーン式サスペンションにも改良が施され、ストロークを確保することにより走破性の向上を実現しています。
グループAの終焉
グループA仕様のEG6シビックは公認取得後、1992年に実戦デビューを果たしています。
そして、B16A型エンジンは更に熟成が進み、およそ230馬力を発揮。
もはや1.6リッター自然吸気エンジンとしては驚異的な値に到達していました。
加えて、タイヤもフロントのみ16インチから17インチへとサイズアップし、トラクションの確保とブレーキの大容量化を同時に実現しています。
この1992年はシーズン中盤からの投入ながらデビュー2戦目で勝利を収め、EF型と合わせてホンダに年間8戦中5勝というリザルトをもたらし、メーカー部門タイトル6連覇を獲得しました。
しかし翌1993年、グループAによる全日本選手権が年内で終了することが発表されます。
市販車同士の頂上決戦ともいえるグループAは、観客には大人気を博していましたが、一方で、メーカーを挙げての開発競争はエスカレートし、勝てるマシン以外が殆ど淘汰され、ワンメイク化が進行していたのです。
そんなシーズン最後の年を、EG6型シビックは9戦中8勝で戦い抜き、ドライバーズ・製造者部門のダブルタイトルを獲得。
9年間に及ぶグループAの歴史の中でクラス7連覇という伝説を残したのです。
まとめ
グループAから見るホンダ シビック進化の歴史、いかがでしたか。
社内クラブ「チームヤマト」を始め、レースに挑む人々の情熱がホンダを動かし、これに応える様に進化し続けたクルマです。
今やスポーツ・コンパクトの代名詞となったのも、このシビックというクルマでした。
やがてそのスポーツグレードには赤いエンブレムと”TYPE-R”の名が与えられ、歴史は現在も続いています。
そしてシビックは今も世界中のサーキットでライバルと戦い続け、今は「FF世界最速」の名をかけて、飽くなき進化を続けているのです。
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