1970年代に入ると日本のレース界国産メーカー同士のワークス対決が終わりを迎え、プライベートチームとドライバーが主役の時代が到来しました。その先駆けとなったのが「富士グランチャンピオンシリーズ」です。今回振り返るのはその初年となる1971年。どんなマシンが出走し、どんな名勝負が繰り広げられたのか?クローズアップしていきます。

©︎富士スピードウェイ

 

富士グランチャンピオンシリーズの幕開け

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ワークス同士のビッグパワー・マシン対決で人気を博すも、1969年を以って終了した日本グランプリ。

この一大イベントに次いで富士スピードウェイが企画したのは、国内プライベートチームによるスポーツカーレースでした。

1971年からスタートした選手権は「富士グランチャンピオンレース」と名付けられ、初年から有力プライベーターがこぞって参加。

4月25日に開催された「富士300キロスピードレース」を皮切りに、この年は全6戦が開催されたのです。

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様々なマシンが混走する中、トップ争いを繰り広げたのは主にクラスⅢ(排気量無制限)のマシン!ではなく、信頼性に勝るクラスⅡ(1600〜2000cc)のマシンが優勝する事もあり、白熱した展開が最大のウリでした。

 

1971年シーズンの主な参戦マシンたち

マクラーレン M12

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ドライバー酒井 正自身がオーナーを務める「酒井レーシング」が持ち込んだのは、本場Can-Amを席巻するオレンジ色のマクラーレン。

7.0L のシボレーV8 OHVエンジンは700馬力超と圧倒的な速さを誇りましたが、問題は信頼性でした。

このクルマが速過ぎる”ウサギ役”を演じたことで、グラチャンは盛り上がったとも言えるでしょう。

最終戦にはルマンとデイトナで表彰台に立ったトニー・アダモヴィッツが、自身の持ち込んだM12でスポット参戦しています。

 

ローラ T212

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当時、ヨーロッパのスポーツカーレースを席巻していた1.8L フォードコスワースFCVエンジン搭載の軽量スポーツカーです。

大排気量マシンが注目される中、その後3度も富士GCを制覇することになる高原敬武が、いち早く輸入したマシンなのです。

安値な割に速い上、バランスがよく、高原の手を離れた後も第一線で活躍を続けました。

 

シェブロン B19

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ローラT212と同じく1.8L FCVエンジンを搭載するマシンです。

シェブロンはイギリスのバックヤードビルダーで、納屋のようなガレージでハンドメイドされていたと言われています。

本国でローラと覇を競っていたB19を日本に持ち込んだのは、後にあの「ヒーローズレーシング」を設立する名手・田中弘でした。

第3戦ではマクラーレンに次いで2位表彰台を獲得しています。

 

ポルシェ908 Ⅱ

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60年代末に彗星の如く現れ、ポスト生沢徹と言われた風戸裕。

類いまれなる行動力でアメリカへ渡り、Can-AMシリーズを経験!満を持しての富士GCへフル参戦しました。

そして、この赤いポルシェ908 Ⅱは、彼自身がバイザッハのポルシェ本社まで出向き入手したものです。3.0Lフラット8をミッドシップに搭載しています。

 

ダットサン 240Z/240ZG

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北野元、柳田春人、篠原孝道らがドライブしたL24型 SOHCエンジン搭載のZ軍団もGCに参戦していました。

第2戦では北野がプロトタイプ勢を退け見事に総合優勝を果たした他、柳田も”雨の柳田”と異名をとる鬼気迫る走りで3位表彰台を獲得します。

写真は第3戦にスポット参戦したE.ヘルマンのマシンで、H.シュラーとともに、70年サファリラリー優勝コンビが招待出場していました。こういった「ゲスト」が毎戦のように招待されることもイベントの盛り上げに貢献していました。

 

いすゞ ベレットR6スパイダー

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いすゞのワークスドライバーとして活躍した浅岡重輝らがドライブしたこのマシンは、ローラやシェブロンと同様1.8Lを積む俊足でした。いすゞのプロトタイプマシン・・・今となっては感慨深いものがあります。

 

”スーパースター”生沢徹VSルーキー風戸!白熱の最終戦

1971年の最終戦として行われた「富士マスターズ250キロレース」。このレースのハイライトは、ヨーロッパから帰ってきた生沢徹のスポット参戦でした。

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しかもマシンはル・マンを制したばかりの最新ウェポン「ポルシェ917K」。5.0Lフラット12を搭載するモンスターマシンです。

誰もが生沢の勝利を信じて疑いませんでした。

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対する優勝候補は酒井正とスポット参戦のT・アダモヴィッツが駆る2台のマクラーレンM12、そして風戸裕のポルシェ908でした。

予選でフロントローを独占したのは2台のマクラーレン、次いで生沢の917K、風戸の908と続きます。

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スタートと同時に飛び出したのはアダモヴィッツのM12、酒井がそれを追う展開。

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最注目はその後方、生沢VS風戸の息を飲むバトルでした。

5周に渡り続いたバトルは風戸に軍配が上がります。

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その後、トップを快走する2台のマクラーレンにそれぞれトラブルが発生します。まずは21周目、酒井が駆動系トラブルで戦線を離脱しピットにマシンを納めます。

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その直後22周目にはアダモヴィッツもピットイン。

風戸の後方2位で戻った後、再び抜き返してトップに立ちます。

しかしタイヤが持たずその後も2度ピットに入り、けっきょく上位から脱落。その後は風戸が快調に逃げ切り、1分48秒ほどのマージンを築いてGC初優勝を飾りました。

必勝と言われた生沢は2位に甘んじ、レンタルした917Kの調整不足から苦しい結果ととなったのです。

風戸はレース界のスターである生沢に憧れ、レースを始めたうちの一人でした。

そして翌年からはヨーロッパF2への挑戦を果たし、F1を目指して突っ走ることに。そんな、新たなるスターが生まれた記念すべきレースとなりました。

まとめ

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多彩なマシン、そして幾多の名ドライバーが繰り広げる熱いバトルが毎戦繰り広げられた富士グランチャンピオンシリーズ。

その後1973年には2.0Lに排気量が制限され、コストダウンを図ったことでエントラントはさらに増加していきました。

そして、ワークスドライバーたちが参戦を望むほど、国内随一のイベントへと成長していったのです。

スピードコース富士で勝つために皆”オリジナル”のカスタムマシンを持ち込んでいたのも楽しみの1つでした。

お父さん世代には懐かしく、若い人たちには新しい魅惑の「富士グランチャンピオンシリーズ」。今後も取り上げていきたいと思います!

参考文献:【日本の名レース100選 Vol.014 レーシングオン No.396

 

 

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