ノンターボとターボの車両が対等に戦い、カーボンパーツの使用が主流となった1980年代のF1は、激動の時代だったと言えます。そんな激動の時代を勝ち抜き、ワールドチャンピオンを獲得したドライバーたちを紹介していきたいと思います。
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革命の時代だった1980年代のF1
10年間のうちにノンターボからターボ、そしてまたノンターボに戻るという目まぐるしい変化を遂げた80年代のF1。
カーボン素材の使用も始まり、革命ともいえる時代となりました。
しかし、とにかくパワーを求めた80年代F1マシンは、じゃじゃ馬だったため、乗りこなすのは困難を極めたようです。
また世界各国の強豪ドライバーが揃い、非常にハイレベルな戦いを繰り広げていました。
正に「F1戦国時代」と言うに相応しい時代と言えるのではないでしょうか。
そんな厳しい戦いを勝ち抜いて、ワールドチャンピオンを獲得した凄腕たちの登場です。
80’s Formula 1 World Champions
1980年 Alan Jones (AUS)
1980年F1世界選手権チャンピオン
アラン・ジョーンズ
マシン
ウイリアムズFW07B
フォードDFV
14戦中5勝を含む10回の表彰台を獲得するという圧倒的な強さで、1980年のワールドチャンピオンとなったアラン・ジョーンズ。
「さすらいのレーシングドライバー」と呼ばれたオーストラリア出身のアラン・ジョーンズは、1950年代のF1ドライバーを思わせるような恰幅の良い風貌でした。
それを揶揄するかのように、1977年にF1初優勝をした時には、商品として生きた豚が送られ、それを抱いた姿は、余りにもお似合いのカップル誕生に笑いが起きたというエピソードがあります。
しかし、ひとたびレースとなると一変。
強い精神力を持っていたジョーンズは、とにかく勝つことに強いこだわりを持っていたといいます。
F1参戦前のジョーンズは、出身地であるオーストラリアと並行しながら、アメリカやイギリスでのレース活動を行っており、大陸を股にかけていました。
レースができるならどこにでも行くという姿勢が、精神力の強さや勝利への執着に繋がったと言っても過言ではありません。
ジョーンズは、F1引退後に日本でもグループCでレースをしており、フォーミュラーから箱型レーシングカーまで、何でも乗りこなせる凄腕を持っていました。
「さすらいのレーシングドライバー」、アラン・ジョーンズはどこでもどんな車でも勝てる職人気質なレーシングドライバーだったのです。
1981年 Nelson Piquet (BRA)
1981年F1世界選手権チャンピオン
ネルソン・ピケ
マシン
ブラバムBT49
フォードDFV
最終戦までチャンピオン争いが縺れた1981年シーズンのF1。
最終戦で1ポイント逆転しワールドチャンピオンを獲得したのは、ネルソン・ピケでした。
ピケは1980年の終盤までチャンピオン争いをしており、1戦を残してチャンピオンを逃してしまうという悔しい思いをしています。
ピケはこの年、F1フル参戦デビュー時にパートナーを組んでいたニキ・ラウダより学んだ「チャンピオンになる哲学」を実践し、速いマシンを作り安定した成績を残すことに徹します。
15戦中3勝、入賞10回、うち表彰台7回と言う安定した成績を残したピケは、最終戦で大逆転のチャンピオンを獲得したのです。
マシンを労ることに定評のあるピケは、自分でマシンを壊すようなことはまずなく、レース終了後に分解されたトランスミッションはまるで新品同様だったといいます。
マシンを壊さずに戦略を練りながらレースをするというのが、ピケのスタイルとなっておりチャンピオンになるための方程式となっていったのです。
1982年 Keke Rosberg (FIN)
1982年F1世界選手権チャンピオン
ケケ・ロズベルグ
マシン
ウイリアムズFW07C/08
フォードDFV
1982年のF1はアクシデントが多くあり、混乱を極めました。
11人の勝者が生まれるという大混戦のなか、1勝を挙げコンスタントにポイントを重ねたケケ・ロズベルグがチャンピオンとなります。
レーシングドライバーでは珍しく、ヘビースモーカーであったケケ・ロズベルグ。
表彰台の裏でたばこを吹かしてから、表彰式に参加することもあったといいます。
「フライング・フィン」と呼ばれたケケのF1デビューは1978年で29歳と遅めのでした。
しかしそれまでにヨーロッパやアメリカ、そして日本でのレースにも参戦しており、声がかかればどこにでも行きレースをするというフットワークの軽さを持っていました。
とにかく攻めの走りが心情で、常に全開走行がケケのスタイルでしたが、得意としている市街地コースでは攻めすぎてしまい360℃ターンを決めてしまうこともありました。
例え乗りずらいマシンでも、腕で捩じ伏せて走るスタイルのケケは、ハイテク機能や複雑な構造やルールを嫌い、ベーシックな仕様のマシンやレースを好んでいたといいます。
ターボ全盛期で燃費競争となった1986年にF1を引退したケケは、引退の理由をこう話したといいます。
「燃費を気にしながら走ったら、アクセルを全開にできないじゃないか。そんなF1には興味はない。」
生粋のファイターは、ただでさえ乗りずらいとされたターボ時代のF1をアクセル全開で乗りたがったのです。
F1を引退したケケは、しばらくのブランクを経て、WECやDTMに参加しており、勝利を挙げています。
どんなマシンに乗っても速く走ってしまうフライング・フィンは、職人肌のレーシングドライバーだったと言えるでしょう。
まだまだ続く1980年代のF1シリーズチャンピオンドライバーたち。
次のページからは、マルボロカラーのマクラーレンや、”プロフェッサー”アラン・プロストが登場!?