1977年:ティレル007

 

出典:http://japaneseclass.jp/

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近年はあまり見られませんが、1970年代のF1日本GPでは、日本人ドライバーがスポット参戦することは珍しくありませんでした。

高橋国光さんもその一人、1977年に富士スピードウェイで行われた日本GPにスポット参戦しています。

マシンはメイリツレーシングが購入したティレル007。1974年にティレルが発表した型落ちのマシンではありますが、これを駆って自身のキャリア初のF1参戦となりました。

予選は22位。ポールポジションのマリオ・アンドレッティ(ロータス・フォード)からは2秒落ちと、かなり厳しい状況。

しかし、決勝は全23台中11台がリタイヤという荒れた展開も手伝って9位フィニッシュといった結果を残しています。

ちなみに、この年の日本GPに参戦していた日本人は星野一義さんと高原敬武さん。ともにコジマ・フォードからの参戦。

そして、この日本GPは、1コーナーで発生したジル・ヴィルヌーヴ選手のクラッシュをきっかけに「F1は危険」という認識が社会的に広まり、以降10年間、F1日本GPが開催されなくなった大事なレースのひとつでもあります。

 

1985~1992年:ポルシェ962C

 

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

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レース人生が非常に長かったこともあり、様々なマシンに乗ってきている高橋国光さんですが、その中でも人気が高いのはこのポルシェ962c。

1985年から1991年まで、この962cでJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権・85年までは全日本耐久選手権)に参戦し、85年から87年はシリーズ3連覇。

88年は4位でシーズンを終えますが、その翌年は再びシリーズチャンピオンに輝くという、圧倒的な強さを誇った一台でした。

チャンピオン獲得時にペアを組んでいたドライバーは高橋健二さん、ケネス・アチソンさん、スタンレー・ディケンズさん。

後のインタビューでは「みんな本当にいいドライバーだった。特にケネスとスタンレーは世界的にも優秀なドライバーだった。にもかかわらず、そこに自分も対抗できた。そういった意味で自分もそこに全力投球できた。この頃は特にレーサー人生をエンジョイしていたのではないか。僕はチャンピオンに対しての思いは全然ないんですよ。純粋にその車に上手に乗れたか乗れないか。速く走れるか走れないかといったところだったと思うんですよね。」と、当時ベテランにも関わらず、チームメイトよりいかに車を乗りこなすのか。そういったところにフォーカスを当てていたことがよくわかるコメントを残しています。

JSPCには、トヨタ・日産・マツダなど、国内ワークスのチームも多数参戦していましたが、それよりもこのアドバンカラーのポルシェに心惹かれた方々も多いのではないでしょうか?

なお、2001年のニスモフェスティバルでご本人がドライブした映像も併せてご紹介いたします。

 

1988~1989年:ADVAN・LOLA MF308

出典:https://twitter.com/yokohamarubber

出典:http://www.y-yokohama.com/

日本中のモータースポーツ好きが熱狂した富士グランチャンピオンレース、通称グラチャンからは、アドバンローラMF308。

1971年から1989年まで行われたグラチャンは、グループ7規定に合わせて作られた2座席のプロトタイプレーシングカーによるレースとしてスタート。

ムーンクラフトの紫電や、NOVA53Sなど数々の名車が参戦していたのもこのグラチャンです。

1979年からは、単座化が認められるようになると、国内フォーミュラで使用していたF2のシャーシにカウルを被せて参戦する方法が主流となりました。

レース最後期にはF3000のシャーシにカウルを被せたグラチャンマシンも数多く登場。

このマシンでの高橋国光さんの成績は、1988年4月にSUGOで行われたSUGOグランチャンピオンレースの2位となっておりまし。

 

出典:https://www.instagram.com

こちらも高橋国光選手がドライブしたF3000、ADVAN LOLA MF308

 

ちなみに、MF308とは、無限製のエンジンの名称。

3リッターV8でパワーは460馬力以上、トルクで36kgm以上を絞り出すこのエンジンは、F3000用で、同名のフォーミュラマシンがいるのはこのためとなります。

 

1992~1993:STP タイサン GT-R

 

出典:http://www.thetattoohut.com/

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全日本ツーリングカー選手権(JTC)に、”ドリキン”土屋圭市選手と組んで参戦したSTPタイサンGT-R。

グループA規定で行われていたこのレース、トップカテゴリのJTC-1クラスはR32スカイラインGT-Rのみのエントリーとなっており、当時いかにGT-Rが突出した性能を持っていたのか、よくわかります。

92年はシリーズ9位、93年は12位と、シーズン成績だけ見れば目立った活躍はありませんが、92年は第3戦から6戦まで連続3位表彰台。

93年は優勝1回と2位が1回と、強さを見せていたことがわかります。

また、このマシンに乗った高橋国光選手と土屋圭市選手は師弟関係。

土屋選手は10代のころに、富士スピードウェイで高橋国光さんがドライブするハコスカGT-Rを観て憧れ、レーシングドライバーになると決意。

 

その十数年後、奇しくも同じGT-Rで憧れの選手とチームメイトを組むこととなり、感無量だったと様々な媒体で語っています。

 

1995:HONDA NSX GT-2

 

出典:http://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1995/01/

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1994年から、自身のチーム「チーム国光」でホンダ・NSXを使用してルマン24時間に参戦を始めた高橋国光さん。

 

参戦は96年まで継続し、パートナーとなるドライバーは土屋圭市選手・飯田章選手。96年のみ道上龍選手もエントリーしています。

画像のNSXは95年のもの。GT1参戦車両は横置きのNSXのエンジンを縦置きマウントし、ツインターボ化していましたが、このGT2マシンは横置きNA。

市販車の延長線上のようなマシンでありながら、チューニングされたエンジンはおよそ400馬力をたたき出しています。

95年のルマンでは、キャラウェイコルベットとデッドヒートを繰り広げ、24時間走ってもギャップが2LAPしかないという接戦を繰り広げながら、GT2クラスのクラス優勝を飾っています。

 

1996~1999:RAYBRIG NSX

 

出典:http://www.nsxprime.com/photopost/jgtc/p47-raybrig-nsx-from-1999-jgtc.html

出典:http://www.nsxprime.com/

 

現代のスーパーGTでもおなじみのカラーリングであるレイブリックNSX。飯田章選手とペアを組んで全日本GT選手権(JGTC)に参戦。

ちなみに、1996年からとしていますが、最初の年のレイブリックNSXはルマン24時間に、97年から99年がJGTC参戦車両となります。

99年のNSXが、高橋国光選手にとって現役最後のマシンとなるのですが、NSXは98年に5連勝と少々速すぎたため、大幅に性能調整を受けることに。

しかし、そのウェイトもなんのその。第2戦の富士スピードウェイでは優勝。

自身の現役ラストイヤーにしっかりと勝利するところもさることながら、なんといってもこの時の年齢が59歳。

それでいてGTマシンをドライブし、平然とトップ争いをするということ自体、”異常”と言えるほどのドライビングセンスの塊であったのだろうと思わずにはいられません。

この最後の勝利で、通算勝利数は71勝。18歳で初めて参戦した第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースから数えて、41年目の勝利でした。

 

まとめ

 

59歳で現役引退するも、イベントのデモランなどには度々参加し、現役当時と変わらないような走りを魅せていた高橋国光さん。

まさに生涯現役を地で行くドライバーというに相応しいですよね。

JGTC,スーパーGTでは、チーム国光のシリーズタイトルはまだ未獲得。

近い将来に、チャンピオンを獲って喜ぶ姿を観たいと、強く思ってしまいますね。

 

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