日本のモータースポーツ業界に置いて、レジェンドと呼ばれるドライバーは複数名いますが、その中でも、最も長い期間現役で走り続けた伝説の選手、高橋国光さんをご存知ですか?1958年に18歳で2輪のモータースポーツに参戦をはじめ、1964年には4輪へ転向。以降1999年までひたすらトップカテゴリで戦い続けた”鉄人”のような選手、”国さん”こと高橋国光さんが乗ったマシンを8台ピックアップしてご紹介します。

出典:http://vital.sakura.ne.jp/

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高橋国光とは

 

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1940年1月29日、現在の東京都小金井市に生まれた高橋国光さん。

チームクニミツの監督としてスーパーGTに参戦し、”国さん”の愛称で親しまれていました。

18歳からモータースポーツの世界へ飛び込み、2輪4輪ともに世界の舞台で戦い続けたその姿はもはや”名選手”などではなく”レジェンド”と形容するほうが正しいかもしれません。

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2輪時代の国光さん(右)(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

1958年、18歳の時に2輪の国内レース、第1回全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)クラスに参戦し、セニアクラス(排気量350cc以上のクラス)を上回るタイムで優勝。翌年にはセニアクラスへ参戦して見事優勝。

併催の第3回浅間火山レースでも2位を獲得し、1960年からはホンダのワークスライダーになり、世界GPであるロードレース世界選手権に参戦を開始。

翌年の1961年には250ccクラスで日本人初の世界GP優勝。参戦した10戦は全勝という驚異の成績で、21歳で世界を制します。

出典:http://www.honda.co.jp/

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そのまま国内トップライダーへの路を登り続けると思われた翌年1963年。開幕から2連勝と勢いに乗って迎えた第3戦マン島TTレースで激しく転倒。意識不明の重体となり、生死の境をさまようことに。

奇跡的に一命をとりとめ、回復後に2輪モータースポーツに復帰するも、以前の速さは発揮できませんでした。

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そして1964年、4輪へ転向。

誰もが憧れた日産のワークスチームである追浜ワークスに入ることとなり、R380やスカイライン2000GT-Rを駆って国内ツーリングカーレースで活躍し続けました。

当時、北野元さん、黒澤元治さんと並んで「日産三羽ガラス(追浜ワークス三羽ガラス)」と呼ばれ、絶大な人気を誇っていました。

ちょうどこの頃、”ドリキン”こと土屋圭市さんは、高橋国光さんが駆るハコスカGT-Rがドリフトしてコーナーを駆け抜けていく姿に衝撃を受け、一瞬でファンになったと語っています。

その後も国内トップカテゴリのフォーミュラやツーリングカーレースで活躍を続け、常にトップドライバーとして君臨しつづけます。

4輪になってからはF2やF3000、JSPC、JTC、JGTCなど、国内が中心でしたが、世界戦への参戦も継続。

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1996年 JGTC参戦車両のADVAN BP NSX(出典:http://www.revscene.net/)

1977年にはF1日本GPにスポット参戦、1995年には、以前から参戦し続けていたルマン24時間で、土屋圭市選手、飯田章選手とともにホンダ・NSXを駆りクラス優勝(総合8位)。

翌年1996年は、それまでポルシェで参戦し続けていたJGTC(全日本GT選手権)もルマンのマシンをベースに作成したNSXで参戦。この時は今のGTでもお馴染みのレイブリックNSXではなく、ADVAN BP NSXでした。

そして1999年、この年のJGTCを以て現役引退を表明。

ファンだけでなく、師として仰いだ多くの選手に見送られながら、レーサー人生に終止符を打ちました。

この時59歳。後のインタビューなどでは「まだ走りたかった。」と語っており、”鉄人”のようなバイタリティを持っていると同時に、ただただモータースポーツが、サーキットを走ることが好きなんだと痛感させられます。

出典:http://www.teamkunimitsu.net/

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引退後は自身のチームである「TEAM KUNIMITSU」の監督として、スーパーGTに参戦。

生涯現役を地で行く姿に、ファンも非常に多い名監督の一人。

簡単に経歴を振り返ったところで、今回は、そんな伝説のドライバーである高橋国光さんが乗った名マシンを8台ピックアップしてご紹介いたします。

 

1961年:世界を制したホンダ・RC162

出典:http://www.honda.co.jp/

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1961年に、ロードレース世界選手権の第2戦西ドイツGPで高橋国光さんが駆り、日本人ライダーによる世界戦初優勝を獲得したマシンが、このホンダRC162。

並列4気筒DOHC、排気量は249ccのこのマシンは、14000回転で45馬力以上のパワーを発生していたと言われており、レーシングマシンと言えど驚異的なスペックでした。

同時期の市販車で言うと、250ccクラスのバイクの中で高性能であったホンダ・CB72スーパースポーツでさえ24馬力だったので、どれだけ高性能だったのかがわかるかと思います。

車両重量は126kg。最高速は220km/h以上。非常に高いスペックを保ったこのグランプリマシンは参戦した10戦は全戦全勝。

ホンダの技術力の高さと、高橋国光さんのライディングテクニックの両方が光っていました。

 

1970~1972年:日産・スカイライン2000GT-R

出典:https://gazoo.com/

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スカイライン神話を産むこととなった初代スカイラインGT-R。通称ハコスカGT-R。

2リッター直列6気筒DOHCのS20エンジンを搭載し、日本グランプリをはじめとした国内のツーリングカーレースで49連勝したことは、モータースポーツファンの中では今も語り継がれる伝説です。

出典:http://nissan-heritage-collection.com/

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この頃が「追浜ワークス三羽ガラス」と呼ばれていたころ。

高橋国光さんが駆るゼッケン15、青いハコスカは数々のコーナーをドリフトしながら駆け抜け、多くの人を魅了しました。

日産のワークスがハコスカで参戦を開始したのは1970年から、49連勝をマツダ・サバンナRX-3に止められた後に50勝目を獲得したのは、この15番のスカイラインGT-R、高橋国光さんでした。

当時の様子がわかる貴重な映像はこちら。カーナンバー57番が高橋国光選手です。

1977年:ティレル007

出典:http://japaneseclass.jp/

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近年はあまり見られませんが、1970年代のF1日本GPでは、日本人ドライバーがスポット参戦することは珍しくありませんでした。

高橋国光さんもその一人、1977年に富士スピードウェイで行われた日本GPにスポット参戦しています。

マシンはメイリツレーシングが購入したティレル007。1974年にティレルが発表した型落ちのマシンではありますが、これを駆って自身のキャリア初のF1参戦となりました。

予選は22位。ポールポジションのマリオ・アンドレッティ(ロータス・フォード)からは2秒落ちと、かなり厳しい状況。

しかし、決勝は全23台中11台がリタイヤという荒れた展開も手伝って9位フィニッシュといった結果を残しています。

ちなみに、この年の日本GPに参戦していた日本人は星野一義さんと高原敬武さん。ともにコジマ・フォードからの参戦。

そして、この日本GPは、1コーナーで発生したジル・ヴィルヌーヴ選手のクラッシュをきっかけに「F1は危険」という認識が社会的に広まり、以降10年間、F1日本GPが開催されなくなった大事なレースのひとつでもあります。

 

1985~1992年:ポルシェ962C

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

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レース人生が非常に長かったこともあり、様々なマシンに乗ってきている高橋国光さんですが、その中でも人気が高いのはこのポルシェ962c。

1985年から1991年まで、この962cでJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権・85年までは全日本耐久選手権)に参戦し、85年から87年はシリーズ3連覇。

88年は4位でシーズンを終えますが、その翌年は再びシリーズチャンピオンに輝くという、圧倒的な強さを誇った一台でした。

チャンピオン獲得時にペアを組んでいたドライバーは高橋健二さん、ケネス・アチソンさん、スタンレー・ディケンズさん。

後のインタビューでは「みんな本当にいいドライバーだった。特にケネスとスタンレーは世界的にも優秀なドライバーだった。にもかかわらず、そこに自分も対抗できた。そういった意味で自分もそこに全力投球できた。この頃は特にレーサー人生をエンジョイしていたのではないか。僕はチャンピオンに対しての思いは全然ないんですよ。純粋にその車に上手に乗れたか乗れないか。速く走れるか走れないかといったところだったと思うんですよね。」と、当時ベテランにも関わらず、チームメイトよりいかに車を乗りこなすのか。そういったところにフォーカスを当てていたことがよくわかるコメントを残しています。

JSPCには、トヨタ・日産・マツダなど、国内ワークスのチームも多数参戦していましたが、それよりもこのアドバンカラーのポルシェに心惹かれた方々も多いのではないでしょうか?

なお、2001年のニスモフェスティバルでご本人がドライブした映像も併せてご紹介いたします。

 

1988~1989年:ADVAN・LOLA MF308

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日本中のモータースポーツ好きが熱狂した富士グランチャンピオンレース、通称グラチャンからは、アドバンローラMF308。

1971年から1989年まで行われたグラチャンは、グループ7規定に合わせて作られた2座席のプロトタイプレーシングカーによるレースとしてスタート。

ムーンクラフトの紫電や、NOVA53Sなど数々の名車が参戦していたのもこのグラチャンです。

1979年からは、単座化が認められるようになると、国内フォーミュラで使用していたF2のシャーシにカウルを被せて参戦する方法が主流となりました。

レース最後期にはF3000のシャーシにカウルを被せたグラチャンマシンも数多く登場。

このマシンでの高橋国光さんの成績は、1988年4月にSUGOで行われたSUGOグランチャンピオンレースの2位となっておりまし。

 

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こちらも高橋国光選手がドライブしたF3000、ADVAN LOLA MF308

ちなみに、MF308とは、無限製のエンジンの名称。

3リッターV8でパワーは460馬力以上、トルクで36kgm以上を絞り出すこのエンジンは、F3000用で、同名のフォーミュラマシンがいるのはこのためとなります。

1992~1993:STP タイサン GT-R

出典:http://www.thetattoohut.com/

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全日本ツーリングカー選手権(JTC)に、”ドリキン”土屋圭市選手と組んで参戦したSTPタイサンGT-R。

グループA規定で行われていたこのレース、トップカテゴリのJTC-1クラスはR32スカイラインGT-Rのみのエントリーとなっており、当時いかにGT-Rが突出した性能を持っていたのか、よくわかります。

92年はシリーズ9位、93年は12位と、シーズン成績だけ見れば目立った活躍はありませんが、92年は第3戦から6戦まで連続3位表彰台。

93年は優勝1回と2位が1回と、強さを見せていたことがわかります。

また、このマシンに乗った高橋国光選手と土屋圭市選手は師弟関係。

土屋選手は10代のころに、富士スピードウェイで高橋国光さんがドライブするハコスカGT-Rを観て憧れ、レーシングドライバーになると決意。

 

その十数年後、奇しくも同じGT-Rで憧れの選手とチームメイトを組むこととなり、感無量だったと様々な媒体で語っています。

1995:HONDA NSX GT-2

出典:http://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1995/01/

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1994年から、自身のチーム「チーム国光」でホンダ・NSXを使用してルマン24時間に参戦を始めた高橋国光さん。

 

参戦は96年まで継続し、パートナーとなるドライバーは土屋圭市選手・飯田章選手。96年のみ道上龍選手もエントリーしています。

画像のNSXは95年のもの。GT1参戦車両は横置きのNSXのエンジンを縦置きマウントし、ツインターボ化していましたが、このGT2マシンは横置きNA。

市販車の延長線上のようなマシンでありながら、チューニングされたエンジンはおよそ400馬力をたたき出しています。

95年のルマンでは、キャラウェイコルベットとデッドヒートを繰り広げ、24時間走ってもギャップが2LAPしかないという接戦を繰り広げながら、GT2クラスのクラス優勝を飾っています。

 

1996~1999:RAYBRIG NSX

出典:http://www.nsxprime.com/photopost/jgtc/p47-raybrig-nsx-from-1999-jgtc.html

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現代のスーパーGTでもおなじみのカラーリングであるレイブリックNSX。飯田章選手とペアを組んで全日本GT選手権(JGTC)に参戦。

ちなみに、1996年からとしていますが、最初の年のレイブリックNSXはルマン24時間に、97年から99年がJGTC参戦車両となります。

99年のNSXが、高橋国光選手にとって現役最後のマシンとなるのですが、NSXは98年に5連勝と少々速すぎたため、大幅に性能調整を受けることに。

しかし、そのウェイトもなんのその。第2戦の富士スピードウェイでは優勝。

自身の現役ラストイヤーにしっかりと勝利するところもさることながら、なんといってもこの時の年齢が59歳。

それでいてGTマシンをドライブし、平然とトップ争いをするということ自体、”異常”と言えるほどのドライビングセンスの塊であったのだろうと思わずにはいられません。

この最後の勝利で、通算勝利数は71勝。18歳で初めて参戦した第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースから数えて、41年目の勝利でした。

 

まとめ

59歳で現役引退するも、イベントのデモランなどには度々参加し、現役当時と変わらないような走りを魅せていた高橋国光さんでしたが、2022年3月16日の昼頃、高橋国光さんは82年の”生涯現役”の人生に終わりを告げ、多くの人から惜しまれつつこの世を去りました。

2020年にはSUPER GTでの大逆転でのシリーズタイトル獲得、2021年には連覇目前での接触トラブル、2022年は新型NSX-GT Type Sで戦う新しいシーズンに期待がかかる、開幕直前での訃報。

人である以上、いつかは亡くなる存在ではありますが、また自動車業界、モータースポーツ業界を牽引した国さん、心からの感謝とともに、哀悼の意を表します。