いよいよ開幕を迎えるF1日本GP。残念ながら今年は日本人ドライバーのエントリーはないが、これまで多くの日本人がF1という世界最高峰の舞台に挑み、鈴鹿サーキットでも名勝負を繰り広げてきた。今回の鈴鹿F1名勝負シリーズでは、日本人ドライバーに焦点を当てて振り返っていこうと思う。まずご紹介したいのは、日本人がF1に挑戦できる“入り口”を作ったとも言える2人のドライバーの名勝負を振り返って行く。

©鈴鹿サーキット

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多くの人に夢と感動を与えた日本人初のフルタイムF1ドライバー…中嶋悟

©鈴鹿サーキット

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1987年。鈴鹿に初めてF1がやってきたのと同時に、一人の日本人ドライバーが凱旋レースを迎えた。

日本人として初めてF1レギュラードライバーの座を手にした中嶋悟だ。

後に3度のワールドチャンピオンに輝くアイルトン・セナと同じロータスチーム。シーズン中にも4位を始め何度か入賞を果たす活躍を見せた。

ここ鈴鹿は母国レースであるとともに、愛知県岡崎市出身の中嶋にとっては、まさに地元レースと言っても良い。初日から彼を応援するべく、多くのファンがサーキットに詰めかけた。

予選こそ11番手と中団からのスタートとなったが、スタートから徐々に順位を上げ6位入賞。地元レースで見事ポイントゲットを果たした。

翌年の1998年は予選からアグレッシブな走りを見せ、6番グリッドを獲得。決勝では日本人初の表彰台も期待されたが、スタートでまさかのエンストに見舞われ、ほぼ最後尾まで後退してしまった。

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この年のレースでの活躍は見込めないかと思われたが、勝手知ったる鈴鹿で怒涛の追い上げをみせ7位フィニッシュ。惜しくもポイントは獲得できなかったが、見事な走りを見せファンを魅了した。

1989年はマシントラブルでリタイアとなってしまうが、ティレルに移籍した1990年は6位入賞を獲得。この年は鈴木亜久里が3位表彰台を獲得し(詳細は後述で)、鈴鹿サーキットはこれまでにないほどの大歓声に包まれた。

数々のバトルを見せてきた中嶋だが、多くのファンの間で記憶に残っているものといえば1991年の日本GP。この年限りで引退を表明していた中嶋にとっては鈴鹿ラストラン。彼の最後の勇姿を一目見ようとスタンドには溢れんばかりのファンが詰めかけいつしか人のウェーブも沸き起こるほど盛り上がった。

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最後のレースだからこそ、ポイントは難しくても、せめて完走してほしいという思いがあったが、レース後半にステアリングのトラブルに見舞われS字でコースオフしクラッシュ。

まさかの形で、レースを終えることになった。

マシンを降りてしばらくは呆然と立ち尽くしていたが、後続のマシンが来ないことを確認すると、駆け足でコースを横断。その瞬間、鈴鹿サーキット全体から「おつかれさま」と言わんばかりの大歓声が沸き起こり、中嶋もそれに応えるかのように手を振ってピットへ。

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たくさんの人々に夢と感動を与えてきた中嶋。鈴鹿での最後のレースは決してハッピーエンドという形にはならなかったが、応援してくれたファンにできる限りのパフォーマンスをみせた。

「ありがとう中嶋」

いつしか、この言葉が1991年の日本GPを象徴するものとなった。

 

全戦予備予選落ちからつかんだ日本人初表彰台…鈴木亜久里

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日本人ドライバーの鈴鹿での活躍といえば、欠かせないエピソードが1990年の鈴木亜久里が成し遂げた日本人初の表彰台だ。

しかし、ここに行き着くまで彼はF1の舞台で想像以上の苦労を強いられた。

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1989年。ザクスピードから日本人2人目となるレギュラー参戦のチャンスを手に入れるが、当時は参戦台数が多く、「予備予選」とう枠が設けられていた。金曜日の早朝に対象チームが予選を行い、上位2台のみその後のレースウィークに参加可能(その中の公式予選でも予選落ち枠があった)。3位以下になったドライバーは、そこから3日間走ることができないのだ。

亜久里はルーキーイヤーということもあり開幕戦から予備予選の対象となるが、マシンのパフォーマンス不足もあって、なかなか通過できず。鈴鹿を含め全16戦全戦で予備予選落ちという、不名誉な記録を作ってしまった。

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それでもF1での上位進出を諦めず、2年目はラルースへ移籍。その第15戦鈴鹿で最大のチャンスが訪れる。9番グリッドを手にすると、上位の脱落もあって序盤から順位を上げ、レース中盤ついに3位に浮上。最後は4番手を走るリカルド・パトレーゼとの緊迫した争いとなるが、最後まで着実に走りきり3位のままチェッカーフラッグ。

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日本人が初めてF1の表彰台に、しかも母国の日本でそれを成し遂げた瞬間だった。

この年は中嶋悟も健闘し6位入賞。チャンピオン争いをしていたアイルトン・セナ、アラン・プロストなど人気ドライバーが次々とリタイアしていく中、「日本人ドライバーここにあり!」という走りを見せた。

思えば、前年の予備予選落ちから諦めずに這い上がってつかんだ表彰台。まさに苦労が報われた瞬間だった。

 

まとめ

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母国でのレースというのは、ファンにいいところを見せようと、どうしても力が入って逆に空回りしてしまいがち。その中で好結果を残したのが、この2人だった。

それと同時に、彼らの活躍を見てF1の世界にのめり込んだファンも多かっただろう。

現在は日本人ドライバーの参戦がないが、また近いうちにエントリーリストの中に日本人が加わる日が帰ってくることを願いたい。

そして、彼らを皮切りに多くの日本人ドライバーがF1の舞台に挑戦していく。

次回は2000年以降に活躍した日本人ドライバーの名勝負を振り返って行く。

 

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