ミハエル・シューマッハ、フェルナンド・アロンソらの黄金時代に最大のライバルと言われたのは、エイドリアン・ニューウェイという一人のデザイナーでした。F1界で誰もが認めるその才能は、GP138勝、コンストラクターズチャンピオン9回という途方もない数字が物語っています。妥協のない飽くなき挑戦から生まれる革新的なマシンは、時にピーキーになることもありましたが、それらは速く美しいマシンの数々でした。今回は、その中から特に速く美しかったマシンを厳選してお届けします。
エイドリアン・ニューウェイとは?
エイドリアン・ニューウェイは、イギリス出身のレーシングカーデザイナーで、現在はレッドブル・レーシングのチーフ・テクニカル・オフィサーを務めています。
「僕らがタイトルを賭けて戦っているのはベッテルとだけじゃない。僕たちはこれからニューウェイと彼が作ったマシンとも戦わなければならない」。2012年、第17戦インドGPの公式予選を終えた会見でこう語ったのは、当時レッドブルのセバスチャン・ベッテルとタイトルを争っていたフェラーリのフェルナンド・アロンソでした。
2005年に絶対王者ミハエル・シューマッハからタイトルを奪い、世界最強とまで言われるアロンソがここまで彼を警戒するには理由がありました。
その昔、シューマッハが1998年、1999年にタイトル争いに敗れた際も、ライバルはミカ・ハッキネンだけではなく、彼が生み出したとてつもなく速いマシンだったのです。
1958年にイングランド中部、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれたエイドリアン・ニューウェイは、16歳でパブリックスクールを卒業。
その後、サウサンプトン大学で宇宙工学科を専攻します。そして1980年、優秀な成績を収めたニューウェイは、一級優等学位を取得し卒業。
卒業論文で、グラウンド・エフェクト・エアロダイナミクス(フロア下でダウンフォースを生む機構)に関する研究が認められ、早速F1チームに務めることになります。
F1チーム、フィッティパルディ・オートモーティブに若くして空力チーフとして採用されますが、翌年にはマーチに移籍しアメリカへ渡ります。
そこでGTPやCARTのデザイナー兼レースエンジニアとして働き始めるのです。
そして彼がデザインしたマシンは、IMSAで2年連続のチャンピオン、そしてCARTでは1985年、86年に2年連続のタイトルを獲得します。
自分のデザインしたマシンが常勝するようになったニューウェイは、新たな挑戦を求めマーチを退社。
欧州に戻りF1でチーフ・エンジニアを目指します。
その後、1986年にチーム・ハースに加入しますが、わずか一年で解散。
すぐさまマーチはニューウェイを再雇用、F1プロジェクトのチーフ・エンジニアに抜擢し、ここからニューウェイのF1での快進撃が始まりました。
空力追求に妥協を許さないニューウェイは、時にリアウィングに貼るスポンサーステッカーやドライバーの救助用ストラップすら気になる程のこだわりを見せます。
また、マシンの見た目にも妥協しないニューウェイは、グリッド上で最も洗練されたマシンを作り上げてきました。
常に革新的なアイディアを構想し続けるニューウェイは、時にこだわりすぎたことでピーキーなマシンを作り上げることもありましたが、そのほとんどは速く美しいマシンの数々でした。
驚くべきは、コンピューター技術が発達した現在でも製図用紙に手書きでマシンのデザインを行っていくということです。
そんな鬼才、エイドリアン・ニューウェイが生んだ多くの傑作の中から厳選した5台のマシンを紹介します。
マーチ・881
ニューウェイによるF1マシン処女作となったマーチ・881は、1988年に登場しました。
88年は、ターボエンジンを使用できる最終年。
当時最強のホンダ製V6ツインターボにアイルトン・セナ、アラン・プロストを有するマクラーレン・ホンダが16戦中15勝した歴史的なセナプロイヤーです。
80年代はターボ全盛期。ターボエンジンがパワーで勝る中、NAエンジンを搭載するマーチは劣勢を強いられます。
しかし、第14戦ポルトガルグランプリでは2位表彰台を獲得し、続く第15戦日本グランプリでは一瞬ではあるもののトップを走行する快走を見せました。
この一瞬が、89年に唯一トップを走ったNAエンジン搭載マシンという栄光を獲得するのです。
また、ニューウェイは、881を製作する上である機構を発明します。
それはフロントウィングをノーズの側面につけるのではなく、吊るすことでノーズを持ち上げその下部に空気を流しフロントウィングをフロントディフューザーとして機能させるという構想でした。
実は、フロントウィングでグラウンドエフェクトを発生させる試みは、ロリー・バーンによって既に行われていました。
しかし、ニューウェイはフロントウィングの全面でグラウンドエフェクトを発生させることに成功したのです。
これ以降、F1マシンの常識となる吊り下げ式ノーズはニューウェイの発想から生まれたものでした。
また、89年よりNAエンジンに統一されたことでグリッド上のほぼ全てのチームが881のほっそりとしたモノコックをコピーすることになりました。
そんな881は新時代のF1をいち早く提示した、画期的なマシンだったのです。
ウィリアムズ・FW14
マーチ時代の功績を認められたニューウェイは、1990年台半ばに名門・ウィリアムズにヘッドハンティングされます。
そしてテクニカル・ディレクター、パトリック・ヘッドの下に配属された若いニューウェイは、豊富な資金力を誇る新チームで独創性を増し、才能を存分に活かしたマシンを作り出すのです。
そんな打倒・マクラーレンを掲げて製作されたマシン。それが、91年に登場したFW14でした。
ニューウェイによる自由な設計は、グリッド上で最も技術的に優れたマシンとなりました。
それは設計図段階でナイジェル・マンセルが引退を先延ばしする程洗練されたものだったのです。
しかし、この年から採用したセミオートマチックトランスミッションの不調や、ルノー・エンジンの信頼性不足などに悩まされ序盤戦で大量のリードを失います。
その後マンセルとパトレーゼの連勝もあり終盤までチャンピオンシップを争いますが、最終的にはマクラーレン8勝、ウィリアムズ7勝で惜敗。
翌年、アクティブサスペンションやトラクションコントロールといったハイテク機器を満載したFW14Bは16戦中10勝を挙げ、ナイジェル・マンセルも悲願のドライバーズチャンピオンを獲得しています。
これが、ニューウェイにとっても初のコンストラクターズチャンピオンでした。
その後93年、94年、96年とコンストラクターズチャンピオンに輝いたものの、チームとの対立により離脱が決定。
最終的にウィリアムズ時代にニューウェイが開発に携わったマシンは、グランプリ51勝を記録しました。
マクラーレン・MP4-14
ウィリアムズとマクラーレンとの間で示談が成立し、マクラーレンにテクニカル・ディレクターとして正式加入した98年。
この年、MP4-13の開発に関わることになりますが、その設計は既に進んでいたためニューウェイのアイデアは細かい部分で活かされることとなります。
そしてMP4-13は、開幕戦オーストラリアGPでは3位以下を全車周回遅れにするほどの圧倒的な速さを見せ、”フライングフィン”の名で知られる、ミカ・ハッキネンはその勢いのまま98年を制覇したのです。
また、翌年MP4-14はニューウェイがテクニカル・ディレクターとして初めて1から作り上げたマシンとなりました。
外観はMP4-13とあまり変わらないものの、リアの絞り込みや中身を徹底的な突き詰めにより相変わらずの速さを示したのです。
しかし、その攻めた仕様が仇となり信頼性の確保がままならずMP4-14は、ほとんどが優勝、表彰台またはリタイアという結果になってしまいました。
それでもフェラーリのミハエル・シューマッハーとのデッドヒートを制したミカ・ハッキネンは見事、2年連続のドライバーズチャンピオンに輝きます。
そんな、今でも美しいマシンの一つに挙げられることの多いMP4-14。
人々の記憶に残る戦いを演じたシルバーアローはエイドリアン・ニューエイの手によって生み出されていたのです。
マクラーレン・MP4-20
2000年代前半、低迷期に入っていたマクラーレンはレギュレーションが変更される2005年に焦点を絞って開発され、見事に速さを取り戻すことに成功しました。
新レギュレーションによりウィングの最低地上高の上昇や、リアウィングの前進などが問題となっていましたが、他車には見られないホーンウィング、新たなゼロキール式のフロントサスペンションなどを採用することで空力面でライバルに先行することを可能にします。
そして、MP4-20というグリッド上で最速といわれたマシンを作り上げました。
また、2003年よりマクラーレンに加入した二代目”フライングフィン”、キミ・ライコネンとこの年よりウィリアムズから移籍したファン・パブロ・モントーヤは非常に強力な布陣となり、前年の1勝からシーズン10勝を挙げる大躍進を遂げるのです。
そうして、第15戦日本GPではキミ・ライコネンによる17番手スタートからの優勝や、年間12回のファステストラップなど、尋常ではない速さを示します。
7回の優勝を果たしたキミ・ライコネン。しかし、メルセデス・エンジンの信頼性不足もあり安定した結果を残せず、最終的には同じく7勝したルノーのフェルナンド・アロンソに負けてしまいました。
まさに、”硝子のマシン”となったMP4-20ですが、その速さは紛れもなく本物だったのです。
レッドブル・RB6
2006年シーズンよりレッドブル・レーシングに移籍したニューウェイは、チーフテクニカルディレクターに就任。
今まではチャンピオンを獲得したことのあるコンストラクターで活躍してきましたが、新興コンストラクターで1から最強のチームを作り上げることを目指します。
そして新レギュレーションが採用された2009年、コンストラクターズランキング2位を獲得したレッドブルレーシングは、一気に軌道に乗った翌年RB6を開発するのです。
RB5を正常進化させたマシンは、特徴であったVノーズやリアプッシュロッドサスペンションなどは継続。
そこに、レギュレーションの抜け道から生まれたブロウンディフューザーを採用し、驚異的なパフォーマンスを発揮しました。
ブロウンディフューザーは排気口をディフューザー付近の低い位置に設けることで、排気を吹き付け高いダウンフォースを発揮するものでした。
後にこのシステムは多くのチームが採用するトレンドとなるのですが、このシステムによりモナコGPなどのハイダウンフォースサーキットでは圧倒的な強さを見せたのです。
その結果、シーズン9勝、ポールポジションは15回を記録。セバスチャン・ベッテルを史上最年少チャンピオンに導きました。
レッドブル・レーシングとしては初となるダブルタイトルです。
その後、レッドブルは2011年〜2013年までダブルタイトルを獲得。
RB9では、セバスチャン・ベッテルとのパッケージにより一層磨きがかかり、同一ドライバーで9連勝という新記録を樹立しています。
まとめ
ニューウェイはここでは紹介しきれないほど色々な発明やトレンドを作ってきました。
F1の近代化を促したのはこの人の影響が一番大きいと思います。
そして、記憶に残るタイトル争いや洗練されていたマシンの多くは、ニューウェイが関わった作品であることも事実です。
最近は、2015年より実質休暇を取っていたニューウェイですが、史上最速のレギュレーションとしてエアロが重視されることとなった2017年、ついに復活を宣言!
コンセプトは「とにかくシンプル」。パワーでライバルに劣るルノーエンジンから最大限のパフォーマンスを引き出しています。
今は優勝争いに絡めていませんが、これからのアップデートにもニューウェイが全面的に関わっていると言われシーズン中にどこまで追い上げてくるか見ものです。
これからもエイドリアン・ニューウェイは革新的なデザインと共にF1マシン界のファッションリーダーとして活躍し続けることでしょう。
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