ル・マン24時間レースをはじめ様々な舞台で活躍してきたマツダ・ロータリー。その立役者の一人でもあるのが片山義美さんです。自動車メーカーがワークス体制でモータースポーツに参戦する時、そのマシンを駆るドライバーには「メーカーの顔」としての一面も求められます。彼も、その一躍を担っていました。今回は彼と共に活躍したマシンを紹介します。

出典:http://japanesenostalgiccar.com/

 

初代GT-Rと激闘を繰り広げた2輪出身レーサー

出典:https://ja.wikipedia.org

片山義美のレースデビューは1961年、2輪の全日本クラブマンレースでした。

ホンダ系チームで2輪/4輪ともに活躍した田中健次郎の影響を受け、ヤマハワークス、スズキワークスチームを渡り歩きます。

並行して1964年からはマツダのワークスドライバーとして4輪のレーシングドライバーとしてもデビューし、1960年代末にはカワサキ系の2輪レースチーム「神戸木の実」を主宰する傍ら、マツダワークスドライバーとしての活動がメインになっていくのです。

国内レースで連戦連勝していた日産 初代スカイラインGT-R(PGC10 / KPGC10)と激闘を繰り広げていた当時のマツダワークスは、ファミリア→カペラ→サバンナと立て続けに登場したロータリーエンジン車を投入、片山義美もロータリーレーサーのハンドルを握って活躍しました。

GT-Rの50連勝を阻止したレースではカペラを駆って一時は首位を走り、結果はリタイアしたもののサバンナが勝利してGT-Rを阻止、やがてGT-Rがサーキットから引退すると、国内ツーリングカーレースでマツダが最速になったのです。

1970年代末からデイトナ24時間レースやル・マン24時間レースに参戦すると、異母弟で「ロータリーブラザーズ」と呼ばれた従野孝司、「ミスター ル・マン」寺田陽次郎などとともに1990年までマツダワークスマシンを駆り、活躍していました。

 

ファミリアロータリークーペ

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初代スカイラインGT-Rとの宿命の対決に初めて投入されたマシンが、このファミリアロータリークーペ。

コスモスポーツに続き大衆車の2代目ファミリアにロータリーエンジンを搭載し、軽量ハイパワーで直線ではGT-Rを圧倒するポテンシャルを持っていました。

ただし、トレッドの狭さなどからコーナリングで対抗しきれない面もあり、打倒GT-Rはカペラやサバンナに引き継がれていったのです。

なお、この頃のレースで既に片山義美はマツダワークスチームのリーダー的存在でしたが、当時のレース映像を見ていると「幻のレーサー」として紹介されています。

 

サバンナGT / サバンナRX-7(SA22C)

出典:http://www.katayamaracing.com/

1971年12月の「富士ツ-リストトロフィーレース」において、カペラとサバンナによる攻勢でついに打倒GT-Rを果たしたマツダワークス。

その時カペラロータリーに乗っていた片山義美も翌年途中からサバンナGT(サバンナRX3)に乗り換えます。

全面的にサバンナGTに切り替えたマツダワークスによって初代スカイラインGT-Rを駆逐すると向かうところ敵なし!同選手もサバンナGTによりツーリングカーレースや耐久レースで優勝、上位入賞を繰り返しました。

1970年代後半以降はデサントKR-1などロータリーエンジン搭載GCマシンでの活躍も増え、そして1979年と1982年にはデイトナ24時間レースに初代サバンナRX-7(SA22C)で出走、それぞれ総合5位、4位という好成績を残したのです。

画像の3台のマシンは、左からサバンナGT寺田陽次郎仕様、片山義美仕様、初代RX-7デイトナ仕様です。

 

マツダ 717C

Photo by Riceburner75

マツダワークスがル・マンで本格的にグループCカーを投入するようになると、片山義美も1983年にはマツダ717Cでル・マンに参戦を開始します。

そしてロータリーブラザーズの弟、従野孝司と「ミスター ル・マン」寺田陽次朗とのトリオが始まるのです。

300馬力の13Bロータリーを搭載した717CはCジュニアクラスで見事に優勝(総合12位)しました。

 

マツダ 757

Photo by Riceburner75

苦労したのが757で、717C~737Cまで搭載していた2ローターの13Bから、3ローターの13G(後の20B)に換装します。

それでも600馬力級エンジンを積むライバルに対して450馬力とパワー不足なため、トップカテゴリーのC1クラス(737Cまで参戦していたC2クラスには燃費が悪化しすぎて参戦不可)より車重を軽くできるIMSA-GTPクラス規定でマシンを製作。

しかしル・マンで1986年はリタイアを喫し、翌1987年も2台参戦したうちの1台は総合7位(当時の日本車最高位)でゴールしたものの、片山/寺田/従野組の757は2年連続リタイアで終えてしまうのです。

その後757は「耐久性の観点から3ローターターボより4ローターNAの方が有利」という同選手の提言により、ホイールベースを延長して4ローターの13Jを搭載した757Eへと進化、続く767や、日本車で唯一ル・マン総合優勝を勝ち取った787Bへと繋がっていきました。

 

マツダ767B

出典:https://wikipedia.org/

マツダワークスドライバーとしての片山義美が、その最後を飾ったのがマツダ767Bです。

1990年のJSPC(全日本スポーツカー耐久選手権)には途中からチャージ・マツダ787に切り替えた片山でしたが、最終戦は予選でリタイヤしたため、本戦には急遽バックアップの767Bで出走する事になりました。

767自体は片山の提言で開発されたNA4ローターエンジン、13J改(654cc×4)を搭載するため最初から専用マシンとして作られたもので、1989年に767Bへ発展するにあたり、排気系などが改良されて整備性が向上しています。

結局、片山は同年のル・マン24時間レースを総合20位で完走(IMSA GTPクラス優勝)した767Bと最後まで付き合うこととなりました。

 

まとめ

©︎鈴鹿サーキット

1990年でマツダワークスのドライバーとしては引退した片山でしたが、その後もN1耐久(現在のスーパー耐久)やJGTC(全日本GT選手権・現在のスーパーGT)のドライバーとして1998年まで活躍しました。

主にステアリングを握ったのはもちろんロータリーエンジン車(FD3S型RX-7)でした。

また、1970年代にはFL500やFJ1300、F2といったフォーミュラカーのドライバーとしてもステップアップしており、GCマシンも含め、クローズドボディ以外でも盛んに走るドライバーでもあったのです。

1990年代末に引退後は「KY-PROMOTOR」ブランドでオリジナル商品を開発しつつ、マツダのテストドライバー育成を手がけるなど第2線で活躍し続けましたが、2016年3月26日に逝去(75歳没)。

そのレーシングスピリッツは、現在のマツダにも色濃く受け継がれていると思います。

 

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