ブラジルのサンパウロ出身のフィッティパルディ兄弟は、1970年代に活躍し注目を集めました。
弟のエマーソンは2度もF1王者に輝き、1972年に達成した1度目の戴冠は当時の史上最年少記録として33年間破られることのない偉業でした。
兄のウィルソンは1972年からF1に参戦。
ブラバムで2シーズンを戦ったのち、1年間の休養を経て1975年にコスパカーというF1チームを設立し、自らステアリングを握るチームオーナー兼ドライバーとして参戦しました。
ドライバーとして活躍出来なかった兄はチーム運営に専念するため現役を引退。すると、ドライバーとして活躍する弟を自身のチームに招くのでした。
兄弟そろって同じマシンで走る姿は見られませんでしたが、チームオーナーの兄とドライバーの弟で力を合わせて戦うという珍しい体制を築いたのです。
このチームは1980年よりフィッティパルディに名を変え、1982年までF1に参戦。優勝こそ叶いませんでしたが、創設以来3度の表彰台を獲得しました。
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不思議な縁で結ばれた兄弟ドライバーたち
弟の名を息子に名付けた兄、ヴィルヌーブ兄弟
ともにF1へ参戦した兄のジルと弟のジャックのヴィルヌーブ兄弟。
ジルは攻撃的な走りで絶大な人気を誇り、当時のフェラーリを象徴するドライバーとして知られています。
一方で弟のジャックはF1にスポット参戦するも予選落ちを喫するなど、思うような成績を残すことが出来ませんでした。
しかし、その後は北米のレースを中心に活躍し、なかでもCART(チャンプカー・ワールド・シリーズ)ではカナダ人として初の優勝を記録しています。
また四輪だけでなくスノーモービルでも才能を発揮し、世界大会で最多タイとなる3度の優勝を達成し、他のカテゴリーで才能を発揮しました。
ジャック・ヴィルヌーブと言えば1997年のF1王者を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、ジルは弟と同じ名前を息子に付けたのです。
その理由は弟の話をしている時に生まれたばかりの息子が急に笑い出したからとのこと。
その後ジルは1982年に事故で帰らぬ人となってしまいますが、その赤ん坊は父や叔父と同じレースの道に進み、二人が果たせなかったF1王者に輝くのでした。
サーキットに名を残した悲劇の兄弟ドライバー、ロドリゲス兄弟
1960年代初頭に注目を集めたメキシコ出身のロドリゲス兄弟。兄ペドロと弟リカルドともに才能あるドライバーとして若い頃から将来を有望視されました。
リカルドは国内で4輪のレースだけでなく2輪でも非凡な才能を発揮していました。
その後レース活動を4輪に絞るとフェラーリの誘いを受け、19歳208日という当時の史上最年少でF1デビューを飾ったのです。
デビュー戦ではスポット参戦ながら予選2位に入る活躍を見せ、将来に期待が膨らませます。
しかし、その翌年に行われた母国メキシコGPでクラッシュを喫し、20歳という若さでこの世を去ってしまいました。
同じくレースに励んでいた兄ペドロは弟の死を受け引退を考えましたが、その後もレースを続けることを決意。
一時は弟の陰に隠れたペドロでしたが、F1で2勝を挙げると他のカテゴリーにも積極的に参戦。
ルマン24時間レースやデイトナ24時間レースという名誉あるレースを制し、高い評価を獲得しました。
しかし弟が亡くなった9年後、兄もノリスリンクでレースに出場した際の事故で帰らぬ人に。
メキシコシティにあるサーキットは当初リカルド・ロドリゲス・サーキットという弟の名を冠しましたが、現在はエルマノス・ロドリゲス・サーキット(エルマノスとはスペイン語で兄弟という意味)に改称され、彼らの功績が称えられています。
まとめ
様々なカテゴリーで活躍する兄弟ドライバーをご紹介しました。
兄弟ドライバーといえば、多くの方がシューマッハ兄弟を思い浮かべるかと思いますが、それ以外にもこれだけの兄弟ドライバーが活躍してきたのです。
なかにはどちらか片方のみが注目され、一方は忘れられた存在となっているケースもありますが、実は世界トップクラスのレースにそろって出場したというのは素晴らしい記録ですね。
その関係性は様々ですが、一つだけ共通しているのは最終的に同じカテゴリーに進んでいるということ。
それは互いに尊敬し、強く影響を与え合った証拠といえるのではないでしょうか。
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