「日本一速い男」という言葉を一人ほしいままにしたひとりのレーサーがいます。後発の若く才能あるドライバー達に実力で並ばれても尚、どういうわけか彼はそう呼ばれ続けたのです。日本を訪れたとあるF1ドライバー曰く、「日本にはホシノというとんでもなく速い奴がいる」ご存知、その名は星野一義。日本一、「青いスカイライン」が似合う男でもあります。今回は記憶に残り、そして記録にも残るそのレースキャリアを振り返っていみたいと思います。
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星野一義、その生い立ち
1947年。富士の麓、静岡県に生まれた星野は、10代の頃モトクロスでレースキャリアをスタートさせました。
プロとしてカワサキのセミワークスに所属し全日本チャンピオンに輝くも、主に「収入面で」不安を抱いていた彼は、ロードレーサーだった仲間の誘いで日産のワークスドライバー、つまり4輪のプロドライバーになるべくオーディションに参加。
実力を見込まれ、日産と契約を結んだ星野は日産自動車・スポーツ相談室所属として、スポーツパーツの開発と、開発のためのレース活動を任務として日産入りを果たします。
当時の日産・スポーツ相談室は、そうそうたる顔ぶれが揃う”華の”追浜ワークス(高橋国光氏や北野元氏らが所属)と、いわばその2軍と言える大森ワークスというふたつの部署が存在し、ルーキーであった星野は大森ワークスの所属となりました。
テストドライバーとしてパーツ開発に携わりつつ、1969年に星野は4輪レースへの参戦を開始します。
デビュー戦でステアリングを握ったのは、直列6気筒”S20″エンジンを搭載するハコスカGT-Rでした。
大森ワークス時代
いくつかのレースに参加する中で星野に注目が集まるようになったきっかけは、日産・チェリークーペで出場したツーリングカーレースでした。
日産初のFF車であり、当時はほとんど馴染みがなく、追浜ワークスの猛者たちもFRと勝手が違いすぎる「謎の挙動」に苦しみます。
結局のところ、巡り巡って大森所属の星野がドライブすることになったのです。
いわゆるタックインやコーナーでイン側が浮き上がる独特な挙動に苦しみますが、彼はこのマシンを器用にモノにし、確かな結果を残します。
癖のあるマシン・新しいメカニズムを誰よりも早く自分のものにすることで、下位カテゴリーで目立つ存在となり注目を得ることに成功したのです。
F1を越えて
70年代の星野は、兎角「良いマシン」「上のカテゴリ」へのステップアップを渇望し、フォーミュラレースを主戦場に据えて様々なイベントに出走。
驚異的な速さでトップドライバーの座につきます。
1976年には「F1世界選手権・イン・ジャパン」にも出走し、大雨で視界ゼロという地獄のようなコンディション(ニキ・ラウダが途中棄権したレースとして有名)で一時3位を走行するなど、国際試合でもその類まれな速さを見せつけます。
彼を見た国外のレーサーがそう呼んだのか、はたまた日本のライバルが呼んだのか、いつしか星野一義は”日本一速い男”と呼ばれるようになっていたのです。
実は星野は過去に数回、F1のオファーを断っていると言われています。
頂点であるF1には「持ち込み金」という風習が存在し、メーカーからのサポートが受けられない者たちはF1のシートをお金で買うことになります。
しかし、有名な彼の「プロは金をもらって仕事をするものだ。1円だって払ってはいけない」という頑たる信念に基づき、彼はこれらのオファーを断るのです。
逆に言えば、持ち込み金の2000万円さえ払えばF1のシートも届いてしまう位置に星野はいました。
F1のシートの価値を考えれば、決して法外な値段ではないはずです。
しかし星野は日本に残り、日産ワークスドライバーとしてグループCカーによる耐久シリーズ、F2などに参戦。
日本一速い男として、職人のようにひたすらに勝利を収めていきます。
ハコが似合う男
多くの人が感じているのかもしれませんが、星野一義といえばやはり、ハコでした。
1980年初頭、ヨーロッパで人気だったシルエットフォーミュラが日本にも上陸。
星野はこのスーパーシルエットと呼ばれたカテゴリでシルビアのステアリングを握り、そのド迫力の走りで人気を博します。
戦闘機のアフターバーナーのようにマフラーから火を噴く、イナズマカラーのシルビア。
速いだけでなく、スーパーシルエットでの闘魂溢れる走りでシンボリックな存在となった星野一義に、日産は更なる期待をかけます。
1985年にスタートした、JTC(日本ツーリングカー選手権)でワークスマシンのステアリングを握ることとなったのです。
当時、このカテゴリで猛威を振るったのは外車勢・・・もといフォード・シエラコスワースでした。
星野の駆るカルソニック・ブルーのスカイラインGTS-Rもそんな中善戦はしたものの、チャンピオンには手が届きません。
しかし、日産は本気の勝負を挑み続けます。
バブル景気を追い風に、2.6リッター直列6気筒DOHCエンジンを開発。
その後10年余りを第一線で戦うことになるパワーユニット「RB26DETT」は正にGr.Aのレギュレーションに合わせて設計・製造されたのです。
さらに4輪独立制御”アテーサETS”を搭載し、ほとんど前例のない4WDレーシングカーがここに誕生することになります。
ベース車のポテンシャルが物を言うGr.A規程のホモロゲーション取得の為に、日産はここまでやったのです。
そして日産は勝利を宿命付けられたマシンに、伝統の直列6気筒エンジン復活とともに再び”GT-R”の名を与えました。
次のページはいよいよ伝説のマシン”カルソニック インパル GT-R”が登場します。
縁石を飛び越える星野一義だけのスゴ技とは?