ロータリーエンジンとの死闘
長いこと海外レースに注力し、敢えて国内レースに姿を見せてこなかったマツダ・ワークス勢ですが、GT-Rと2000cc最強のS20エンジンは彼らのロータリー・エンジン技術を見せつけるに十分な標的であったと言えます。
軽量・コンパクトなロータリーエンジンは搭載するマシンの車格を選ばず、車体設計の自由度ではGT-Rに勝る長所を持っていました。
1971年5月3日の日本グランプリでは、車体剛性が強化されホイールベースが短縮された2ドア・ハードトップのハコスカGT-Rが1,2位を独占し圧勝。長谷見昌弘・高橋国光というレジェンド2人がチェッカーの瞬間までコンマ0.02秒のデッドヒートを繰り広げ、高橋国光選手が勝利。
この時点でGT-Rの 公式戦勝利数は41勝という恐るべき数字でした。
この年の終わり、1971年12月12日の富士ツーリストトロフィーレースは、S20搭載のスカイライン2000GT-R・栄光の50勝目がかかった大一番となります。
そこに来てマツダは10Aロータリーエンジンを搭載した新型車・サバンナ、更にパワフルな13Aロータリーを積んだカペラを投入してきます。
このレースはサバイバル・レースとなり、日産ワークス、マツダワークスのそれぞれにトラブルが次々と襲い、ワークス勢が軒並み脱落。
しかし残り4周でトップを走るGT-Rがフロントサスを壊し後退、パワーで劣るサバンナが、遂に不敗のGT-Rに引導を渡すこととなるのです。
そして半年後の1972年の日本グランプリ。サバンナRX-3を筆頭にマツダが1,2,3位を独占し、GT-Rの天下は実質的に終わりを迎えます。
開発の進んだロータリーエンジンは、既に熟成しきったS20エンジンと比べ開発の余地がまだまだあったのです。
そんな日産vsマツダのいわば”最後の聖戦”となったこの年の終わり、富士マスターズ250キロレースでは、死闘の末「ワークス最終仕様」のGT-Rがカペラに敗れ、この敗戦を機に日産ワークスは、ハコスカGT-Rでのレース活動に幕を下ろすことになります。
S20エンジン、驚異の最終ワークス仕様
前述の通り、1969年デビュー戦でのスカイライン2000GT-Rの富士スピードウェイ(もちろん30度バンクのフルコース)の予選ラップは2分15秒程でした。
しかし1972年、富士マスターズ250キロでの所謂”最終ワークス仕様”のラップタイムは、たった3年後の同型車としてはもはや信じられない1分59秒70という驚異的なものだったのです。
勿論、車体がハードトップになりタイヤがスリック化され、黒沢元治氏ら日産・追浜ワークスの一流ドライバーのフィードバックを受け、主に足回りなどシャシーの改良が一挙に進んできたことが最大の要因とも言えます。
正直なところ、S20エンジンそのものは登場した当初から殆ど完成された名機であり、改良の余地は非常に少なかったと言われています。
ルーカス製機械式インジェクションが目覚ましいポテンシャルアップに貢献した以外は、重箱の隅を突くような改良しか最早出来なかったのです。
ロータリーエンジン勢に勝たねばならない状況下で、日産系の大排気量SOHCエンジン「L28」をGT-Rに搭載すべきという社内からのプレッシャーがあったり、またS20を2.2リッターにボアアップする案については実際試験機が作られ、テスト結果は極めて上々だったと言われています。
それでも尚、この最終ワークス仕様のS20エンジンは頑なに2000ccの壁は破らず、燃焼室形状の更なる変更などによる正統派メカ・チューンのみでロータリーとの勝負に臨んでいたのです。
そこで絞り出されたパワーは実に264ps/8400rpm、更にこのエンジンは12000rpmまでを常用回転域として使用できたと言われています。
まとめ
実は、開発主任を担った櫻井眞一郎氏は「2000ccでどこまでのモノが作れるか」という1点のみを最後まで探求していたに過ぎず、全く異なる設計思想・構造を持ったロータリーエンジンとの性能面での競争にはさして興味を持っていなかった、と語っています。
実際、この自らに課したような技術的制約は、このS20エンジンが本来出せたであろう能力を更に限界突破させ、やがてそのノウハウは20年後の「新・不敗神話」を築いた心臓部・RB26DETTの開発へと世代を超えて引き継がれていくこととなるのです。
ワークス・ドライバーたちのフィードバックを受けての性能面の熟成はレースカーの開発に留まらず、櫻井眞一郎氏の手により市販車にもダイレクトなフィードバックが行われていきました。
GT-Rは、レーサーにとって乗りやすいクルマが一般ユーザーにも喜ばれる乗りやすいものになる、ということを証明したクルマとも言えるかもしれません。
そんな愛する我が子であるハコスカ・GT-Rについて、今や故人となった櫻井眞一郎さんは生前、目を細めながらこんな風に思いを語っていました。
「そうして熟成が進んでいって、生産が終わる寸前…俺もこのクルマ1台欲しいな、と思ったんだ。当時はお金が無くて買えなかったけど…今までで一番、本当に欲しかったクルマだね。」
-黒沢元治氏との対談にて
その開発に心血を注ぎ、商売面での賛否こそあれ、いわば採算度外視で”素晴らしいクルマ”そして”素晴らしいエンジン”を、レースを通して作り上げた櫻井氏・そしてプリンス出身の技術者たち。
その思いが今なお世界に誇れる”技術の日産”の礎になっていることを、決して忘れるべきではないでしょう。
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