ザ・ブルース&デニーショー

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1959年、アメリカグランプリで最年少優勝したブルース。なかなかの男前である。出典:http://www.bruce-mclaren.com/

マクラーレンを立ち上げた人物・ブルース・マクラーレン。

ニュージーランドからひとりイギリスに渡り、ドライバー兼メカニックとして新興チーム「クーパー」に雇われ、なんと若干22歳でグランプリ初勝利。最年少F1ウィナーの栄誉に輝きます。

しかし66年には「伸びしろが無い」とクーパーと決別し、自ら手がけるオリジナルシャーシで戦うことを決意。

レーシング・コンストラクター「マクラーレン」の歴史はこうして始まったのです。

先見の明があったブルースは、チャレンジングで賞金も高額なCan-Amの魅力にいち早く気付き、親友でありF1でともにマクラーレンを走らせていたデニス・ハルムとともに海を渡り、66年から参戦を開始。

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マクラーレンM1。日本のお父さんたちにはマクラーレン・エルバ、という呼び名の方がお馴染みかも。出典:http://www.replicarz.com/

メカニックとしても、慎重・繊細で確かな腕を持っていたブルースは優れたマシンを作り上げ、初年こそ2位に止まったものの「M8B」導入後の67年以降は破竹の勢いで勝ち始め、あれよあれよと69年までCan-Am3連覇を果たします。

特に69年シーズンは、ブルースとデニスの2人で全戦優勝という快挙を成し遂げ、ファンの間では賞賛とやっかみを込めて「ザ・ブルース&デニーショー」という言葉まで生まれてしまったのでした。

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マクラーレン・M8B 出典:http://modelingmadness.com/

そしてアイルトン・セナとアラン・プロストのように争うこともなく、2人はお互いの”ショー”を賞賛し、喜びあっていました。

メカニックたちもブルースの人柄に魅せられ、チームはまるでファミリーのようなムードだったと言います。

そんな彼らに悲劇が襲ったのは70年のこと。新車「M8D」のテスト中にブルースが事故死してしまうのです。

危険を冒さず、メンバーの安全を第一に考える男の命を奪ったのは、リアカウル脱落というマシントラブルでした。

デニスやチームのメンバーは悲しみに暮れますが、彼が命と引き換えに送り出したM8Dは恐るべき速さを見せ、Can-Amを席巻。

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マクラーレン・M8D 出典:http://www.bruce-mclaren.com/

70年、71年と天国のブルースに捧げるチャンピオン・カップを手にし、マクラーレンはなんと参戦以来5連覇という快挙を成し遂げたのです。

モータースポーツの歴史の中で、彼ほど人間味ひとつで常勝チームを纏め上げた男はいなかったかもしれません。

そして、そんな「微笑ましい連覇」を可能にしてくれたのが、自由奔放で屈託のないCan-Amというステージだったのです。

 

挑戦者・シャパラルの挑戦

破竹の勢いで勝ち続けるマクラーレンに対し、レーサー、そして「シャパラル」のオーナーでもあるジム・ホールはゼネラル・モーターズとのパートナーシップを武器に「新技術」のオンパレードで対抗。

まず他チームの度肝を抜いたのは、なんとオートマチックトランスミッションのレース投入でした。

世界で誰よりも速く「2ペダルのスポーツカー」を作ってしまったのです。

史上初めてアルミ・モノコックとFRPモノコック、すなわちスチール以外のモノコックを世に送り出したのもシャパラルです。

カリフォルニア工科大学出身の優れたエンジニアでもあった彼は実験的なこれらのチャレンジにこそ、Can-Amで戦う価値を見出していたと言えるかもしれません。

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シャパラル・2C。リアのスポイラーは左足のペダルを踏むと水平に近づき、空気抵抗が減る仕組み。オートマだからクラッチがないのだ。出典:https://www.autodrome-cannes.com/

ジムは空力によるマシンの安定性確保に熱心に取り組んでおり、車体後部のスポイラーを可変式にすることで「空力のコントロール」にいち早く挑戦していました。

その挑戦の最たるは、飛行機の羽が生む強烈な揚力を逆さまにすることで強烈な「ダウンフォース」に変える、「2E」の板状リアウイングの発明でした。

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シャパラル・2E。サスペンションアームにウイングの支柱がマウントされている。出典:http://www.ultimatecarpage.com/

みるみるうちにライバル・マクラーレンなどにも真似されてしまいましたが、それに飽き足らずドラッグを徹底的に減らした超・流線型の「2H」、そして後部のファンを使って地面に食らいつく究極のダウンフォースマシン「2J」と、その先見の明には目を見張るものがありました。

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シャパラル2H。ウイング1個であんなに効果が出るなら、これでもっと…気持ちは分かるけど、現実は厳しかった。出典:https://primotipo.com/

ところが、シャパラルは1970年にCan-Amを辞めるまで、たったの1勝しか挙げることが出来ませんでした。

それでも、シャパラルがマクラーレンを差し置いて「Can-Amの象徴」と呼ばれるのは、やはり自由奔放・速くする為ならなんでもアリの「Can-Amスタイル」を体現していたからと言えるでしょう。

 

まとめ

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72年以降のCan-Amは、地元のコンストラクター・ペンスキーとタッグを組んだポルシェが完全制圧し、ターボエンジン旋風が吹き荒れることとなります。

敵わなくなってしまったマクラーレンも、73年限りでワークス活動から撤退。

また、排ガス規制強化、そして輪をかけてやってきたオイル・ショックにより「大排気量マシン」に対する風当たりは強く、74年にCan-Amは幕を閉じることとなるのです。

アメリカらしい大らかさが育んだCan-Amの歴史は、発展途上の未成熟なテクノロジーが生んだ一瞬の幻だった、という見方も出来ます。

しかし、団結力とリーダーの人柄で勝ちまくったマクラーレンと、芸術的なまでの技術オタクであるジム・ホール率いるシャパラルの対決は、正反対過ぎて「どっちが勝っても面白い」そんなレースだったハズです。

真剣勝負なのに、少年のミニ四駆遊びの延長のような微笑ましさすらあった古き良きCan-Amシリーズ。

こんなレースを、決してノスタルジーではなく、もう一度見てみたいですね。

 

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