国内ツーリングレース50勝を果たし、名実ともに国産最強のツーリングカーとしてその名を轟かせた”ハコスカ”GT-R。かの名車には、おそらく日本車至上最も有名で、最も価値のあるエンジンが搭載されていました。その名は「S20エンジン」。プロトタイプレーシングカー用の2リッター直列6気筒DOHCエンジンを発展させた、驚くべき生い立ちをもったこのエンジン…これをセダンに搭載してしまったことから、ついた仇名は「羊の皮を被った狼」。今回の記事は、前後編の2記事構成で執筆させていただき、S20エンジンと”ハコスカ”GT-Rがどのように発展していったのか、当時のレースシーンとともに振り返っていきたいと思います。

出典:http://www.banpei.net/tag/prince-s20

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まだ前編を読んでいない方はこちらを先にお読みください。

【前編】”羊の皮を被った狼”の心臓、S20エンジンとは?それは、限りなくピュアなレースエンジンの血統。

スカイライン2000GT-R、サーキットに立つ

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国内レースのメインストリームがプロトタイプ・カーに移ったあとも、プリンス自動車のフラッグシップだったスカイラインはしたたかな進化を続けており、そんな中で”R38”シリーズの開発者であり、スカイライン開発主査である櫻井眞一郎氏は、レースカーの技術を市販車に注入した究極のGTマシンを作りたい、という構想を持っていました。

「高速ツーリングカーを作りたかったんです。鼻で感じるのではない『匂い』があるというのでしょうか。乗りこなすのは容易ではないけれど、好きな奴にはとことん好きになってもらえるクルマ。嫌な人はよそへ行ってくれるだろうという、男くさいクルマを作ろうと思っていました」

櫻井眞一郎氏談 Racing on No.444 26ページより引用

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櫻井氏が語った通り、この”GT-R”というグレードは、いわゆる「レースに勝つ為に、レース用のエンジンを引っ張って無理やりセダンに載せた」というクルマではなく、あくまで最高のツーリングカーを生み出す為、究極の市販車として一からこだわって開発された高性能車なのです。

究極の市販車である故、そのこだわりはドアを閉めた時の「音」にまで及んでおり、ヌルッと動いてガチっとおさまるそのフィーリングにすらチューニングが施されているといいます。

同時に、このGT-Rは日産自動車の”一軍”追浜ワークスによりレーシングカーとしての開発も同時に開始され、誰もが知る「50勝」という恐るべき伝説に向け歩を進めていく事になります。

プロトタイプマシン開発が終了する見通しだった為、エースドライバーも技術者もこのGT-Rの開発が新たな至上命題となっていくことは明白でした。

一方で、「日産系技術者のフェアレディZとL型エンジン」vs「プリンス系技術者のスカイラインとS20エンジン」という社内抗争もあったと言われますが、今回はS20とスカイラインの足跡に的を絞っていくこととします。

ちなみに先代であるS54型スカイラインGTは、1968年5月3日の日本グランプリでトヨタ1600GTに敗れ、最速ツーリングカーとしての地位を奪われたばかりでした。

そこにきて”プロトタイプカー”のエンジンを積んでいる、と巷でも言われたていたこのGT-Rに、並々ならぬ期待がかかった事は当然と言えます。

 

勝っても話題にならないクルマ

そして迎えた1969年のJAF GP、日産勢は4ドアなのにプロトタイプのエンジンを積んだ”羊の如き狼”、スカイライン2000GT-Rを満を持してサーキットに投入。

しかし、レース専用チューンで220馬力超といわれたそのS20エンジンのパワーに、シャシー、パワートレイン、タイヤがいずれも付いていけず、予選のラップも当初見込みを下回る2分15秒程度という結果。

追浜ワークスのエースだった黒沢元治選手をして「アマチュアが乗るには難しいクルマ」とコメントしている通り、綱渡りのようなリスキーなドライビングを要求するクルマに仕上がってしまったのです。

特にタイヤの性能が芳しくなかった当時、もはやそのパワーは余剰であり、かえってドライバビリティを下げる要素とまで言われる始末でした。

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ついにサーキットに降り立ったGT-R。高性能過ぎるエンジンにタイヤが負けており、”4輪ドリフト”しないとまともに曲がれなかった(出典:http://performancedrive.com.au/)

しかし結果は、篠原孝道氏の駆る39号車がトヨタの失格により繰り上げ優勝という、物議を醸す結末ながらGT-Rはこのレースにおいて記念すべき1勝目を挙げています。

無論この辛(から)すぎる一勝は、上位独占による圧倒的勝利を目論んでいた日産陣営にとって実質的な敗北とも言えるもので、次なる大一番である1969年10月10日の日本グランプリに向け、テストコースでの夜を徹した追い込みが始まります。

そして1969年日本グランプリは、ツーリングカークラスで下馬評通りスカイライン2000GT-Rが上位を独占。なんと1?8位を独占する圧倒的速さで本来のポテンシャルを発揮し勝利を収めます。

ここから破竹の勢いでGT-Rは次々とツーリングカーレースで勝利を収め、勝ち星を積み上げていきます。

その勝利数は1970年5月3日のJAF GPの勝利で既に19勝に登り、もはや勝っても話題にすらならない、という絶対王者として君臨。しかし一方で、宿敵・マツダロータリー勢の一角ファミリア・ロータリークーペが3位に食い込み、新たな戦いを予感させるレースとなります。

 

圧倒的な強さを誇ったスカイライン。

しかし、それを食い止める新たな敵が、マツダのロータリー勢。

次のページでは、ロータリーエンジンとの死闘、そして驚きのスペックを持った最終年のS20をご紹介します。