F1を戦った日本人レーシングドライバー、片山右京。アグレッシブな走りとユニークなキャラクターでコース内外で絶大な人気を誇るカミカゼ・ウキョウこと片山右京のレーシングドライバー人生とマシンを振り返ります。
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F1時代の経歴
1992年 ヴェンチュリー・LC92
前年の全日本F3000チャンピオンという実績が認められた事により、日本人3人目のレギュラードライバーとしてF1に参戦を開始します。
同年のカナダGPでは、レース終盤までポイント圏内を走行し続けるという健闘を見せる場面もありましたが、ラルースチームの資金難などによる戦闘力不足でノーポイントに終わってしまいます。
しかしデビューして3戦連続完走、第2戦メキシコGPでは食中毒が原因でレース中胃液を吐き、最後は吐血しながらも根性で走りきるなど、記録だけでは語れない熱い走りを見せてくれました。
決勝レースでの最高位はブラジルGPとイタリアGPでの9位。それでも、要所要所でアグレッシブな走りを見せ、日本GPでもフェラーリを抜くなどの活躍を見せてくれました。
1993年 ティレル・021
この年、イギリスを本拠とする中堅チーム「ティレル」へ移籍します。
この年からの4年間、ヤマハからV10エンジンの供給を受けて戦う事になりますが、ハイテク競争の開発費の資金調達に苦戦。
NEWマシン「ティレル・021」も開発が遅れた事により、シーズン中盤までを3年落ちのマシンである「020C」での参戦を余儀なくされました。
それに加え、満を持して投入された「ティレル・021」が期待とは裏腹に、マシンバランスを欠いた失敗作だったためシリーズをノーポイントで終える事となります。
1994年 ティレル022
1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り、表彰台、初勝利さえ期待させる速さを見せ、開幕前のテストから絶好調。
開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後サンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時、日本人最高位となる5位を獲得します。
スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするなど、日本人初のF1優勝を多くの人に予感させる走りを見せたのです。
しかし資金不足が解消する事はなく、開発が思うように進まなかった為、マシンの信頼性が上がらずにトラブルが多発。
入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多いシーズンでもありました。
また、シーズン中に翌年(1995年)ベネトン・フォーミュラへの移籍話が持ち上がったことがありました。
しかし、応援してくれている人々やメインスポンサーである日本たばこ産業の意向を確認しなければと思い、「ちょっと待ってくれ」と即答を拒み、移籍は実現しませんでした。
その決断について、後に「今から考えれば、あの時迷わずにサインをしていたら、運命は違っていただろうね。まぐれで1、2度くらいは優勝できていたかもしれない」と語っています。
1995年、圧倒的な強さを見せたベネトンチーム。
もし移籍が実現していたなら日本のモータースポーツのあり方が大きく変わっていたかもしれませんね。
1995年 ティレル・023
セッティングの幅が広くしかもセッティング変更の時間も短縮できるといわれた新機構、油圧式のハイドロリンクサスペンションを装備しました。
しかし、シーズン開幕直後からマシンには速さが見られず、第9戦ドイツGP以降は022に搭載されていたものと同じノーマルサスペンションに変更されました。
同年のベルギーGPでは雨中でスリックタイヤのまま走行を続け、16番手から4位まで浮上!
3位のマシンを7秒速いペースで追い上げるも、セーフティカーが導入された事によりタイヤが冷えてしまいクラッシュという残念な結果となってしまいます。
そしてポルトガルGPではスタート直後の多重接触事故に巻き込まれ、引っくり返ったマシンがコマのように回転するという激しいクラッシュで病院に搬送されましたが、奇跡的に大きな怪我はなく、生還を果たしました。
1996年 ティレル・024
前年のチームの成績不振と広告面での成果が予想以上の低迷を見せた事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退し、チームは資金難に陥ります。
また、チームとの契約が中々まとまらない間にティレル・024の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったチームメイトのミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められ、大きすぎるコクピットでの戦いを余儀なくされます。
トップチームへの移籍を見越して前年、チームと単年契約を結んだ事が結果的に仇となってしまうのです。
マシンはティレル・024。前年型の023に比べると大きく進歩したものの、ヤマハ・OX11Aエンジンが信頼性に欠け、8戦連続リタイアなど、良い成績を残すことができませんでした。
1997年 ミナルディ・M197
1997年はイタリアのファエンツァを拠点とするレーシングチーム「ミナルディ」に移籍します。
しかし、マシンの性能が決定的に劣ることもあり目立った成績は残せなかった事から闘志が薄れ、「後進にシートを譲りたい」との理由で、この年限りでF1からの引退を決意します。
マシンはミナルディ・M197。フォンドメタルがスポンサーとなりチームの予算は改善されたものの、車の性能は向上しませんでした。
ハートエンジンはパワー不足でしたがブリジストンタイヤと相まって、チームをグリッド最後尾から救い出し、F1が文化である国イタリアのファンの心も掴んだ片山右京のラストシーズンは素晴らしいものだったと思います。
こうして、片山右京のF1キャリアは1997年で終了しますが、この後もツーリングカーなどで様々な名勝負を繰り広げてくれました。
その詳細は…次のページで!