自分の才能の無さを感じつつも、諦めきれないレーシングドライバーへの夢。資金作りに苦労しながらもがむしゃらに行動する事でタイミングよく色々な話が舞い込んできて、レースの世界に引き戻される。そんな偶然を引き寄せる事が出来る程の、古賀選手の強い想いと行動力。その力が現在のNASCARへの道を切り開いていきました。

 

出典:https://www.facebook.com/takuma.koga.77

 

 

夢と希望と才能と。

 

何度も思い知らされる「才能の無さ」。

それでも諦めない不屈の精神とチャンスを引き寄せる力、そして類稀なる行動力が才能を凌駕する。

その事実を証明しながらトップドライバーとなっていった古賀琢麻は、いったいどのような険しい道を突き進んできたのでしょうか。

 

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ーーー フォーミュラートヨタで才能の無さを再確認してしまった訳ですが、それでもレースを続けたのですか?

レーシングオンでレーシングカートを担当をされている水谷さんという方がいて、僕がもともと落ちたオーディションの時に未来のF1ドライバーオーディションなのに、企画書の中にNASCARドライバーにもなりたいって書いてたわけ。

じゃあそもそもオーディションに来るなよって感じだったんだけど。
NASCARなんて言い出すやつは、ほんとに珍しかったから誰も知らなかった。

デイズオブサンダーしか当時、俺も見たことなかったし。

それから暫くたった時に水谷さんが、「古賀君、なんかシアトル行ったらシートがあるみたいだよ。」っていうから「マジですか!」ってなったわけ。

当時はまだ自動車部品メーカーに派遣社員として働いてて、それで当時の上司に「1週間休みをください。」って言ったの。

じゃあ、「がんばって働いてるからいいよ。」って。

で、「ちょっとアメリカ行ってきます。」ってなったわけ。

 

ーーー その後、すぐにアメリカへ?

それがパスポートも何も持ってなくて・・・。

パスポートを取るのに1週間ぐらいかかるじゃん。

名古屋だと当時の名古屋駅の上に松坂屋があって、そこにパスポートセンターがあるんだけど、電話して1週間かかるって聞いたけど例外はどうのこうのって書いてあったから、ということはどうにかすれば取れるんだと思って。

通常は1週間は発給までにかかる。

それで俺、物心ついたころには父親がいなかったんだけど、電話で「昨日、3歳から会ってない父親から電話があって、余命幾ばくで今シアトルに住んでる。大至急会いたいって僕に電話がありました。明日行かないと一生後悔するんで。でもパスポート持ってないんですよ。今すぐに発給して頂けますか?」って言ったらそこで発給してくれた。

水谷さんから連絡を貰ってシアトルに行くって決めてから、二日後にはパスポートをもらってた。

ウズウズしちゃってるから明日から行こうと思って、レーシングスーツとコンペティションライセンスAかなんかのレーシングスーツもって、名古屋空港に行って初めてアメリカに行ったの。

 

ーーー さっそくアメリカに行ったんですか?

そう!で、アメリカに行ってどうしたか思い出せないけど、それが22歳。

2000年で、レースは既にシーズンが開幕してた。

こっちでいうと、鈴鹿選手権のF4みたいな感じ。

ボディーの外板がファイバーで出来ていてエントリーモデルなんだけど、ちゃんとNASCARの形をしてて、500馬力弱はあるの。

全く英語しゃべれないんだけど、とりあえずなんとか乗せてもらったら、そこそこ走れたわけ。

俺、生まれて初めて、「あ、ちょっとやれるんじゃないか」って思ったの。

車というものに乗って向いてるとまでは思わないけど、逆に言うと俺が才能がないのは重々重々承知だけど、思ってるより走れるもんだなと初めてレーシングカーに乗って思った。

 

ーーー そこからどうやってナスカーに参戦する流れに?

それで思ったより乗れたから、シーズン折り返しの後半戦10レースに出れる事になって契約書にサインして一旦日本に戻ってきた。

で帰って来て、円とドルの計算を思いっきり間違えてる事に気づいて、アメリカって何でも安いんだなーっと思ってたから何とかなるなと思ったら、思った以上に高額だった。

兎に角あては全く無いけど、企画書もってスポンサー営業しては全て断られてた。

そんな時期によく通っていたレストランバーで、マスターが「琢麻くん、スポンサー見つかった?」って聞かれた時に、たまたまカウンターの一番奥に座ってた方が反応して「君はなんでアメリカに行きたいの?」って。

「ぼく車のレースやってて、アメリカ行きたいんですよ。」

「車のレースはヨーロッパじゃないのか。ル・マンとかF1とかイギリスとかイタリアじゃないの?」

「NASCARってやつでアメリカ行って、一旗あげたいんですよっ」て。

僕、永ちゃん(矢沢永吉)好きなんだけど、「むかし永ちゃんがビデオで男はテニスボールプレイヤーもロックミュージシャンも、ゴルファーも、レーシングドライバーもアメリカに行かなきゃいけないって言ってたんで、アメリカ行きたいんですよ。」って。

そしたらその方が、紙と鉛筆をマスターにもらって、「明日1時ちょうどに来い。」と。

ちょうどっていうのがひっかかってさ。

携帯電話で時報を聞いてピッピッピッピーンで、ピンポーンってしたら、おっさんガチャって出て来て、「お前信用できるな。スポンサーする」って。

満額出してくれて、それでアメリカに行けたの。

何でも口に出すもんだなって。それでアメリカに行ったのが2000年だね。


ただシートがあったという不確定な情報だけで、何のアポもなくアメリカへ行く行動力。

そして、英語が話せない事やお金が無い事などを、全く不利に感じない自信。

古賀選手は、その全てがラッキーだとしか思えない、スポンサーとの出会いを引き寄せ、チャンスを掴んでいったのです。


 

ナスカードライバーとしての道

 

自分の夢を口に出す事、そして無謀とも言える行動力でナスカー参戦のチャンスを手に入れた古賀選手でしたが、プロとしてレースをする上で大事なのは結果。

参戦が決まったからと言って、そこで終わるわけではありません。

”レーシングドライバー古賀琢麻”としての本当の戦いは、ここから始まったと言っても過言ではありませんでした。

 

出典:https://www.facebook.com/takuma.koga.77

 

ーーー 夢のナスカーに参戦してみてどうでしたか?

初年度から意外と乗れて、ハードチャージャーアワードっていうのをもらったの。

全米の中でも、お客さんを一番沸かせたで賞みたいなやつをもらった。

レースで賞なんてもらったことないから。だいたい今までで貰えるのはよくて3位。どこのレースでも4位か5位。

遅くないけど速くないってやつ。とっちらかっちゃうタイプで、後ろ行って、前行ってって・・・。

で、次の年ステップアップして、最初は日本で言うと鈴鹿だけのシリーズが西日本シリーズになって・・・日本で言うところのF4ぐらいのカテゴリーかな。

当時結婚したばっかの妻を助手席に乗せて、僕が20フィートのトレーラーを運転しながら次のレース会場まで移動してた。

レーシングカーと工具を積んで、日中は空き地に駐車してマシンを直したりしながら移動する。

メカニックはレース当日しかいないから、自分で工具を持って直す。

タイヤを交換するときは、他のチームは20人ぐらいいるのにうちは2人しかいないから、ジャッキをあげてるとラップダウンになっちゃたりする。

全然レースになんない。

そしたらスポンサーもあまりいい感じじゃなくて、チームも具合が悪くなっちゃって、フル参戦の予定が、5レース目ぐらいで参戦が継続出来なくなった。

それで僕が日本に帰るって言ったら、アメリカ人ってすごいなって思ったのが、じゃあいいエンジン貸してやる。

スタッフも貸してやるって言って、最後そこそこのパッケージをみんなが作ってくれたの。よっぽど哀れだったのかもしれないけど。

それで、メカニックも初めて揃って。

最後だなと思ったから、自分でアメリカのフォックスとかNBCとか向こうのスポーツチャンネルに辞書で調べて「NASCARに日本人でイチローみたいなやつがいるから見に来たほうがいい。」って自分で連絡した。シアトルタイムスだったり全部、あらゆるところに。

それで初めて、まあまあのレースができて。そこそこだったのかな?初めてトップグループで走れるようになった。

そしたら次の年にまたステップアップできて、ウィントンウェストって当時日本に来たクラス。

そこからのプロシリーズなんだよね!NASCARの。

そこのチームで2005年は、全米オールスターに出れた。

 

ーーーそこから、順調にナスカードライバーとしての道が続いて行ったんですね?

次の年からピックアップトラックのシリーズに転向して2年連続ランキング3位だった。

まーまーなんだけど自分の会社も軌道に乗せなきゃいけなかったし、ちょっとこれで才能がない割にはよくやったなみたいな感じだった。自分としては。

ちょうどその頃からシボレーの開発ドライバーの仕事が入ってきたりとか、グッドイヤーのタイヤ開発の仕事も入って来たから、今までは自費で自分でやってたのに、お金になるんだったらこういうのを生業とするほうが向いてるのかなと思って。

クルマ好きの自分が運転することでお金を頂けるなんて、小さい頃からの夢がかなったようなもので、シボレーが好きで・・・僕、アメ車が好きじゃなくてシボレーが好きだからシボレー以外どうでもいいの。

フォードもクライスラーも全然興味ないから。個人的にはね。

そしたらシボレーの開発車両のドライバーをしていた関係から、一昨年2016年にシボレーのファクトリードライバーとしてレースに出てみるって話が突然降って湧いてきたの。

自分でも11年もレースに出てないから、ありがたい話だけど大丈夫かな~なんて気持ちが正直な感じ。

でも何か嬉しいんだけどしっくり来ない。

決して狙ったわけじゃないけどシボレーの仕事とかしちゃって、シボレーのオフィシャルのパーツ作っちゃって、傍から見ると上手くやったやつに見られちゃうなと。

そんな時に改めて、何のために、何がしたくてにアメリカに来たんだろうと思い返した。

そう思ってきたら、10年以上離れていたNASCARの世界に戻りたくなった。

せっかく命かけるんだったら、一番自分が好きなことをやったほうがいいなって。

そう思ってしまったら感情が止まらなくなったので、シボレーレーシングの担当の方にすぐ電話して、「どうしてもやっぱりNASCAR出たいんですけど、シボレーの仕事なくなってもいいです。どうしてもNASCARに出たいです。」って言ったら、「いいよ。」ってあっさり。

「えー、そうなの!」って。

「日本人だからコルベットでレースしたいと思ってた。」って。


せっかく手に入れたモノ全てを失っても、信念を貫く。

その気持ちの強さと、勇気を出して自分の想いを口にした瞬間に道が開けていく不思議な力。

それこそが、古賀選手の魅力なのではないでしょうか。

そして、ナスカードライバーとしての挑戦はまだまだ続いていくのです。


 

まとめ

 

古賀選手の話を聞いていると、自分の気持ちを言葉にする事の大切さを改めて思い知らされます。

自分には才能が無いから、お金が無いからと色々な理由で、口に出す事すら勇気が出ないような大きな夢でも、言葉にする事によって可能性が0%ではなくなっていく。

そしてチャンスが来たら、がむしゃらに行動してみる。

そうやって、現在のNASCARドライバーで実業家の古賀琢麻が出来上がっていったのです。

 

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