アジア人で初めてNASCAR公式戦で5位を獲得するなど数々の記録を樹立。Motorzでも度々ご紹介させて頂いている、NASCARを愛してやまないレーシングドライバー”古賀琢麻”は、いったいどのようにして現在の場所まで辿り着いたのでしょうか。本人に話を聞いてきました。

 

出典:https://www.facebook.com/takuma.koga.77

 

 

愛知県名古屋市で生まれたレース好きの少年

幼稚園の時にレーシングドライバーになる事を決め、当時のレーシングカートライセンスが取得できる年齢(12歳)までにレース資金100万円を新聞配達で貯めたという、無類のレース好き少年だった古賀選手。

以前、motorzでもその経歴についてご紹介させて頂きました。

そんな、古賀選手のこれまでのキャリアについてはこちら!

 

出典:https://www.facebook.com/takuma.koga.77

 

ーーー古賀さんとモータースポーツとの出会いは?

12歳からゴーカート始めたんだけど、俺、すごいレースファンでさ。

もともと住んでる所が鈴鹿まで電車で2時間半ぐらいかかるんだけど、小学校1年生ぐらいには1人で行ってたのよ。

きっかけはこれといってなくて、母親1人の家庭なんだけど、物心ついたときから。

強いて言えば家の前が国道だったぐらい。車がいっぱい走ってる。

俺、77年生まれの40歳なんだけど、1980年ぐらいでオートスポーツ持ってるんだよ。

母親は、車に全く興味ないのに。

うち、音楽一家だから。全然車には興味なかった。レースなんてなおさら。

だけど、子どもの頃の絵本なんて、レーシングカーの図鑑とか、それどころかすでにオートスポーツを持ってた。

そのころからアメ車も好きだった。

中嶋悟さんが大好きで当時、当たり前だけどインターネットもなければオートスポーツなんて月1かな、しかも当時は当然ながら情報が2ヶ月ぐらい遅い。

製本が今と違って。1ヵ月ぐらい前のやつが記事になるわけでしょ。

だけど鈴鹿サーキットに月に1回電話して、今月テストいつですかって、テストから見に行ってたんだよ、俺。小学校1.2年生ぐらいから。

 

ーーー小学校低学年の子供が、モータースポーツのどういう所に興味を持ったのですか?

むかし鈴鹿サーキットの1コーナーの上って沼みたいだったの。

山田池とか言って、カエルとかもすごくて地下道なんてべったべた、汚くて。湿地帯。

あそことかの電信柱に登って、キュイーンって音が聞こえるの。

中嶋悟選手は同じ車をジェフ・リース選手と使ってもギアが1個高いんだな、今日はとか。

さすが中嶋選手はブレーキングポイントが全然奥だな、とか。

そういうのをメモってるぐらいすごいオタクなレース好きの子どもだったわけ。

当然F1ブームはまだまだ先で。中嶋選手がEPSONカラー、星野選手がLARKカラーのころ。

小学校6年生のときに中嶋選手がブラジルグランプリでF1デビューするんだけど、俺の心の中では、やっと俺が応援した中嶋悟選手がF1行ったかって感じで。

それぐらい好きだった。当時のF2ね。

中嶋選手、星野選手、ジェフ・リース選手、長谷見選手、和田孝夫選手、高橋国光選手。

スーパースターだよ、みんな。あと、ステファン・ヨハンソン選手とかエジェ・エルグ選手とかね。

すごい華があったわけよ。ホントに大好きで。

 

ーーーそんなレースファンの少年は、どうやってレースを始めたんですか?

まずはカートが始めたい。オートスポーツ読んでるから。

近所にぶるーというレーシングカートショップがあって、10歳ぐらいのときに行ったのかな。

レーシングカート始めたいんですけどって。

頭でっかちだから、12歳からライセンスを取れるのは知ってた。

いくらで初めれるんですかって聞いたら、だいたい100万ちょっとぐらいかな…。

俺3月生まれだからまだラッキーだな、マージンあるなと。レーシングドライバーは若いほうがいいじゃん。俺、約11ヵ月ぐらい得したなと思って。

とりあえず12歳までに金貯めようと思って、10歳から新聞配達やったの。

朝刊と夕刊、あと集金。

たまたまその新聞屋さんを同級生のお父さんがしてたの。

で、「働きたいです。」って言ったら、「小学生はさすがにな…中学生からだね。」って。

「わかりました、先生がOKしたらいいですか?」って。

それで、先生に「僕、新聞店で新聞配達したいんですけど。」「だめです。」って。

そんなこと言われても、俺は世界に羽ばたくんだから。

こんな小さい団地から有名になるレーシングドライバーが誕生するんだから、先生お願いだから止めないでよって。

そのとき小学4年生だったんだけど、すべてに関して逆算するタイプだから、5年生から始めたかった。

そうすると、4年生の冬休みにすぐ言わないと間に合わねーやと思って。

で、許してもらって新聞配達させてもらったの。自分の中学校にも僕が夕刊を配ってた。

当時は新聞代が銀行引き落としじゃないから、名古屋だと中日新聞なんだけど、中日ドラゴンズの手ぬぐいを集金したらあげるの。

新聞配達って普通はカブなんだけど、新聞配るエリアが団地だったらバイクのメリットがそんなにないわけ。

だからとりあえず新聞屋の大将にも、俺、倍働くから、倍、配るから、1.5倍給料くれる?って頼んでた。

そんな感じでなんとかレーシングカートが買えるぐらい貯金が12歳の時には出来てた。


車やレースを好きになったきっかけを覚えてない程幼い頃からレーシングドライバーに憧れ、片道2時間半のサーキットへレースだけではなく事前テストから見学に行くという行動力。

その気持ちの強さは10歳の時からアルバイトをし、約2年でカートを購入するという1つ目の目標を達成します。

そしてここから、不屈のレーシングドライバー”古賀琢麻”への道がはじまったのです。


 

レースの世界へ

12歳で自分の力でカートを購入し、チームに加入。

遂に憧れのレースの世界に足を踏み入れる事ができた古賀少年がまず苦戦した事、それはカートの押しがけでした。

 

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ーーー 12歳で始めた念願のカートはどうでしたか?

レーシングカートって押しがけなの。当時はね。まず押せないわけ。そもそも俺どんくさいから。

だけど、新聞配達するときでも通学路でも、常に「今日学校に行くときは鈴鹿とか富士とかのサーキットを妄想しながら、あそこが100Rに似てるなー、今日は去年モデルのマーチのF2で行こう。」と。

そうすると5速ギアで1速がロングだから、グーングーンとか言いながら毎日歩いてたの。

「今日、内側に水たまりがあるからグリップが悪いから外からいこう。」とか。

めちゃめちゃ考えて、新聞配達も前と後ろにかごがあるから、予選はフロントに加重がかかったほうがいいから最初は新聞いっぱいなのよ。

だからガソリンがいっぱいの状態じゃん?減ってきたらリアがすべるなと。

リアがすべってきたということはブレーキのバランスを前にしたほうがいいかな?後ろにある新聞を全部前にやったら、ああ、フロントが入るからアンダーが消えたとか・・・っていうことを新聞配達しながら考えてるぐらいすげー考えてるわけ。

そうか、兎に角プロドライバーとしてレースに勝つっていうのはここまでやらなきゃいけないかって、オートスポーツを見て想像してた。

でも、そういうことさえも考えてたのにレーシングカートに乗って1コーナーに行くまでに想像以上のスピードにびびった。

それで自分に才能がないことに初めて気がついたの。

何がびっくりしたって、自分に才能がないことにまずびっくりした。あまりにもひどくて。

才能のなさ具合が、やべえと。

物心ついた頃から18歳で免許が取れる日とレーシングカートのライセンスが取れる日を逆算して、毎日ひめくりカレンダーぐらい想像してたのに、俺とんでもない夢見ちゃったなと。

これはまずいと思ったんだけど、好きだからやる。でも、やってもやっても芽が出ないのよ。

そこそこは走る。でも、いつもそこそこ。

なんとなく先頭集団の方で走ってるんだけど、なんとなくなの。

俺は一生懸命だけどね。才能ねえな…と。

 

ーーー 才能が無い事を痛感しても辞めようとは思わなかったんですか?

才能ないのはいいんだけど、フォーミュラ乗りたいな、乗れればいいなと。

当時フランスのオイルメーカー主催のフォーミュラースカラシップオーディションが、レーシングカートドライバー対象にあったの。

俺はカートで全日本にも行けなかった。お金がないのもあったけど才能もなかった。

地方選手権に出てるようなやつは俺ぐらいで、ほかは全日本に出てる選手ばっかり。当時の僕には皆スターって感じ。

だから普通にやったら無理だなと思って。自分で企画書を書いて受付で配ったの。

当時16、17歳ぐらいで、レジュメだよね。プロフィールを書いて持っていった。

手書きで、写真を現像していっぱい貼っていって、レーシングスーツ着たようなやつ。

でも誤字脱字だらけで、チェック機能もないし。

持っていたら、レーシングオンもオートスポーツも全部乗せてくれた。当然落ちたんだけど。


カートで才能の無さを痛感するも、フォーミュラーに挑戦する。

それも全て、レースが好きという気持ちの強さが成せる技だと思います。

その気持ちを持ってしても越えられなかった才能という壁。

そんな古賀選手の挑戦は、ここで終わる事はありませんでした。


 

新たなる道

カート、フォーミュラーとチャンスを掴む事が出来なかった古賀選手。

どんな時でも新たな挑戦の方法を考え、行動してきた彼は、ここからいったいどんな道を辿って、どこに行くのでしょうか。

 

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ーーー カート、フォーミュラーと挑戦し挫折しても、レーサーへの道は諦めなかったんですか?

カートを、そのオーディションに落ちたのをきっかけに辞めた。

でもその時にはまだチームに支払いしきれなかった分があったから、それは払わないとなと思った。

なんでかと言うと、お父さんにカートやらせてもらってた、俺にとってはお金持ちそうな子たちが、バブルが崩壊したのか意外と払わずにとんでったわけよ。調子がいいときだけ親に払ってもらって。

俺、新品タイヤ買えなかったから、親にカート買ってもらってたボンボンが捨てたタイヤを拾ってやってたのに。

だから、先ずは何かをする前にお金を返そうと。それでひたすら働いて返したわけ。

その働いたところが、たまたま技術系の派遣会社だった。

お金を稼ぐのに手っ取り早いと思って引越し屋でバイトをしてたら、フロムエーが落ちてて、「自動車好き集まれ!」って。

時給はすごい、当時2000円ぐらいだった。やべえと思って。

すぐに電話して、今から面接に行っていいですかって。

引越し屋のバイト中だからズタボロの服装だったけど、まあいいやと思って。

時給がいいから夜勤の工場勤務かと思って面接行ったら、システムエンジニアの派遣会社だったの。

これはしまったな・・・なんでこんなとこ来ちゃったかな・・・って思ったけど、来ちゃったから取り敢えず面接だけは受けようと。

それで、何ができるの?って言うから、「整備と、車のレースが好きで」って。

そこで自分のレースの企画書持ってたから、こんなのやってるんで、って。

話してるうちに、バイトの面接に行ったのに、スポンサーをやってくれって言ってた。(笑)

そしたら偶然、そこの専務が面接官だったの。あとから聞いたらホントにたまたまだったらしいの。

その専務がむっちゃ面白い人で、「いいね、面白いね、採用」ってなったわけ。

じゃ、何ができるの?ExcelとWordできる?って。

できますよって言ったんだけど、ExcelとWordっていう言葉もその時に初めて聞いた。

すぐ電気屋行って、ExcelとWordの本買った。

もともと整備士の資格も持ってたから、仕事も直ぐに覚えられた。

小学校の頃からひたすら働いて稼ぐ事に慣れていたから、あっという間に借金返しちゃって、それでまずはカマロを買ったの。アメ車好きだったし。

 

ーーー そのままレースは辞めてしまったんですか?

ちょうどその年に、鈴鹿でNASCARが初めてあったの。

で、見に行ったの予選日から。

土曜日、予選の日に雨が降ったわけ。本場のナスカーは本来なら雨は走行しない。だからそもそもレインタイヤなんか無い。

でもアメリカ人ってすごいなって初めておもったんだけど、スリックタイヤにハンダゴテで溝を切ってんの。

めちゃめちゃやるなと思って。すごい発想だなー、かっこいいなって思ったわけ。

俺、デイズオブサンダーが大好きで。ナスカーが好きだったんだけど、コレがアメリカか~ すげーなーって。

そんで自分が乗ってたカマロのホイールと、NASCARマシンのPCDが一緒だったから、これどうするんですかって聞いたら「捨てるかな」って。

もらっていいですかみたいなやつを、どういうふうな英語で言ったのかおぼえてないけど。

で、そこで工具を借りて・・・。エキシビジョンとはいえレース期間中だよ?

ピット裏にカマロ停めてメカニックとタイヤ変えて。

俺、もうこんなハミタイでそのまま帰ったの。そしたら俺の車にナスカーのステッカーも貼ってくれて。

鈴鹿から名古屋の自宅までの名神高速が、フロリダのハイウェイみたいな感じに思えちゃうぐらい完全にNASCARの世界にノックアウトされた。

またちょうどそのぐらいの時期に、レーシングオンがレーシングカートレースの選考をしてて、フォーミュラトヨタのスカラシップやってたの。

そしたら俺受かっちゃった。1レース分だけ。

あと2レースはどうするかってなったときに、会社の面接をしてくれた専務が、「そういえば、スポンサーやってくれってお前来たんだよな。やってやるよ」って話になって、3レース出たの。

案の定だめ。そこでまた思い出すわけ。俺、才能ないこと忘れてた。


猛烈な努力とハッタリと運。

この3つが上手く噛み合って、人生が必ずレースへと軌道修正されていく。

古賀選手の話を聞いていると、「レースをする事を、レース自体に望まれている。」そんな気がしました。

そしてここから、現在のNASCARへの道へと続いていくのです。


 

まとめ

資金、才能、実力、運、タイミング。この全てが揃わないと活躍する事が難しいモータースポーツの世界で、自分の力のみで這い上がってきたと言っても過言ではない古賀選手。

今回は、そんな古賀選手の物心がついた時から憧れだったというレースの世界にどのように足を踏み入れ、何を考え、どう行動してきたのかに焦点を当ててみました。

『自分には才能が無い。』そう感じてしまった少年が、世界で活躍するレーシングドライバーに成長を遂げる道のりはどのようなものだったのでしょうか。この続きにもご注目頂きたいと思います。

 

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