「ガンさん」の愛称で親しまれている黒沢元治氏。日本を代表するレーシングドライバーとして数多くの勝利を挙げ日本一の名をほしいままにしていました。今回はその「ガンさん」が歩んだキャリアを歴代のマシンと共に振り返ってみたいと思います。
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密度の濃いレーシングキャリア
1960年代後半から70年代中盤にかけて、突出した技術を見せ日本で大活躍したレーシングドライバーがいました。
彼の名は黒沢元治、通称「ガンさん」。
2017年で77歳となるガンさんのドライビング技術は健在で、未だにビデオマガジンなどではその卓逸した技術を見せてくれています。
レースデビューが2輪だった黒沢氏は、日産のワークスドライバーとして4輪レース界へデビューします。
順風満帆のように見える彼のキャリアですが、あるところで大きく音を立てて崩れてしまうのです。
そんな黒沢氏のレーシングドライバーとしてのキャリアはいったいどのような物だったのでしょうか。
彼の巧みな技術に操られたマシンと共に振り返っていきたいと思います。
「三羽ガラス」と呼ばれた時代
日産・R382
「アール・サン・パー・ニ」の愛称で呼ばれた日産のR382は、1969年の日本グランプリの勝利を目指した日産がシャーシーからエンジンまで全てを自社製作した意欲作となっていました。
このR382に搭載された日産製V型12気筒エンジンと日産製ニューシャーシの開発を精力的に行ったのが、黒沢氏だったと言われています。
共に開発を行った設計者の桜井眞一郎氏は、黒沢氏の開発能力を後にこう評したそうです。
「ガンさんは私にとって計測器のような存在だった。」
これは、機械では計りきれない部分を黒沢氏がの経験による正確さで補い、開発に関わっていたということを意味しており、いわば「人間計測器」といえる存在だったといえるでしょう。
のちに車両やタイヤのテストを行うこととなる黒沢氏の高い開発能力は、このR382の開発時に開花していたのです。
そして、その高い開発力により出来上がったマシンは黒沢氏と高橋国光氏、そして北野元氏という「追浜ワークス三羽ガラス」と呼ばれた名手たちのドライブにより、ポルシェ917やトヨタ7などの強豪ひしめく日本グランプリで優勝、そして1・2フィニッシュという快挙を成し遂げました。
「49連勝」の立役者
ハコスカGT-R
当時日産のワークスチームに所属していた黒沢氏は、破竹の快進撃を続けていたスカイラインGT-Rに乗り、「GT-R通算49連勝」という金字塔を打ち立てた立役者の一人です。
通称「ハコスカ」と呼ばれたこのGT-Rは、日産ワークスカラーである白地に赤・青・緑などのカラーリングが施されており、黒沢氏は赤にカラーリングされたGT-Rに乗り戦っていました。
黒沢氏は、このハコスカGT-Rで通算7勝を挙げ、「GT-R 49連勝」に大きく貢献したといえるでしょう。
当時日産ワークスの若手選手であり、のちに「日本一速い男」と呼ばれた星野一義氏は黒沢氏についてこう話しています。
「日産三羽ガラスの中で、ドライビングだけじゃなくてマシンの開発、セッティング能力、全てにおいてガンさんがナンバーワンだった。」
このように、黒沢氏はドライビングにおいても車作りにおいても高い技術を持っており、日産にとってはなくてはならない存在だったといえるでしょう。
「初代」シリーズチャンピオン
マーチ722/BMW
1973年から日本で開始された全日本F2000選手権は、当時日本国内のトップフォーミュラとして開催されました。
マシンはヨーロッパなどで行われていたF2と同等でしたが、F2が量販されているエンジンを使用しなければならなかったのに対して、F2000ではレース専用設計のエンジンを使用しても良い規定となっていたため、F2を名乗らずF2000として開催されていたのです。
そして、黒沢氏は1973年にこのF2000選手権の初代シリーズチャンピオンを獲得しています。
新たなカテゴリーの初年度は何かと問題やトラブルが多く混乱が見られますが、その混乱をはね除けてシリーズチャンピオンを獲得した黒沢氏の高い開発能力は、ここでも活かされたといえるのではないでしょうか。
「明暗」の共存
マーチ745/BMW
1971年より富士スピードウェイにて開催されたグランチャンピオンレース、通称グラチャンは、日本のトップドライバーが参戦していた日本最高峰レースのひとつです。
当時日本を代表するレーシングドライバーだった黒沢氏も、もちろんこのシリーズに参戦していました。
しかし、このシリーズに参戦するにあたり黒沢氏は1973年に日産ワークスから離脱し、プライベートチームであるヒーローズレーシングへ移籍します。
そして、1974年に自らのチームである「クロサワ・エンタープライズ」を立ち上げ、チームオーナー兼ドライバーとしてマーチ752BMWに乗りこのグランチャンピオンレースに参戦を開始しました。
メーカー系ワークスチームに所属するドライバーは、所属しているメーカーが参戦していないレースに参戦することが難しく、黒沢氏はその打開策として自らのチームを立ち上げるに至ったのです。
黒沢氏がチームを立ち上げた当初は、マシントラブルも多く、勝つかリタイアかというレース展開をしていましたが、連続してポールポジションを獲得するなど、その速さは目を見張る物がありました。
その活躍はライバルにとって「打倒黒沢」ともいえる存在となり、その気持ちが頂点に達した1974年6月2日の富士グランチャンピオンレース第2戦で最悪のかたちとなって現れてしまいます。
スタート直後の激しい先陣争いで接触事故が発端となり大事故が発生。
2名の死者を出してしまう大惨事となり、その発端になったとされた黒沢氏はその責任を一手に背負わされてしまうのです。
黒沢氏が故意に接触を起こしたなどの見解もありましたが、映像などは残っていないため、事実は闇に葬られたまま。
しかし、この事故の責任を取らされることになった黒沢氏は、1年3ヵ月のライセンス停止処分という厳しい裁定を下され、事実上の追放ともとれる結果となってしまいました。
黒沢氏にとって、このマーチ752BMWは様々な遺恨を残すマシンとなってしまったといえるでしょう。
「ガンさん」の名で親しまれた名コーチ
ライセンス停止処分を受けた黒沢氏は1975年にレースへ復帰しますが、以前の速さは影を潜め、レース界を去らざるを得ない結果となりました。
レース界から身を引いた黒沢氏は暫くのブランクを経て、現役時代にサポートを受けていたブリジストンタイヤの市販タイヤのテストを任されたり、ビデオマガジンに出演しテストや講師を務めるなど、かつての経験を活かした活動を展開していきます。
その活動はレーシングドライバー時代を彷彿とさせるものであり、ドライビングのアドバイスにおいても、テストにおいても的確な指摘を行っていたといわれています。
のちにブリジストンタイヤの開発者は黒沢氏をこう評しています。
「ガンさんのようにタイヤの中身まで透いて見えるようなドライバーは今まで出会ったことなかった。」
開発者をこう言わしめるほど、黒沢氏の見解は的確だったのです。
また、ビデオマガジン内で黒沢氏が指導した一人に、現役GTドライバーとして活躍する谷口信輝選手などもおり、ドライビングに対するアドバイスもまた的確だったといえるのではないでしょうか。
まとめ
「ガンさん」こと黒沢元治氏のキャリアをマシンと共に振り返ってみましたが、いかがでしたか。
黒沢氏が活躍した頃は、まだ国内のモータースポーツが発展途上でした。
その為、黒沢氏が求めたレース活動は、当時の日本レース界にはまだ早すぎたのかもしれません。
また、黒沢氏の熱すぎる情熱は時にいきすぎた行動として現れてしまったこともあったようです。
現代のF1ドライバーに例えるなら、ルイス・ハミルトンのような存在だったのかもしれません。
現在でも尚、元気な姿でビデオマガジンなどに登場する「ガンさん」の的確な見解も健在で、過去のビデオマガジンを見返すと、貴方に合った的確なアドバイスが見つかるかもしれませんね。
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