日本でモータースポーツがブームになりつつあった1970年代前半に結成された「ヒーローズレーシング」。1976・77年に日本で行われたF1にも参加しており、「日本最強のレーシングチーム」と呼ばれていました。そんな、最強と言われたヒーローズレーシングをご紹介したいと思います。

©︎富士スピードウェイ

 

ヒーローズレーシング誕生秘話

1960年代中盤からレーシングドライバーとして活動していた田中弘氏が、現役活動と並行して1971年に立ち上げたヒーローズレーシング。

田中氏自身と黒沢元治や北野元、中野雅晴という当時のトップドライバーをチームに迎え、富士グランチャンピオンレース(GC)などで活躍していました。

田中氏は1973年の中野雅晴の事故死にを機にドライバーから引退し、チーム運営に専念することになります。

当時日本のモータースポーツは、メーカーのワークスチームや、エンジニアが主体のプライベートチームのが中心でしたが、ヒーローズレーシングでは田中氏を中心に、ドライバー・エンジニア・監督補佐など、各ポジションを完全分業化。

各セクションごとに情報の交換と共有を行い、改善をしていくという、海外で見られていた「レーシングチーム」という形を日本で初めて示したチームと言えます。

チーム発足のコンセプトは、「後世にモータースポーツを継承すること」と「ドライバーとエンジニアの育成」にありました。

これは、田中氏が現役時代に感じた日本のモータースポーツに不足していた部分であり、それを改善し世界と闘えるようになることがモータースポーツへの恩返しだと考えていたようです。

ヒーローズレーシングは田中氏の描いた理想を実現するためのチームとして存在していたと言っても過言ではないのです。

 

最強集団の完成

ヒーローズレーシングwith ナカジマ マーチ86J・ホンダ(©鈴鹿サーキット)

日本のモータースポーツが世界でも通用するようにしたいと考えていた田中氏は、チーム発足当初から日本でも指折りのドライバーをチームに迎えレースを戦っていました。

また、国内選りすぐりのエンジニアを集めることにも成功しており、ハード面もソフト面も万全の体勢が整っていたのです。

1976年には星野一義、1977年には中嶋悟、1983年には高橋徹、1990年には片山右京という当時最強と言われたドライバーを揃え、完璧とも言えるチーム体勢を構成することにより、F2やF3000などの日本トップカテゴリーで毎年チャンピオン争いに加わり、F2での3連覇をはじめとする数々のタイトルを獲得します。

そしていつしか「日本最強のチーム」と呼ばれるようになり、世界を目指す日本人選手の登竜門ともなったのです。

 

日本代表として挑んだF1

KE009(出典:http://www.gps.gpexpert.com.br/)

ヒーローズレーシングは、1976・77年に富士スピードウェイで行われたF1GPに参戦しています。

1976年は旧型のティレル007を買い取り、星野一義のドライブで参戦しました。

最終的にはリタイヤしてしまいますが、世界の強豪たちが走るのを躊躇するほどの豪雨の中、一時3位を走行して世界を驚かせる活躍を見せました。

この1976年よりヒーローズレーシングに加入した星野は、田中氏の期待を裏切らない活躍を見せたのです。

1977年は日本のコンストラクターであるコジマが制作したKE009にマシンを変更して、引き続き星野のドライブで参戦します。

そして、日本製のマシンに日本製のタイヤ、日本人ドライバーと日本のチームという「日本代表」ともいえる体勢でF1に挑んだヒーローズレーシングは、タイヤのマッチングに苦しみながらも11位完走という記録を残したのです。

残念ながら77年をもって日本GPはいったん開催終了となってしまいますが、このF1参戦は田中氏が描いた日本モータースポーツ底上げの第一歩といえる出来事となりました。

 

優れた育成能力

1986年、ヒーローズレーシングwithナカジマ時代の中嶋悟選手(©鈴鹿サーキット)

また、ヒーローズレーシングは、ジュニアフォーミュラーやマイナーツーリングカーなどで光る走りを見せていたドライバーの発掘に優れていました。

中嶋悟や高橋徹はまさにその一例であり、プライベーターで活躍していた両選手は、ヒーローズレーシングに加入するとみるみる頭角を見せ、日本のトップカテゴリーで常にトップ争いに加わる存在となるのです。

また、ベテランと若手をパートナーとして組ませることが多くみられました。

これは、ベテランには速さと安定した成績を残すことを求め、若手にはベテラン選手から多くのことを学び成長して欲しいという田中氏の考えによるものでした。

星野と中嶋のコンビはまさに田中氏が望む理想的なかたちであり、星野から多くのことを学んだ中嶋は、日本人初となるレギュラーF1ドライバーとしてフル参戦でF1界にデビューしたのです。

1992年、F1にフル参戦した片山右京選手

そして田中氏はその2人から学んだ成長術をその後の育成活動に活かし、片山右京や鈴木利男など後にF1に参戦するドライバーや、黒沢琢弥や金石勝智など後に海外で活躍するドライバーの育成に成功しています。

これは、田中氏が志したモータースポーツ界の継承と育成が見事に身を結んだ結果といえるのではないでしょうか。

 

まとめ

ヒーローズレーシング特集、いかがでしたか?

日本モータースポーツ成長期にできたチームは、日本のモータースポーツと共に成長してきたと言えます。

田中氏の経験や想いを原点として、日本のモータースポーツの理性的な形を追求したのがヒーローズレーシングでした。

現在では様々なレーシングチームが存在しており、様々なアプローチがありますが、その原点ともいえる日本最強と言われたチーム「ヒーローズレーシング」の存在を記憶にとどめておいて頂きたいと思います。

 

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