東京モーターショー2017へトヨタグループの一員として大ブースを出展し、数多くのコンセプトカーを展示していたダイハツ。そしてそのダイハツブースには、古いダイハツファンにとって忘れがたい歴史的名車の復活を予感させる1台がありました。そんなトヨタと提携前の60年代ダイハツが誇った名車、コンパーノとはどんな車だったのでしょうか?
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オート3輪の名門による4輪乗用車第1号は、イタリアン・ルックスの名車
1907年に「発動機製造株式会社」として創立し、その名の通り発動機(自動車ではガソリンエンジンやディーゼルエンジン)の製造を得意としていましたが、1930年から主にオート3輪(ほとんどはトラック)で自動車製造業に参入。
その1号車の名を社名としたのが「ダイハツ」です。
戦後もマツダや三菱、愛知(コニー)とともにオート3輪の名門として日本の復興期を支えましたが、オート3輪が4輪のトラックや軽トラに置き換えられるようになると、他社同様にダイハツも4輪車への参入を決めました。
最初はベスタやF175など商用トラックの生産から始めたのですが、戦後少数生産した乗用オート3輪、ダイハツ bee(1951年)以来久々の、そして4輪車としては初の乗用車へ参入を決め、試作車ダイハツ スポーツを1961年の全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)に出展しました。
しかし、全日本自動車ショウでの反応があまり良くなかったため、デザインを根本的に改めることになったといわれています。その後、1963年に発売されたのがコンパーノでした。
そんなコンパーノは構造的には旧態依然で手堅いものでしたが、イタリアのカロッツェリア、ヴィニャーレに委託したデザインは当時の国産車の中でも異彩を放っていたのです。
ちなみにヴィニャーレがデザインしたのは初期から販売されたライトバンだけと言われ、以後の追加モデルはダイハツ自社デザインと言われますが、いずれも原型のテイストを活かして違和感無くまとめ上げています。
また、燃料供給方式にキャブレター以外で日本初の機械式インジェクション(燃料噴射装置)を採用するなどメカニズム面でも評価すべき面があり、初期の800ccから末期には1,000cc化するなど「大衆車の大排気量化」にも対応していきました。
また、ファンによるオーナーズクラブとして「DCC(ダイハツ・コンパーノ・クラブ)」が誕生するほどダイハツファンから愛された車でした。※後に「DCCS(ダイハツ・カー・クラブオブ・スポーツ)」となり現在でも存続しています。
乗用車メーカーとして、そしてダイハツファンの原点としてコンパーノは重要な車種となったのです。
コンパーノをベースにした小型グランプリカーP-3や、「ミニポルシェ910」的にさらに発展させたP-5の日本グランプリにおける活躍もあり、小メーカーながらダイハツは奮闘したと言えます。
しかし、1960年代以降も自動車メーカーとして単独で存続するのは難しく、1967年に業務提携したトヨタの傘下入り。
トヨタ車の生産委託や企画開発など下請けメーカーとしてだけでなく、引き続き乗用車メーカーとして存続できたという意味では日野(同時期にトヨタ傘下へ)や愛知(コニー。日産傘下入り)、プリンス(日産と合併消滅)などより、ダイハツは幸運だったのかもしれません。
しかし、それは軽自動車や商用車メーカーとしてであり、トヨタ車と競合する大衆向け4輪乗用車コンパーノは1970年1月で完全消滅。
後継はダイハツで受託生産を行った2代目トヨタ パブリカのダイハツ版、コンソルテ(1969年4月発売)となり、以後ダイハツ独自の大衆向け4輪乗用車は、旧型カローラベースのシャルマン(1974年発売)、完全独自モデルはシャレード(1977年発売)で途絶えています。
旧態依然な構造を活かした豊富なラインナップ
コンパーノの構造はトラックなど商用車用のラダーフレーム(ハシゴ型フレーム)にボディを載せる旧態依然としたもので、当時既に登場していたシャシー / ボディ一体式のモノコックボディは採用していなかったため、重量面ではやや不利でした。
しかし、同時期の日産 フェアレディやホンダ S500 / 600 / 800が同じくラダーフレームにオープンスポーツボディと強力なエンジンで成立していたことを考えれば、単純に重くて古臭いと切り捨てられたものではありません。
フレームとボディが別ということは、大きな設計変更を伴わず、さまざまなボディタイプを作れるということも意味しており、フェアレディには初代シルビア(1965年4月発売)が、ホンダスポーツにもS600以降クローズドボディのクーペが追加されています。
マツダ ファミリア(1963年10月発売)同様、最初期には3ドアのライトバン、および数か月遅れで乗用登録の3ドアステーションワゴンのみのラインナップでしたが、以降ベルリーナ(2 / 4ドアセダン)、スパイダー(オープン)、ピックアップトラックと「コンパーノシリーズ」が多数登場します。
このうち、東京モーターショー2017でDNコンパーノと並び展示されたのは、フロントグリルにDCC(ダイハツ・コンパーノ・クラブ)のバッジを輝かせる、2ドアのベルリーナでした。
また、コンパーノシリーズの中でも人気だったのはオープンスポーツのコンパーノ・スパイダーで、従来のバン / ワゴン / ベルリーナが800ccエンジンだったところ、ツインキャブレターの1,000ccエンジン(65馬力)を搭載。
オープンスポーツでありながらホンダスポーツ(定員2名)や日産 フェアレディ(SP / SRは後席横掛け定員3名)とは異なる定員4名が売りとなっており、同じく4シーターオープンだったトヨタ パブリカ・コンバーティブルよりもパワフルでした。
後にスパイダーのエンジンは2ドアベルリーナにも搭載されてコンパーノ・1000GTを名乗り、キャブレターに代え日本車初の機械式インジェクション(燃料噴射装置)を搭載。
中低速トルクを向上させたコンパーノ・1000GTインジェクションも登場しています。
そして「スパイダー」の名は、後に軽オープンカーのリーザスパイダー(1991年11月)にも受け継がれました。
コンパーノから始まり、トヨタ傘下入りで終わったダイハツワークスのレース活動
コンパーノが、そしてダイハツが初めて挑んだレースとされているのは、1965年6月20日に鈴鹿サーキットで開催された「第1回KSCC1時間自動車レース」。
このレースに2台のスパイダーと2台のベルリーナがGT-Cクラスで初出場。
吉田 隆朗選手のスパイダーが予選で2位につけるなど、初戦から好調を見せました。
なおこのレースは、早逝の名ドライバーである故 浮谷 東次郎選手が伝説のホンダ S600改「カラス」でポールポジションを取っていたと言えば、そのレースにおけるコンパーノのポテンシャルが理解できるかもしれません。
決勝ではダイハツ勢が全滅(浮谷もハードトップが外れるトラブルなどで4位)するなど課題の残るレースとなりましたが、小メーカーがその後40余年にわたるモータースポーツ界での奮闘を始めた、歴史的1戦となりました。
以降コンパーノを名乗りつつ、FRP製の整流版などを被せて空力性能を向上させたスパイダーベースのP-1、ベルリーナベースのP-2を開発し、P-2は同年10月10日の「KSCCオール関西チャンピオンレース」(鈴鹿サーキット)GT-Iクラスでダイハツワークス初優勝。
翌1966年には大久保 力選手のドライブでマカオグランプリに出場し、海外レース初参戦を果たしました。
さらに同年、1,000ccのFEエンジンを1,261ccに拡大。
OHVからDOHC4バルブヘッドに換装したR-92を搭載し、オリジナルボディを載せたコンパーノ改P-3が完成。
先端からダックテールまで太いラインを引いた黄色いボディに、鳥のクチバシのようなノーズを持つ小さなプロトタイプレーシングカーP-3は、同年開催された第3回日本グランプリでの場内アナウンスにより「ピー子ちゃん」と命名され、声援を送られました。
「ピー子ちゃん」は小排気量ながら上位クラスの大排気量車を追いかけ、同クラスのアバルト シムカ1300やロータス エリートに競り勝ち見事GT-Iクラス優勝!
そして、翌年からはコンパーノ改では無くポルシェ906を参考にしたパイプフレームの本格レーシングカーP-5を開発し、P-3から受け継いだR-92をリアミッドシップに搭載して日本グランプリに出場。
1968年にはマクランサ(ホンダ S800改)などを退け、GT-Iクラスで優勝を手にしました。
このP-5まで来るとコンパーノからだいぶかけ離れますが、R-92エンジンの原型はコンパーノ用FEなので、一応コンパーノ由来と言っても良いと思います。
しかし、前述のように1967年にトヨタ傘下となったダイハツには、大レースでの活躍が許されなくなっていきました。
そして1969年夏にはレース活動を担当していたダイハツ本社研究部第4研究室、通称「RA」も閉鎖され、コンパーノに始まるダイハツワークスによるレース活動は終焉を迎えたのです。
以降、ダイハツ車のモータースポーツ活動はDCC改めDCCS(ダイハツ・カー・クラブオブ・スポーツ)を母体とするDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)に移行しますが、前年の世界恐慌(リーマンショック)による影響で2009年1月に完全終幕となりました。
しかしそこまでの44年間、ダイハツは熱心な役員などが残っていたことからモータースポーツにも熱心な自動車メーカーであり続け、その始まりがコンパーノだったのです。
ダイハツ コンパーノ 代表的なモデルのスペックと中古車相場
ダイハツ F40K コンパーノ・スパイダー 1965年式
全長×全幅×全高(mm):3,795×1,445×1,350
ホイールベース(mm):2,220
車両重量(kg):790
エンジン仕様・型式:FE 水冷直列4気筒OHV8バルブ ソレックスキャブ×2
総排気量(cc):958cc
最高出力:65ps/6,500rpm(グロス値)
最大トルク:7.8kgm/4,500rpm(同上)
トランスミッション:4MT
駆動方式:FR
中古車相場:69万円(ほぼ流通無し。参考値はベルリーナ)
まとめ
コンパーノが発売された1963年当時、トヨタ パブリカ(700→800cc)、マツダ ファミリア(800cc)、三菱 コルト600 / 800(600c / 800cc)など、小型大衆車は軒並み600~800ccクラス。
その中で生まれたダイハツ製800cc大衆車はオーソドックスで手堅い作りに現在の視点で見ても日本車離れしたイタリアンルックスが売りで、他社同様1,000ccクラスへと拡大していく余裕もありました。
しかし、1966年に日産 サニー、トヨタ カローラが登場してベストセラーになると、このクラスは急速に需要が冷え込んでいき、販売力の強いトヨタ、あるいはロータリーエンジンのような特色を持つマツダのようなメーカーでないと生き残れなくなっていきます。
その中でダイハツがコンパーノで独自路線を貫かず、トヨタ傘下入りして下請けメーカー化したのは、日本の自動車界から「1つの個性」が消えかねない出来事でしたが、以後もダイハツはトヨタ傘下とはいえどこかユニークなメーカーとして生き残りました。
早期にトヨタ傘下入りしたことで、そのメリットを最大限に受けつつ、個性を残す術を長い時間をかけて学んだのかもしれません。
2016年にトヨタの完全子会社化されてからは逆に、永い眠りから覚めたような新コンセプトを展開、東京モーターショー2017には新世代のダイハツを占う5台のコンセプトカーを展示。
そのうちの1台は「DN COMPAGNO」と名付けられ、コンパーノ・2ドアベルリーナと並べて「コンパーノの再来」をアピールしたのです。
そして1リッターターボまたは1.2リッターハイブリッド搭載を想定した、一見2ドア風の4ドアクーペは「中高年層向けに豊かなセカンドライフを彩る新しい提案」と紹介されていました。
発売されたら、まずは「DCC」ダイハツ・コンパーノ・クラブ再興からもう1度やり直し!と考えても、面白いかもしれません。
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