今回の主役はクルマでも人でもなく、更に言うとサーキット…でもなく、たったひとつの魔のコーナーです。1966年の開業当時、鈴鹿サーキットより長い1周6キロ、ホームストレートは1.7キロの超弩級高速コースだった富士スピードウェイ。今回はその伝説の1コーナー”30度バンク”についてのお話です。
富士スピードウェイの誕生
富士スピードウェイは、今でこそTOYOTAのホームコースとして「日本一安全なサーキット」と言ってもいい最新設備を取り揃えたグランプリコースですが、記憶に新しい2005年の大改修までは、オープン当初の面影がまだまだ残ったノスタルジックなサーキットでした。
富士スピードウェイが完成したのは、遡ること高度成長期の1966年。
日本の自動車文化はまだまだ草創期、各メーカーが自社の技術力を見せる為、文字通り威信をかけて国内外のレースに出場を始めた頃です。
”スピードウェイ”の所以
もともとこの地にサーキットが生まれたきっかけは、「海外メーカーに負けぬよう、高速で自動車をテストする環境が必要」更には興行を上げる為に「日本にNASCARを誘致しよう」と言う話が発端でした。
そんな事情からなんと、当初はデイトナスピードウェイをモチーフにしたオーバルコースの建設が予定されていました。
しかしかの名ドライバー、スターリング・モスが来日の際、「こんなところにオーバル作るだなんてナンセンスも甚だしい」と言い残したように、広大な富士の裾野のその土地は傾斜地で、ホームストレートとバックストレートの予定地には、高低差が必ず生まれる地形でした。
オーバルコースはアメリカの荒野のような有り余る広大かつフラットな土地があって初めて建設が出来るコースであり、本場のオーバルを見た人であれば「本当にこんなところに作れるのか」とモスでなくとも疑いを持ったことでしょう。
そして彼の言葉通り、「1コーナーの建設が完了した段階で」オーバルコース建設は頓挫。
更に契約料が高額という理由でNASCAR開催も企画倒れになります。
当初の設計が見直されて、今の形に近いインフィールドセクションを設けたプランが決定し、サーキットの名前は「富士スピードウェイ」と決まりました。
世界的にもスピードウェイを名乗るオーバル以外のサーキットはココしかありませんが、これはオーバルコース計画の名残と言うわけです。
魔の30度バンク
今でも知られる最大の特徴、1.5キロを超える超ロングストレートは、開業当時よりやや短くなっているものの、今も昔も富士の醍醐味です。
しかし、かつてそのストレートの終わりには、オーバルコースの名残とも言える狂気のコーナー・30度バンク、通称”すり鉢バンク”がそびえていたのです。
かつての1コーナー、30度バンクは、現在の1コーナーのランオフエリアの先…更に直進しなだらかな坂を降り、傾斜に張り付くようにそそり立つ巨大なバンクに、”全開”で正面から飛び込むと言う途方もないコーナーでした。
30度と言うと大した傾斜じゃないようにも聞こえますが、正面から見るとほとんど垂直の壁に見えるほどの恐ろしい角度です。
250キロを超えるスピードで侵入すれば体感的には垂直だったとも言われています。
命懸けのコーナリング
1.7キロのストレートを過ぎ全開で30度バンクに近付くと、1段下がるように傾斜がきつくなるポイントがあります。その直後からバンクに突入するのですが、映像を見ていてもコーナーの外側の簡素なガードレールにはじき出されるような背筋の寒くなる感覚をおぼえます。
出口に向かって巨大な”コークスクリュー”の様にぐんぐん傾斜を下りながら、アンジュレーションだらけの全くアールが均一ではないそのバンクにマシンを打ち付けられながら、マシンはコーナー出口に吸い込まれていきます。
かつてレーサーたちは「叫びながら」このコーナーにアクセル全開で飛び込んでいったと言います。
たとえ話でなく本当にフロア下を打ちつけられる為、補強されていない鈴鹿仕様で走ろうもうものなら底付きしてサスペンションが壊れてしまうなんてこともあったといいます。
道幅こそ広いものの、路面も悪くバンピーだった為、最速で抜けるための侵入ラインは1本のみ。
ストレートエンドではこの”たった1本のライン”の争奪戦が展開され、それはまさに命がけの戦いでした。
1本ラインを外れればバンクの外にはじき出されるか、バランスを崩してスピンアウトするか…その壮絶さは、語るべくもなく以下の動画から見ていただくことができます。
まとめ
60年代から70年代のモータースポーツは、闘牛士のような”命知らずが挑むスポーツ”だったと言えます。
実際、この30度バンクを全開で抜けるということは、多くのレーサーにとって究極のカタルシスだったようです。
観ている方も、「とんでもないことをやっている」のが一目瞭然だったことでしょう。
今、サーキットに流れている緊迫感とは全く異質な空気が、当時の映像からですら伝わってきます。
この30度バンクを含む旧コースは、1974年、富士GCシリーズ第2戦で発生した風戸裕氏、鈴木誠一氏2名の事故による、尊い犠牲と引き換えに「余りにも危険」と判断され、廃止されました。
その一部は、実は今も富士スピードウェイ・1コーナーの彼方に”30度バンクメモリアルパーク”として静かに眠っています。
今も尚、花をたむけずともこの地を訪れるレースファンたちは、かつてのヒーローたちに何を思うのでしょうか。
危険と隣り合わせの未熟なテクノロジー。
しかし30度バンクの時代は、クルマに無限の可能性・夢が広がっていた、幸せな時代でもあったのかもしれません。
確かに当時の空気を感じることができますので、ぜひ一度足を運んでみてください。
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