50周年を迎えた富士スピードウェイは、1966年に誕生して以来、様々な時代背景や環境の中で変化を遂げてきたコースでもありました。今回は富士スピードウェイの誕生からコースレイアウトの変更を振り返っていきたいと思います。
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富士スピードウェイの誕生
富士スピードウェイは当初、長時間の高速走行可能な国産車の開発や、外国車にひけをとらない国産車の開発を目的として発案され、建設されました。
そのため、コースレイアウトはオーバルトラックが予定されていたのですが、地形の構造上の問題でオーバルコースの建設が困難なことが判明します。
その後、ヨーロッパ風にレイアウト変更が成され、1966年(昭和41年)1月3日にオープンしたのです。
そんな富士スピードウェイのレイアウトを振り返っていきたいと思います。
30度バンクのハイスピードレイアウト時代
1966年、1周6kmのレイアウトでスタートした富士スピードウェイは、当初のオーバルコース設営の名残とも言える30度バンクや1.7kmのストレートをはじめ、ヘアピンを除きほぼアクセル全開となる屈指のハイスピードレイアウトとなっていました。
開催されるレースによっては、反対回りでコースが使用されていた事も初期レイアウトの特徴です。
トヨタ200GTやプリンスR380などが活躍した日本グランプリをはじめ、富士200マイルレース(日本Can-Am)など、今でも多くのファンの記憶に残っているレースが多数行われました。
30度バンクが廃止され「旧コース」レイアウトに
数々の名場面を生んだ当時の30度バンクのコースレイアウトですが、ハイスピードすぎるが故にアクシデントが多く、1974年をもって閉鎖となりました。
これに伴い、ショートカットをする形で1コーナーが新設。このためホームストレートが約1.5kmに短縮され、全長も5kmを下回るコースで、レースが再開されます。
長いストレートの後に新設された、すり鉢状の1コーナーは車の性能とドライバーの技術と度胸が試され、ハイスピードレイアウト特有のチャレンジスピリッツはコースの変更前と変わらずに残されたのです。
その後も細かい部分での改修が行われ、1984年にほぼ全開区間であったヘアピンからホームストレートの間にシケインが新設されました。これがダンロップシケイン(Bコーナー)です。
高速域で、ステアリング操作をしながらのブレーキングが要求されるなど、難易度が高く、追い抜きポイントのひとつともなっており、見どころのあるコーナーとして注目を集めました。
1986年には、1コーナーのレイアウトが見直され30Rと60Rを組み合わせた鋭角なヘアピン状の複合コーナーへと変更されます。
そして翌年には、よりエキサイティングなレースが展開されるようにと、100Rの前にシケインが新設されました。
今まで緩いS字状だったコーナーがシケインとなったため、ここでも高速域からのフルブレーキングを要求される事になり、ダンロップコーナーと同じく追い抜きポイントの一つに。
また当時は、サントリーシケインを「Aコーナー」、ダンロップシケインを「Bコーナー」と簡略化して呼ばれることもありました。
このレイアウトは2003年まで使用され、リニューアルに伴う閉鎖までに、数々の名勝負が繰り広げられました。
テクニカルレイアウトの時代
生まれ変わった富士スピードウェイ
2004年、富士スピードウェイはオープン以来となる大改修を行います。約1年6ヶ月にわたって閉鎖し、コースレイアウトの変更はもちろん、ピットビルやグランドスタンドも全て新しくしました。
新しいコースレイアウトを設計したのはヘルマン・ティルケ氏。この時期にF1開催のためにオープンしたセパン・インターナショナル・サーキット(マレーシア)や上海インターナショナルサーキット(中国)なども手がけており、近代的なコースレイアウトとして生まれ変わりました。
以前までのハイスピードコースから、コース全体では旧レイアウトの倍近くとなる16のコーナーが用意され、ハイスピードの前半セクション、テクニカルな後半セクションに分けられていました。
全長4.563kmのコースはリニューアルから現在まで改修は行われておらず、レイアウトの完成度が非常に高いコースとなったのです。
これでF1開催に必要な「グレード1」規定をクリアし、2007年と2008年にF1日本GPが開催されました。
あんなドライバーやこんなマシンも、富士スピードウェイを走った!
50年の歴史を持つ富士スピードウェイ。過去には、2度のF1チャンピオンのレジェンドドライバーであるジム・クラークが、サーキット設立直後の4輪オープニングイベントに来場、F3車両にてデモランを行いました。
当時は、F1世界選手権の日本開催実績もなく、クラークのような世界を代表するドライバーが日本にやってきたとあって、かなりの注目を集めたようです。
1976年に開催されたF1世界選手権イン・ジャパンでは、あの6輪F1マシンで有名なティレルP34が富士スピードウェイを駆け抜けました。
予選ではエースのジョディ・シェクターが5番手に入りますが、決勝ではリタイア。代わりに13番手からスタートしたパトリック・ドゥパイエが2位に入る活躍を見せました。
まとめ
富士スピードウェイのレイアウトについて振り返ってみましたが、いかがでしたでしょうか?
高度成長期真っ只中に生まれた富士スピードウェイは、様々な時代背景と共に変化を遂げ、共に成長してきたと言っても過言ではありません。
馴れ初めや出来事などを深く知ると、様々な角度から新たな見方や発見ができるかもしれません。
皆さんも是非富士スピードウェイの新たな魅力を探してみてください。
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