4度のワールドチャンピオン、通算51勝という現在でも歴代トップ3に入る記録を打ち立てたアラン・プロスト。この大記録を達成した裏には、幾度も繰り広げられた強豪ライバルとの対決に勝利してきた功績があります。現在でも精力的にサーキットへ足を運ぶアラン・プロストは、いったいどんな現役時代を過ごしてきたのでしょうか。
『教授』と呼ばれたレーシングドライバー
『プロフェッサー=教授』
これは、頭脳をフルに活用してレースを戦うアラン・プロストが現役時代に揶揄された呼び名です。
若かりし頃のプロストは他の若手と同じく、『速く走って勝つ』ことを意識してレースをしていました。
しかしそれだけではワールドチャンピオンにはなれない事に気づいたプロストは、次第にそのスタイルを変えていきます。
何がプロストを変えたのか。そして、どのように変わっていったのでしょうか。
プロストがプロフェッサーと呼ばれるようになった所以を紐解いていきたいと思います。
フランスの期待を一身に背負った青年
アラン・プロストは20歳になる1975年までレーシングカートで活動し、フランス国内のジュニア選手権やヨーロッパシニア選手権でのチャンピオンを獲得します。
そしてカートを卒業した1976年からは、フランス国内のフォーミュラールノーに参戦。
13戦12勝、6ポールポジションと11のファステストラップを記録し、圧倒的な速さでチャンピオンを獲得しました。
翌77年はヨーロッパ・フォーミュラールノー選手権に参戦し、ここでも圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。ヨーロッパF2選手権にもスポット参戦しています。
その後も1978年にはフランスF3チャンピオン、翌79年にはフランスとヨーロッパF3チャンピオンを獲得。
その無敵とも言える結果が、翌年のF1デビューの足掛かりとなりました。
そうしてジュニアフォーミュラーにステップアップしたプロストは、地元であるフランスのルノーエンジンから支援を受け、フランスの期待を一手に背負った若手ドライバーとなっていったのです。
ちなみに、当時のモータースポーツ界は国を挙げてサポートをしている場合が多く、特にフランスは国・メーカー・チーム・スポンサーが一体となってドライバーをサポートする傾向にありました。
また、プロストが頭角を現した時期は丁度フランス勢の世代交代ともいえるタイミングとも言え、翌80年にF1デビューが決まった時点で、それは同時にフランス中の期待を一手に背負う事を意味したのです。
いよいよ、F1ドライバーとしてのキャリアが始まったプロスト。なぜ彼が「プロフェッサー」と言われるようになったのか?次のページで紹介していきます。