速さを求めた若武者時代

 

出典:http://f1history.wikia.com/wiki/Alain_Prost

 

1980年にプロストは、マクラーレンよりF1にデビューします。

そして、デビュー戦での6位入賞を皮切りに、4度の入賞を果たしました。

当時のマクラーレンはマシンの戦闘力が低かったため、新人のプロストが4度入賞しただけでも十分賞賛される成績でしたが、マシンの性能以上の走りを求めたプロストは、自らのミスでクラッシュし、レースを終えることもたびたび。

それは、プロストの誰よりも速く走りたいという、妥協なき姿勢をそのまま体現したかのような結果です。

その後、低迷気味のマクラーレンに見切りをつけたプロストは、翌81年からルノーに移籍し、地元フランスで初優勝を飾ります。

そして83年まで在籍する事になる、ルノーチームで様々な経験を重ね、その経験がその後のキャリアに大きく影響する事になりました。

その1つは1982年のドイツGPで、雨の中行われた予選中に同じフランス出身のディディエ・ピローニがアタックを終えてスロー走行していたプロストに追突。

キャリアを終えなくてはならないほどの大怪我をしてしまいます。

これを機にプロストは、雨のレースを徹底して嫌うようになりました。

また、速く走る事=チャンピオンになれると考えていたプロストは、予選で速く走り前方のグリッドを得ること、そして可能な限り速く走って逃げ切る事を目標としていましたが、求める速さにマシンがついてこずクラッシュしてしまったり、マシントラブルに見舞われる事もあり、82・83年とチャンピオンになれるチャンスを掴めずにいました。

その結果、ルノーチームがその原因をプロストに全て押し付けた為、今度は国を挙げてバッシングされる事になります。

プロストはこの事実に耐えかね、母国フランスを離れスイスに転居し、ルノーとの契約を解消することを決意したのです。

 

教授への足掛かり

 

出典:http://f1history.wikia.com/wiki/Alain_Prost

 

1984年、そんな失意のプロストに古巣であるマクラーレンを立て直したロン・デニスが声をかけ、翌年からマクラーレンに復帰する事になります。

そして、ニキ・ラウダのパートナーとしてマクラーレンに復帰したプロストは、移籍初年度からラウダとチャンピオン争いを繰り広げるも、わずか0.5ポイント差でチャンピオンを逃すという残念な結果で終了。

この年わずか0.5ポイント差でチャンピオンを獲得したニキ・ラウダは、当時プロストに「来年は君の番だよ。」と声をかけたと言われています。

 

出典:http://f1-history.deviantart.com/art/Niki-Lauda-Alain-Prost-1984-331848698

 

ラウダの発言通り翌85年、アラン・プロストはフランス人として初めてのワールドチャンピオンに輝くのですが、プロストには前年ラウダに敗れた時に強く感じたことがあったそうです。

それは、チャンピオンになるために必要なのは『速さ』ではなく『強さ』だという事。

そして、速く走るだけではチャンピオンにはなれないと悟ったプロストは、85年シーズンに5勝を含めた11回もの表彰台を獲得する安定した戦績を収め、圧倒的な強さを見せたのです。

翌86年も最終戦までウイリアムズに乗るネルソン・ピケとナイジェル・マンセルの2人とチャンピオン争いを繰り広げますが、チャンピオン争いに熱くなった2人を尻目に、速く安定した走りを見せたプロストが最終戦で逆転。

2年連続でワールドチャンピオンを獲得するという劇的な展開を演じました。

このように、安全マージンを持ちつつ、必要に応じてペースアップなどのコントロールをしながら走るプロストのスタイルは、いつしか『プロフェッサー』と呼ばれるようになり、チャンピオンになる1つの手本を示したのです。

 

四天王対決

 

©︎鈴鹿サーキット

 

1986年にチャンピオンを争ったプロスト・ピケ・マンセルに、メキメキと頭角を表したアイルトン・セナが加わり4人でのチャンピオン争いが繰り広げられた1987年。

この頃から,この4人による熾烈なチャンピオン争いが展開され、後に『四天王対決』と呼ばれます。

そして安定が武器のプロスト・ピケに速さで挑むマンセル・セナの対決は激しいバトルを生み、時にはコース外でのバトルになることも!!

また、当時は直接コース上でのバトルはなくとも、作戦や心理戦でレースをコントロールするという、心・技・体すべてを使うハイレベルな戦いが見られたのも、四天王対決の特徴と言えました。

中でもプロストは特に心理戦に強く、自らを貫くことに長けており、時にはFIA関係者やマスメディアの協力を得て優勢を勝ち取ることもあったのです。

 

©︎鈴鹿サーキット

 

88・89年とチームメイトであったセナとは、特にそういった場面が多く見られ、『セナ・プロ対決』と呼ばれたその戦いでは、度々プロスト自身が批判されてしまうこともありました。

しかし、それはプロストとセナの実力が拮抗していたからにほかならず、同じ車両と拮抗した技術で勝負をつけるには作戦や心理戦という第3の分野での勝負が必要とされ、それに勝利したプロストは1989年のワールドチャンピオンを獲得するのです。

それについて後に、プロストはこう語っています。

「周りから何を言われても自らを貫く行為は、以前のチームメイトであるニキ・ラウダから学んだ1つの強さだ」と。

 

@鈴鹿サーキット

 

その後、90・91年とフェラーリで過ごしますが、自らを貫くそのスタイルはフェラーリ首脳陣とは折り合いが悪く、90年はチャンピオン争いをするも91年は低迷。

しかし、やはり四天王と呼ばれたこの4人は必ず上位争いを展開し、若手もこの四天王を目標としてレースを戦うという一つの指標となっていました。

 

「記録」という置き土産

 

©︎鈴鹿サーキット

 

1992年、フェラーリを離脱したプロストは1年間の休養を取り翌93年、ウイリアムズのNo1ドライバーとしてGPに復帰します。

この93年はまるでプロストのレース人生の総決算ともいえる象徴的なシーズンでもあり、安定したレース運びで勝てるレースは確実に勝つ、嫌いな雨のレースは必ずトラブルに見舞われる、パートナーであるデーモン・ヒルにレースの勝ち方を伝授する、などプロストの経験した事がこの1年に凝縮されているかのようでした。

プロストはこの93年にワールドチャンピオンを獲得し、引退を発表します。

F1に復帰、F1で優勝、F1でチャンピオン、F1を引退。

すべてを1年で経験したドライバーはプロストただ一人しかおらず、偉大な記録として、現在も多くの人々の記憶に深く刻まれているのです。

 

©︎鈴鹿サーキット

 

ワールドチャンピオン4回は当時歴代2位、優勝回数51回は当時歴代1位の記録でした。

一人勝ちが難しかったF1四天王時代に打ち立てたこの数字は、プロストがプロフェッサーと呼ばれるにふさわしいドライバーであることを証明しています。

93年終了後、同じチャリティーカート大会に参加した最大のライバル、アイルトン・セナがスムーズに走るプロストの走りを見てこう話したと言います。

「どうしてあの走りであのタイムが出せるんだ!信じられない!」

カテゴリーは違えど最後までライバルを唸らせたプロストの走りは、速さと安定を兼ね揃えた最強の走りと言えるのではないでしょうか。

 

まとめ

 

©︎鈴鹿サーキット

 

プロフェッサー”アラン・プロスト”特集、いかがでしたか?

レーシングドライバーのお手本ともいえる『プロフェッサー』のレース人生は、意外にも波乱万丈なものでした。

『教訓』を胸に、チャンピオンへの階段を1段1段上がっていったプロストの打ち立てた記録は、学んだことを反映できる頭脳や技術を持っていたからこそなしえた偉大なものです。

激動の時代を最後まで第一線で活躍したプロストのスタイルは、実際にレース活動に取り組んでいる方にとっては本当に良いお手本となるのではないでしょうか。

 

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