かつてF1では当たり前のように存在したタバコ広告のマシンは、鮮やかなカラーリングでファンに愛されてきました。2008年の広告規制と同時に姿を消してしまいましたが、今回はそんな記憶に残るタバコカラーのマシンたちをピックアップしてご紹介していきます!

 

©︎鈴鹿サーキット

 

F1とタバコ広告の始まり

 

©︎Tomohiro Yoshita

 

F1に初めてタバコ広告がやってきたのは1968年のことでした。

ロータスがチーム名にゴールドリーフという名を冠し、マシンのカラーリングをタバコのデザインに変えたことがF1におけるタバコ広告の始まりと言われています。

それ以降、多くのタバコメーカーが効果的な宣伝を行えるF1に深く関わるようになり、チームにとっても多くの資金を持ち込んでくれる企業は有難い存在だったのです。

 

©︎Tomohiro Yoshita

 

そうして両者の思惑が一致すると、いつしかレースでは無数のタバコカラーのマシンが見られるようになりました。

しかし、世界的に禁煙への風潮が広まるとヨーロッパを中心に広告を規制する動きが強まり、2008年にはついにF1においてタバコ広告が禁止されることとなりました。

ではこれまでファンに愛されたタバコカラーのマシンにはどのようなものがあったのか。その一部を振り返ってみようと思います。

 

アイルトン・セナ、中嶋悟がドライブした黄色のロータス

 

©鈴鹿サーキット

 

まず最初にご紹介するのはロータス99Tです。

ロータスはそれまで黒を基調としたチームカラーを、キャメルの支援を受けたことで黄色に変更するという大胆なイメージチェンジを行い注目を集めました。

このカラーリングは4年間に渡って続き、アイルトン・セナやネルソン・ピケ、中嶋悟といった1980年代を代表するドライバーが操ったことで、記憶に残っている方も多いかもしれませんね。

1987年に投入されたロータス99Tはホンダエンジンを搭載し、またアクティブサスペンションを採用したマシンとして初めて優勝を飾ったことでも知られています。

 

©︎鈴鹿サーキット

 

このマシンはセナにとって3年間在籍したロータスで最後にドライブしたマシンであり、モナコGPを制するなど年間2勝を挙げる活躍を見せ、その翌年から名門マクラーレンへの移籍を果たしました。

また、そのチームメイトとしてこのマシンを駆ったのは、F1デビューを飾ったばかりの中嶋悟でした。

イギリスGPでは当時日本人として最高位となる4位入賞を達成。さらに母国の日本GPでは1コーナーでアウトから追い抜きを見せ、ファンを湧かせる走りを披露しました。

 

F1ブームを象徴するマールボロカラー

 

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続いてご紹介するのはF1で最も成功を収めたマシンに推す声も多いマクラーレンのMP4-4です。

現在、F1で再びタッグを組んでいるマクラーレンとホンダの名を世界中に轟かせたこのマシンは、1988年にセナとアラン・プロストによって操られ、16戦15勝という圧倒的な強さを見せました。

彼らのタイトル争いはセナプロ対決と呼ばれ、世界中から大きな注目を集めたので広告面でも大きな成功を収めた1台となりました。

このMP4-4はF1マシンとしては短い半年間で製作されたため、開幕前には準備不足が懸念されていたのです。

 

©️Motorz

 

ところが、いざ開幕してみると10度も1-2フィニッシュを達成し、速さだけでなく当時としては異例とも言える高い信頼性を確立することに成功しました。

またセナが初めて王者に輝いたマシンということも根強い人気を誇る理由です。

マクラーレンとマールボロの関係が始まった1974年から、22年に渡って続いた歴史のなかで最も有名なマシンとして、現在も注目を集めています。

 

フェラーリとも栄華を掴んだマールボロ

 

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マールボロはマクラーレンとの関係の他に、1984年からは同じく名門であるフェラーリへの支援も行ってきました。

写真のように、大きなロゴがマシンに描かれるようになったのは、1997年から。そこから着実に力をつけ、ミハエル・シューマッハが黄金期を築き上げたフェラーリでも大きな注目を集めました。

なかでもシューマッハが最後にタイトルを獲得したF2004は、その名の通り2004年に投入されたマシンでフェラーリの歴史なかでも無敵の強さを見せました。

©︎鈴鹿サーキット

 

シューマッハは開幕5連勝を含む年間13勝を挙げ、これは年間最多優勝として現在も破られていない快挙を達成。さらにはチームメイトのルーベンス・バリチェロと合わせると計15勝を数え、2000年代のフェラーリの強さを象徴するマシンとなりました。

マールボロはタバコ広告が規制された以降も、広告が出来ないにも関わらずフェラーリへの支援を続けました。その名が載せられたスペースにはバーコードのようなデザインに変更されます。

しかし、これはサブリミナル効果(視聴者に対し無意識に広告であることを認識させる広告)であるとの批判を受け、2011年にバーコードの部分を撤去することになりました。

 

2世ドライバーの対決を演出したFW18

©鈴鹿サーキット

 

ロスマンズの名をマシンに刻み、1990年代に多くの勝利を掴んできたウィリアムズ。チームカラーである青にマッチしたこのタバコ広告も印象深いカラーリングとしてお馴染みとなっています。

1996年に活躍したこのFW18は年間12勝という素晴らしい記録を残しましたが、なかでも開幕戦のオーストラリアGPは多くの関係者に強烈なインパクトを与えました。

ジャック・ヴィルヌーブが実に24年ぶりとなるデビュー戦でのポールポジションを獲得。決勝はチームメイトのデイモン・ヒルが優勝を飾り、見事に1-2フィニッシュを達成。

 

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この活躍で勢いに乗ったウィリアムズは序盤から独走態勢に入ると、チームメイト同士が激しく王座を争うことに。この両者は共に父が伝説的なF1ドライバーだったことから、2世ドライバーのタイトル争いと呼ばれたのです。

中盤ではヴィルヌーブの追い上げもあって勝負は最終戦までもつれ込み、ここで見事に優勝を飾ったヒルが史上初となる親子でのF1王者に輝きました。

 

マイルドセブンによって水色になったベネトン

 

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1994年にシューマッハが初めての王座を獲得したマシンであるベネトンB194。マイルドセブンと言えばこのマシンを思い浮かべる方も多いかもしれませんね。

この前年までベネトンは黄色を中心としたカラーリングでしたが、キャメルがF1から撤退。すると銘柄はマイルドセブンに変更され、これに伴って水色が目を引く配色となりました。

この年初の王座が期待されていたシューマッハは開幕から4連勝を飾り、序盤から独走劇を展開したのです。しかし、中盤に差し掛かると思うようにポイントを重ねられずデイモン・ヒルの追い上げを許してしまいます。

 

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そして両者の一騎打ちはわずか1ポイント差で最終戦を迎え、勝った方が初戴冠というドラマティックな展開でレースはスタート。するとシューマッハとヒルは優勝争いを繰り広げ、多くの人が固唾を飲んで見守っていると事件は起こりました。

レース中盤となった36周目、トップを走っていたシューマッハが突然コースアウト。マシンにダメージを負いながらなんとかコースに復帰したのですが、これで差を詰めたヒルが一気に抜きにかかろうとした時に両者が接触。

最終的に共にリタイアを強いられ、劇的な幕切れのなかシューマッハが1ポイント差を守り切り初のF1王者に輝いたマシンとなりました。

 

日本からの視線を集めた”ラッキーストライク”

 

©鈴鹿サーキット

 

1999年からF1に参戦したB・A・RはB・A・T(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)の資金提供を元に設立されたことから、F1におけるタバコ広告を象徴するチームでした。

参戦2年目からはホンダエンジンを獲得するだけでなく、2003年には佐藤琢磨が加入したことで日本から大きな注目を集めることになりました。

なかでも2004年に投入されたBAR006には強い思い入れのある方も多いのではないでしょうか。

第2戦マレーシアGPではジェンソン・バトンがホンダの第3期F1活動において初の表彰台をもたらすと、第4戦サンマリノGPではポールポジションを獲得するなど、チームと共に一躍ブレイクを果たしました。

 

©︎鈴鹿サーキット

 

一方、この年からレギュラードライバーへ昇格した佐藤琢磨も予選でフロントローを獲得するなど速さを見せ、表彰台への期待は日に日に高まっていきました。するとアメリカGPで鈴木亜久里以来となる日本人として18年振りとなる3位表彰台を獲得したのです。

また母国である日本GPの予選ではスピン寸前という激しいアタックの末に4番グリッドを獲得。レースでは表彰台圏内を走行するシーンも見られましたが、戦略面の違いで惜しくも4位入賞という結果に終わりました。

それでも多くのF1ファンが彼の走りに期待を抱き、日本のファンにたくさんの夢を見せてくれたマシンだったのです。

 

まとめ

 

©️Motorz

 

現在では見られないタバコ広告のマシンですが、F1が走る広告塔と呼ばれるようになったのも、タバコ広告の影響が大きかったのではないでしょうか。

チームカラーをも変えてしまうほど大きな影響力を持っていたことで、F1と切っても切れない強い関係を築き上げることが出来たのです。

また当時のテレビ中継でもタバコのCMが流れていたことを思い出される方もいらっしゃるかもしれませんが、タバコメーカーにとってF1が広告面において重要なツールであった証拠と言えるのではないでしょうか。

残念ながら今回ご紹介できなかった名車はまだ沢山あるので、機会があればまた振り返っていこうと思います。

 

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