シビックの上級車として生まれ、独特な存在感で一世を風靡したアコード。その中でも、とりわけモータースポーツで活躍した5代目アコード(CD型)とはどんな車だったのでしょうか?今回は、JTCCシリーズ制覇など輝かしい成績を持ったホンダの名車をご紹介します。
掲載日:2017/08/06
アコード誕生~ちょっと違う大人の車
1976年、アコードはシビックの上級車として誕生。
基本的にはシビックの大排気量版そのままの性格を持ち、どこのクラスにも属さない独特な存在感を放っていました。
そして1981年に2代目へとモデルチェンジしますが、初代同様「大きなシビック」という立ち位置は変わらずでした。
ところが1985年、3代目にモデルチェンジした頃からアコードの存在感が変わってきます。
洗練されたデザインと、FF車としては世界初の4輪ダブルウィッシュボーンという足回りを与えられ、日本仕様に於いては従来の3ドアハッチバックに代わり、ロングルーフを持つシューティングブレーク的な「エアロデッキ」を追加。
都会的で洗練された雰囲気を持つ車として、人気が沸騰したのでした。
更に1988年にはアメリカ・オハイオ州のホンダ・オブ・アメリカで生産され、北米のみで販売されていたクーペを左ハンドル仕様のまま日本でも販売し、大きな反響を呼ぶ結果に。
1989年に4代目へとモデルチェンジされた際には3ドアがラインナップから落ち、4ドアのみのデビューとなりましたが、程なく先代と同じくアメリカで生産されているクーペに加えて1991年にはワゴンを導入。
この北米仕様のワゴンが好評を持って迎えられ、以降もラインナップに加わることとなりました。
5代目アコード登場
1993年に5代目へとモデルチェンジを果たしたアコードは、北米の衝突安全基準に対応すると同時に、1989年に行われた税制改革により、3ナンバー車であっても排気量により課税される仕組みに変更された事から、先代までの5ナンバーサイズを大きく拡幅し1760mmへとワイド化。
そして、全長は先代の4680mmから4675mmに、ホイルベースは2720mmから2715mmとわずかながら短縮され、エンジンも主力が2.2リッターへと若干上級移行した上に、VTEC化された事から動力性能が向上しました。
そして少し遅れて先代と同じく北米で生産されているクーペとワゴンも追加されますが、開発途中に起きたバブル崩壊という懸案もあり、保険として1989年にデビューしたアコード・インスパイアのコンポーネンツを利用した5ナンバー枠の日本専用車、アスコットとラファーガを用意しますが、それも杞憂に終わり、むしろ先代より販売台数を伸ばしたのでした。
急遽戦いの場へ
そのような感じでサーキットとは無縁のアコードでしたが、思わぬ形でサーキットへ姿を現すことになります。
1993年まで開催されていたグループA規定によるJTCから、BTCC(英国ツーリングカー選手権)に倣ったFIAのクラス2規定の「4ドア以上のボディに2リッターまでの自然吸気エンジン」という規定の元、1994年より開始されたJTCCにホンダはEG型シビック・フェリオで参戦をしていたのですが、他社に対して苦戦を強いられていました。
その理由はコンパクトなボディ。
グループAでは有利に働いていたハイパワーエンジンとの組み合わせですが、排気量が2リッターまでとなったことでバランスを崩し、JTCCの開始当初はオーバーフェンダーの装着が認められていなかった為、タイヤ幅とトレッドの拡大が困難になりコーナリングスピードが上げられず、その対策に苦慮していたのでした。
そこでワイドトレッド化が図れ、更にシビックより空気抵抗が低く、尚且つシビックのノウハウが生かせる横置きエンジンであるアコードに白羽の矢が立てられたのです。
そして1996年、アコードはJTCCにデビューしましたが、デビュー直後からレギュレーションの解釈問題に振り回されることになってしまいます。
デビュー当初から指摘されていた箇所を改修する為、途中の第4戦・美祢を欠場し、翌年用の車両を前倒しする形で車両改修を行い、最終戦では2ヒートとも優勝!
しかし、他陣営からアンダーパネル形状にクレームが付き、その問題が翌年まで持ち越された結果、失格となってしまうという後味の悪い結末を迎えます。
その後、1997年からは全幅1800mm迄という制限でオーバーフェンダーの装着、リアスポイラー・フロントスポイラーの大型化が認められた事からコーナリングスピードがさらに向上し、無敵の状態に進化を遂げるのです。
しかし、その一方で日産・トヨタとのメーカー同士の争いが更に過激化し、その雰囲気がドライバーにも伝染。
レース中に接触してコースアウトさせたり、さらにその報復としてわざと周回遅れになり、はじき返すという行為を行う選手が出るなど、およそレースとは言い難い状況に陥っていったのでした。
そんな中、ホンダは中子修氏はシリーズチャンピオンとチームタイトルを決めますが、過激化する一方で歯止めのかからないJTCCに見切りをつけ、この年限りで撤退、アコードはサーキットから姿を消したのです。
まとめ
ちょっと洋風な雰囲気を持つセダンとしてデビューしながらも、シビックよりポテンシャルがあったため急遽レースに引っ張り出された5代目アコード。
あくまで『ホンダの箱車ベースのレーシングカーはシビック』と言う不文律がある故に異例の抜擢でしたが、その役目を100%果たし姿を消しました。
しかし、その姿は今でも多くのレースファンの心に焼き付いており、一時代を築いた車として語られているのです。
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