これまで各レース界には、それまでの常識を変えてしまうほどの強さ・速さを誇ったマシンが登場してきました。そういったマシンにスポットを当ててみようと思います。第1回目は「マクラーレン F1 GTR」。実は競技に出る事を想定されずに作られた1台でしたが、結果的にGTマシンの基準さえも大きく変えることに。その進化を辿っていきたいと思います。

©︎McLaren Automotive Limited

マクラーレンF1の誕生

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1980年代後半のF1レースで最強を誇ったマクラーレン・ホンダ。そのデザイナーとして活躍していたのは”鬼才”ゴードン・マレーでした。

1988年にチャンピオンを獲得した後、ロン・デニス指揮のもと市販部門「マクラーレン・カーズ」を立ち上げ、ロードカー開発を担うことになりました。

ロードカーの開発・販売は、創業者である亡きブルース・マクラーレンの悲願でもあったので、マレーはレースで培った開発のノウハウを結集し、至高のクルマ「マクラーレン F1」を世に送り出すのです。

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BMWが専用設計した6.0L V12自然吸気エンジンをカーボンモノコックのシャシーに搭載。
若い頃にすでに考案していたという3人乗りのセンターコクピットも採用し、重量バランスと視界の良さを追求します。

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その上でエアコンやオーディオといった快適装備に妥協はしない。まさに”究極の乗用車”の誕生でした。

 

究極のロードカーがレースに出るまで

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走る・曲がる・止まるを徹底追求し、高いドライバビリティで評価を得たF1。

当時のレース界はグループCの終焉もあり、市販車ベースのGT1クラスにワークスチームの参入が始まった頃でした。そんな中、「こんなに速いならF1をレースに出したい」と考える人達がいたのは当然なのかも知れません。

しかしマレーは「そういう作りにはしていない」という理由でレースへの参戦に消極的な姿勢を取っていました。

なぜなら、前述の通りマレーは”究極の乗用車”を追求し、F1を生み出したからです。

その為、乗り心地が犠牲にならないよう剛性を敢えて抑えるなど、ロードカーとしての最善が尽くされていました。

そしてマレーは、自身が生んだ傑作に”メス”を入れられることを好まず「リアにスタビライザーを入れるならレースになど出ない」と語っていた程でした。

しかし最終的にはマレーが折れる形でコンペティション仕様が開発されることになったのです。

 

GTの概念を変えたF1 GTR

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マレーは風洞実験によりF1のボディシェルをレース用にモディファイしました。

それ以外はカーボン製ロールバーを敢えてスチール製に変更、消化器などのレース用装備取り付けなどの”ワンメイク仕様”で、ロードカーの性格がほとんどそのまま残されたマシンとなりました。

そしてエンジンに至ってはデチューンが施されていました。

こうして誕生した「F1 GTR」は、1995年に欧州のプライベーター選手権「BPR グローバルGTシリーズ」でデビューしたのです。

また同年のル・マン24時間耐久レース「GT1クラス」にも7台がエントリー!グループC無き後の最上位カテゴリーはプロトタイプ勢の戦いとなっていましたが、雨により次々と戦線から脱落していきました。

これに助けられたF1 GTRは、デビューイヤーで1位、3位、4位と上位を独占する快挙を成し遂げてしまうのです。

©︎BMW AG

そして、この時総合優勝を飾った「国際開発レーシング」は関谷正徳氏もドライブしており、日本人初のル・マン制覇達成という歴史的なマシンとなったのです。

ちなみにF1 GTR のル・マン参戦コストは、ワークスチームの10分の1にも満たない75万ポンドほどだったと言われています。

マクラーレンがいかに強豪コンストラクターとはいえ、大手メーカーに比べればそれは”ベンチャー企業”のような規模でした。

しかしF1ロードカーの開発コストまで含め、ル・マン制覇による宣伝効果と賞金ですべて回収出来たそうです。

 

最初の天敵・ポルシェ911GT1

Photo by Rick W. Dryve

GTカーとしてはあまりに強烈な速さを持っていたF1 GTRは、”レースのために作られたクルマ”という誤解が生まれるほどでした。
事実、F1に敵う市販車は当時どこにも存在していなかったのです。

そこへはじめて真っ向勝負に挑んだのは、”耐久王”ポルシェでした。

翌年のル・マンに向け、F1 GTRを上回る究極の911開発に着手したのです。

とはいっても市販車には程遠く、モノコックのみを使い前後をパイプフレーム化し、RRではなくミドシップレイアウトとしたモンスターマシン「911GT1」をデビューさせるのです。

ほとんどプロトタイプカーともいえるこのマシンに、さすがのF1 GTRも苦戦を強いられました。

そして1996年のル・マンでは優勝こそ逃したものの、2・3位を独占したのです。

このあたりから「GT1クラス」は、とても市販車では勝る事のできないレースに変貌を始めていきました。

そして、F1 GTRの優位性も徐々に失われつつありました。

 

マクラーレン F1 GTR”ロングテールバージョン”

©︎McLaren Automotive Limited

当初から、F1 GTRは空力不足という弱点がありました。

前後オーバーハングが極端に短く、十分なダウンフォースが得られていなかったのです。

ロードカーの状態で作り込まれたフロア下もモディファイし辛く、かえって開発を難しいものにしていました。

そこでマレーはボディカウルを再設計。前後を延長したロングテール仕様を送り出し、熟成の進んだF1GTRの戦闘力アップに取り組みます。

その甲斐あって1997年のル・マンでは、宿敵911GT1のリタイアもあり総合2位を獲得!見事リベンジを果たすのです。

またこの年からBPRは「FIA GT選手権」として再スタートし、新たな強敵メルセデスCLK-GTRなどと熱いバトルを繰り広げました。

翌1998年、ル・マンにはグループC以来のワークス戦争が巻き起こります。

ポルシェ、メルセデス、トヨタ、日産はもはや「プロトタイプGTマシン」というべきレース専用マシンを続々投入していきます。

到底「GTレース」とは呼べない光景がそこにはありました。

その頃にはF1GTRのアドバンテージは失われ、徐々にGT1の第一線から退いていったのです。

 

日本にやってきたF1 GTR

Photo by Adam Smith

少し遡って1996年、全日本GT選手権(以下JGTC)に2台のF1 GTRが上陸を果たしました。

郷和道監督率いる「チーム郷」とのジョイントで「チーム ラーク マクラーレン」が発足します。

これはロン・デニスが直々に持ち込んだプロジェクトで、実質的なワークス体制といえるものでした。

しかし主催者側はその速さを警戒し、カーボンブレーキの禁止・出力ダウン・そして150kgものウェイトハンデという制約を課すのです。

それでもLARKカラーのマクラーレン2台は開幕戦1.2フィニッシュという驚異的な速さを示すのです。

BPRで活躍していたデビッド・ブラバム/ジョン・ニールセンと、ラルフ・シューマッハ/服部尚貴の両コンビがシリーズランキング1・2位を独占。

実に6戦中4勝をこの2台が奪い、黎明期だった日本のGTに本場の恐ろしさを知らしめたのです。

翌年このチームが日本を離れた後、JGTCは「ニッサンvsトヨタvsホンダ」という3大ワークスがしのぎを削り”世界最速GTマシン”と言われるまでに進化を果たしていきます。

“黒船マクラーレン”の上陸が各メーカーに刺激を与え活性化させた事は間違いないと思います。

 

日本で最終進化を果たしたF1 GTRたち

©︎鈴鹿サーキット

2年後の1999年には、前年までポルシェで参戦していた「テイクワン」が新たにマクラーレンF1GTRで参戦を開始。

このシャシーナンバー”19R”は本国でロングテール仕様の1号車として制作、日本に渡ったものだった様です。

そして名門ノバ・エンジニアリングの森脇基恭氏がメンテナンスを担当し、ボディ剛性アップや足回りの根本的見直しが行われました。

グリップレベルの高い日本のサーキットに合うよう徹底的に改良が図られたのです。

リストリクター制限で大幅なパワーダウン、相変わらずハンデとして50kgの重量増という規模しい条件での参戦でしたが、ときにワークス勢に食い込む速さを披露しました。

すでにプライベーターが勝つこと自体不可能と思われていた2001年シリーズ、最終戦もてぎで勲一等のポールトゥウィンを手にしています。

そしてもう1台、「一ツ山レーシング」によりF1 GTRが日本に持ち込まれています。

1999年にエキシビジョンレース「ル・マン富士1000キロ」でデビューし、2000年よりJGTC参戦開始。

独自の改良が身を結んだ2002年には、いくつかのレースで上位争いを見せつけ、第6戦もてぎで3位表彰台を獲得したのです。
ちなみに一ツ山レーシングのF1GTRのシャシーナンバー”25R”でした。

これは合計28台生産されたうちの最後期型モデルに当たります。

このマシンは2003年に引退したものの、2005年スーパーGT第6戦で1戦限りの復活を遂げました。

 

まとめ

©︎McLaren Automotive Limited

マクラーレンF1 GTRは、”GTマシン”のレベルを大きく引き上げた存在だったと言えます。

ル・マンでは”GT1恐竜時代”とも呼べるモンスターマシンを生み出すきっかけを作り、日本のJGTCでも各メーカーを戦々恐々とさせる存在として爪痕を残しました。

第一線での活動が段違いに長いことも戦闘力の高さを物語っています。

基本設計が変わらないマシンで1995年〜2003年まで8年間もトップカテゴリーで戦ったマシンは殆ど例がありません。

しかしその正体は、あくまでゴードン・マレーがロードカーとして作り上げた”究極の市販車”だったのです。

20世紀最高の自動車ともいわれる マクラーレンF1。レースでの功績を含め、その魅力が今後も色あせる事はないでしょう。

ちなみにロングテールとショートテール、そしてロードカー。あなたのお好みはどのマシンでしょうか?

 

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