これまでレース界には、それまでの常識を変えてしまうほどの強さ・速さを誇ったマシンが数多く登場してきました。このシリーズで取り上げるのは、そんな最強のクルマたち。今回紹介するのはスカイラインGT-R”グループA仕様”です。全日本ツーリングカー選手権において、デビュー以来29連勝という偉業を成し遂げた伝説のマシン。並み居る強豪をすべて駆逐してしまった、驚異のポテンシャルに迫ります。
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“GT-R”の持つ意味
1969年、3代目スカイラインの最上級グレードとして登場したPGC10型「スカイライン2000GT-R」。
プロトタイプマシンR380直系の2.0L 直列6気筒エンジン「S20型」を搭載し、ツーリングカーとしては革命的な速さで同年レースデビューを果たします。そして、その後4年間に通算50勝という偉業を成し遂げたのです。
この時から日産にとっての「GT-R」というグレードは、不敗神話のシンボルとなりました。
しかし、70年代も進むと排気ガス規制とオイルショックなどの影響でワークス活動自粛を余儀なくされ、GT-Rもサーキットから姿を消す事になります。
次代を担うはずだった後継の”ケンメリGT−R”ことKPGC110型も、レース仕様はお蔵入りとなってしまったのです。
全日本ツーリングカー選手権スタート
その後1980年代に入ると、日産は富士スーパーシルエットシリーズへの参戦をきっかけにワークス活動を再開します。
そして、1984年にはモータースポーツ部門を統括する組織として「NISMO」を設立するのです。それは、かつての日産・大森ワークスが母体となった組織でした。
翌1985年に、欧州で人気を博す存在だった「グループA規程」を本格導入した国内トップカテゴリー「全日本ツーリングカー選手権(JTC)」がスタートします。市販車をベースとする厳格な規程により、改造範囲が非常に狭いこのカテゴリー。
ここに日産はR30型スカイラインを投入し参戦を開始しますが、外国車勢を前に苦戦を強いられたのです。
2年目の1986年にはチャンピオンを獲得しましたが、その後はフォード シエラ RS500やBMW M3といった外国車勢が圧倒的な強さを見せはじめます。
これらのクルマは、そもそもグループAに勝つためのクルマとして市販された過激な”エボリューション モデル”がベースだったのです。
日産も負けじと1987年にR31型スカイラインをベースとした「GTS-R」を投入。大幅なパフォーマンスアップに成功しますが、苦戦を強いられる状況は変わりませんでした。
GT-R復活に向けて
GTS-Rは最終的に2.0L ターボで450馬力というかなりのレベルまで戦闘力を高め、苦戦の末に1989年のJTCシリーズタイトルを獲得します。
しかし、辛くも勝ち取ったといえるこの結果に日産、そしてNISMO陣営は満足していませんでした。
この当時、日産社内では「901運動」と呼ばれるプロジェクトが進行していました。
これは、”1990年代のうちに技術で世界一になる”ことを標榜したもので、様々な新技術・新型車両が巨費を投じて開発されていたのです。
そういった社内での流れとグループA必勝の命題が合わさり、17年ぶりのGT-R復活へ向けて動き出しました。
名機” RB26DETT”はどのように生まれたのか
まず開発陣は、レギュレーションを徹底検証するところから始めます。
その中で出されたひとつの答えが「2.6L」というなんとも中途半端な排気量でした。
排気量がクラス分けのベースとなる当時の規程では、ターボ車に対する調整値が設けられていたのです。
具体的には、実際の排気量に1.7をかけた数字を排気量とみなす、というものでした。
2.6Lなら、係数1.7をかけてもギリギリ4.42Lにおさまる為、最低重量1260kg・ホイール2インチアップ・10インチ幅のタイヤといった4.5リッター未満の有利な条件で参戦が可能だったのです。
その上で目標とされたパワーは、フォード シエラを上回る「650馬力」。技術陣はこの目標を”余裕を持って達成”させるべく開発を進めました。
直列6気筒ツインターボエンジンの名機「RB26DETT」はこうして誕生したのです。
電子制御4WDの採用
新エンジンRB26はブースト1.4で550psほどを余裕で叩き出し、開発段階からそのパワーは圧倒的なものでした。
その為、FRレイアウトではトラクションが足りず扱いづらくなる、という弊害が予想されたのです。
開発陣が出した答えはトルクスプリット(駆動力分配)4WD採用でした。
原理はトランスファーに多板式クラッチを仕込み、ホイルスピンを起こした分の動力をフロントに回すというもの。
それを電子制御システム「アテーサE-TS」によりコントロール、エンジンパワーを無駄なく路面に伝えるのです。
これにより0−400m加速を10秒前半で駆け抜けるトラクションと、FRのニュートラルな挙動を両立させることに成功したのです。
スカイラインGT-R、再びサーキットに立つ
1989年、最強のエンジン・先進のドライブトレイン・強靭なボディを備え「R32型 スカイラインGT-R」が登場します。
そして同年末にはグループA仕様が公開され、翌1990年のJTC開幕戦で実践デビューを果たしたのです。
開幕戦では、ポールポジションをカルソニックスカイライン(星野一義/鈴木利男)、次いで2番手にリーボックスカイライン(長谷見昌弘/A・オロフソン)と予選から上位を独占!
カルソニックの予選タイムは3番手につけたシエラRS500に1.8秒ほどの大差を付けていました。
スタート後は1ラップ目から他車を圧倒します。1ラップ1秒という恐ろしいペースでマージンを築き、3位を2ラップ遅れにして
カルソニックがポールトゥウィン。2番手にもリーボックが続き1.2フィニッシュを決めたのです。
結局このシーズンは2台のGT-Rが勝利を分け合い、全6勝中5勝を挙げた星野/鈴木コンビがシリーズチャンピオンに輝きました。
第4戦 筑波以外の全レースで1.2.フィニッシュを飾った信頼性も驚異的なマシンの登場となったのです。
29戦全勝!再び伝説となったGT-R
1991年シーズンは更にカスタマーが増え、GT-Rは6台体制へと増加します。
JTCは瞬く間にGT-Rでなければ勝てないレースに変貌を遂げたのです。
この年のシリーズチャンピオンは前年の雪辱を果たしたリーボックの長谷見/オロフソン組が獲得!
翌1992年にはついにディビジョン1の全マシンが完全にGT-Rのみとなり、ワンメイク状態となっていったのです。
結局、1993年のJTC終焉まで1戦も落とすことなく全勝という、かつての不敗神話の再現ともいえるリザルトを残す結果となりました。
JTC最後のレースとなった富士・インターTECでは、別れを惜しむファンが詰めかけ94,600人という記録的な来場者数を達成したのです。
まとめ
GT-RがグループAの舞台でこれだけの強さを誇れたのは、先代GTS-Rでの教訓が十分に生かされた為でした。
通常NISMOなどのチューナーの為に、市販車のレベルで改善が行われるのは稀なことでした。
しかしR32型GT-Rは、レース現場のフィードバックを受けて量産車の段階で改良がなされたのです。
このまさに”ワークス”という体制は、ハコスカGT-Rの時代にも行われたことで知られています。
スカイラインを生み出した、旧プリンス自動車から受け継いだ”技術屋魂”がそうさせたのかもしれません。
”GT-R”の名がレースで語られる時、それは日産が本気である証拠と言えるのではないでしょうか。
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