SUBARU(スバル、Subaru Corporation)

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米国が恐れたゼロ戦を造っていた航空機メーカーの技術

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かつての称号「富士重工業株式会社」を、2017年4月1日に「SUBARU」に商号変更したスバルは、1958年発売の軽乗用車「スバル・360」と、その派生型の軽商用車「スバル・サンバー」が大きな成功を収めたことで、自動車メーカーとしての地位を確立しました。

SUBARUは太平洋戦争まで、米国を震え上がらせた名機、「疾風」や「ゼロ戦」などを生産した航空機メーカー「中島飛行機」をルーツに持ち、創業期に元航空技術者たちが自動車開発に携わってきたという歴史から、航空機に通じる機能性・合理性優先で、ユニークなメカニズムを特徴とする自動車を多く送り出すことになります。

 

国民車スバル360誕生!

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「国民車構想」のもと1958年に発売された「スバル360」は、大人4人乗車可能、路線バスの通る道はすべて走れる車というコンセプトの元に造られました。

後輪駆動のリアエンジン・リアドライブ方式を採用したことにより、実現された小さくて安いけれどもしっかり走ることのできる「スバル360」は、日本人にとって自動車を身近なものにし、「マイカー」という言葉を誕生させ、日本の自動車史に残る「名車」と評価されました。

そして一躍、自動車メーカーとしての「スバル」の名前を世に知らしめることにもなったのです。

 

日産自動車(Nissan Motor Co., Ltd.)

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名車ダットサンはこうして生まれた

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「戸畑鋳物株式会社」「ダットサン商会」というルーツを経て、横浜市に設立した「自動車製造株式会社」がその後1934年に日産自動車に改名、初の生産車となったのが「ダットサン13型」となります。

つまり、潤沢な資金力と既に十分な技術を持った企業が中心となって設立された日産は、他の国産メーカーと異なり、創業時から自動車メーカーでした。

現在はフランスの自動車大手ルノーと共に、ルノー・日産アライアンスとなっている日産自動車は、創業期より先進技術の吸収に積極的で、独自開発の車種以外にもフォードやGMなみの大型乗用車を製造するため、また戦時中の技術的空白を埋めるために、1952年にイギリスのオースチンと技術提携しライセンス生産もおこなっていました。

 

小規模メーカーの連合体だった日産

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そして1966年に、プリンス自動車工業を吸収合併したことでスカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を手に入れ、トヨタと並ぶ大手自動車メーカーとなります。

しかし、度重なる経営危機により、1999年3月に仏ルノーの資本を受け入れ、同社の傘下に入り更生を図るなど、その歴史は波乱万丈であった自動車メーカーなのです。

 

三菱自動車工業(Mitsubishi Motors Corporation、略称:MMC)

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国産初の量産車は三菱車だった

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戦前からの大財閥、三菱を母体に持つために、日本の自動車メーカーとして最古の歴史を持っています。その自動車製造の歴史は1917年までさかのぼり、三菱造船で生産された「A型」から始まります。

「A型」は、ヨーロッパ車を参考に、1917年から三菱造船(株)神戸造船所で試作され、1921年まで計22台が製作されました。販売されたのは12台でしたが、日本初の量産された自動車とされています。

しかしその後、決して成功作といえなかったことと、まだ乗用車が普及する時代ではないという判断から、乗用車の製造販売からの撤退をしてしまいます。

撤退後三菱は、自動車が産業として成り立つまで乗用車産業に携わりませんでしたが、トヨタより20年近く前に生産しただけに、もし造り続けていたら今の勢力図は大きく変わっていたかもしれません。

 

初の量産車は3輪トラック

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1946年6月、3輪トラックの試作車「みずしま」が完成します。

前面に風防を取り付け、頭上に幌を張った屋根付とした構造で評判となり、翌1947年5月に、0.5トン積みの「TM3A型」として本格的に生産、販売が開始され、これが三菱の量産車第1号となりました。

日本初の自動車を生産した三菱でしたが、量産にこぎつけるまでに30年近くかかったのでした。

 

マツダ株式会社(Mazda Motor Corporation)

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コルクを造る会社でした

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マツダは1920年に、あの「コルク」を生産する「東洋コルク工業株式会社」として創業しました。

1927年からは「東洋工業株式会社」と社名を変更しましたが、1984年にブランド名に合わせて「マツダ株式会社」に改称しています。

マツダの自動車製造の歴史は、1931年、3輪トラック「マツダ号DA型」から始まりました。

エンジンはもとより後退ギア付トランスミッションやリアディファレンシャルなどの自社製造を実現していました。

豊田自動織機が1935年に「A1型試作乗用車」を完成、ホンダは1946年に設立、といった状況なので、マツダが早い時期から自動車産業に取り組んできたことがわかります。

そして1960年、当時のスバル360より安く設定された「R360クーペ」において、自動車メーカーとしての基盤が作られる事になります。

その後3輪トラックなどもマツダの代表作となっていきました。

 

ロータリーエンジン登場

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さらに、マツダを語る上でかかせないのが、マツダの象徴ともいえるロータリーエンジンの実用化があります。

開発に6年の歳月を費やしたロータリーエンジンは、まさに苦難と挑戦の歴史でしたが、 世界で初めてロータリーエンジンを搭載した量産車「コスモスポーツ」が姿を現したのは、1963年10月の東京モーターショーでした。

そして、そのクルマの美しく未来的なプロポーションと性能は人々を驚愕させました。

そしてこのロータリーエンジンに社運をかけたことで、マツダの成功と苦難が始まったといえるのです。

 

まとめ

ほとんどのメーカーが戦後の国民車構想など、国の政策を機に自動車製造に取り掛かりました。

織物機械やコルクなど、自動車とは無縁の業界ながらも、エンジンからすべて自社生産する技術力が、当時の日本にあったことは驚嘆すべきことです。

むろん、志半ばで撤退せざるをえなかった名も知れぬメーカーの奮闘もあったわけですが、それでも現在多くのメーカーが国内はもちろん、世界中に向けて信頼性の高い日本車を提供しているのは、こういった先駆者の努力があったからにほかならないのです。

 

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