1990年代。ハイパワーターボ車を中心としたグループAツーリングカーレースの流れは終わりを告げ、世界のハコ車レース事情は大きな局面を迎えていました。そんな中、いち早く新たな流行を生み出したのが英国ツーリングカー選手権。通称:BTCCだったのです。1990年より独自の新たな規定を導入し、排気量2000ccの4ドアセダンで争われるようになったBTCCは爆発的人気を博し、後に世界中に新たなムーブメントを巻き起こします!そんな激動の時代にBTCCを戦い、海外メーカーを抑えてシリーズチャンピオンにまで輝いた日本車たちが存在しました。今回はツーリングカー戦国時代に紳士の国で奮闘したジャパニーズセダンに注目します!
1990年代のBTCCとはどんなレースだった?
イギリス国内選手権として、英国サルーンカー選手権の名称で1958年より開始されたBTCC。
何とも「紳士の国」らしい響きのネーミングだと感じるのは筆者だけでしょうか。
シリーズが10年続けば御の字と言われるモータースポーツ界において、同一の選手権が約60年間も続くというのは本当に素晴らしい事であり、その背景には主催団体の努力が垣間見えます。
現在に至るまでの長い歴史の中で各時代に則した選手権であるよう、幾度ものレギュレーション変更が実施され、1レースあたり5000人も集まればいいと言われた観客が2倍以上に激増するという成功を収めてきたのです。
その大きな要因として挙げられるのが、1990年より導入された「2.0L ツーリングカー・フォーミュラ」と呼ばれる新たなレギュレーションです。
それまで大排気量車やハイパワーターボ車が支配していたグループA規定と違い、2000cc自然吸気の4ドアセダンという公平性のもと争われる事となったこのレギュレーションは、欧州圏を中心に各国の強豪自動車メーカーを招致する事に成功しました。
1イベントに2レースという簡潔なスプリントレースであること、自動車メーカーの支援によりテレビCMが継続的に放映された事等が功を奏し、観客数は安定的に上昇傾向へ転じていったのです。
この国内選手権の人気に目を付けたFIA(国際自動車スポーツ連盟)は、1993年シーズン前にBTCCのレギュレーションを基にしたクラス2 “ニューツーリング”規定(後のスーパーツーリング)を制定。
初年度の1993年にフランス・イタリア・ポルトガル、そして翌1994年にはドイツ・スペイン等のヨーロッパ諸国で続々とクラス2規定のツーリングカーレースが開始されました。
そして、日本でも世界的ムーブメントに乗る形で1994年からJTCCがスタートしています。
1990年代のBTCCにはトヨタ・日産・三菱から始まり、ホンダやマツダまでもが珠玉のレーシングセダンを送り込み、世界の強豪メーカーに挑んでいったのです。
そこから現代にも語り継がれる名車が生まれ、今もなおモータースポーツファンの心を掴んで離しません。
さていよいよここからツーリングカー戦国時代のBTCCで活躍した代表的な日本車たちをご紹介していきます。
みなさんの記憶に残っているマシンは登場するでしょうか?
NISSAN PRIMERA GT
2.0L規定が本格導入された1991年から「Nissan Janspeed Racing」として参戦を開始したP10型プリメーラ。
しかし1年目は散発的なエントリーに留まり、1年を通して参戦するのは1992年からです。
プリメーラにとっての初優勝は、エースのキース・オードア選手による1993年シルバーストーン。
これは完全勝利とも言えるポール・トゥ・ウィンだった上に、チームメイトのウィン・パーシー選手とのワン・ツーフィニッシュだったのです。
その後1994年までフル参戦を継続した後、1995年は参戦を休止し、1996年もセミワークス体制で数戦にエントリーしたのみとなっています。
再びプリメーラがイギリスに戻ってくるのは1997年の事。
P11型にモデルチェンジしたプリメーラは派手なフロントスポイラーと小型のGTウィングを備え、エンジンは直列4気筒のSR20DEに高回転型チューンを施して搭載。
そこにXトラック製の6速シーケンシャルミッションが組み合わされ、8300回転で300馬力オーバーを発生したとされています。
重量物は可能な限り車体の中央下部に集約されおり、大迫力の19インチホイールが一部隠れてしまうほどの”シャコタン”に独特のオーラを感じます。
復帰初年度の1997年はデヴィッド・レスリー選手とアンソニー・レイド選手のコンビでフル参戦し、表彰台を5回獲得する健闘ぶりを見せます。
翌1998年も同じペアで挑み、全26戦中で2人合わせて表彰台に20回以上あがるという圧倒的強さで日産初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。
そしてBTCCにおいて、最も日産が強かったのはドライバーをレイド選手からローレン・アイエロ選手へチェンジした1999年。
全26戦中、2人合わせて30回近くも表彰台を獲得し、しかもそのうち6回がワン・ツーフィニッシュ。
もはや誰も手が付けられない速さを手に入れたプリメーラは、マニュファクチャラーズ・ドライバー・チーム・インデペンデントの4部門でシリーズチャンピオンを獲得して見せたのです。
理想的な有終の美を飾った日産は、同年をもってBTCCからの撤退を決定。
ツーリングカー全盛時代末期にプリメーラが放った強烈な輝きは、今も私たちの心に焼き付いて離れません。
MAZDA XEDOS 6
シェルとタッグを組み、1992年に直列4気筒エンジン搭載の323F(日本名:ファミリア・アスティナ)でBTCCにワークス参戦したマツダ。
しかし強豪相手に全く歯が立たず、翌年からは新型車両で起死回生を図ります。
その新型車とは1992年から発売が開始されていたクセドス6(ユーノス500)。
4ドアクーペの先駆け的存在としてデザインされ、その低く構えられた曲線美は世界的デザイナーのジウジアーロ氏も絶賛したそうです。
BTCCを戦うクセドス6最大の特長はなんと言ってもエンジン。
レーシングエンジンの名匠ザイテック社によってチューニングされたV型6気筒をフロントに搭載し、6気筒ならではの野太いサウンドを響かせます。
パトリック・ワッツ選手のドライブによりクセドス6はシーズン序盤から速さの片鱗を見せはじめました。
1993年シーズン第3戦でのポールポジション獲得から始まり、決勝レースでの4位入賞が3回というなかなかの好成績です。
しかしその反面、信頼性に関する不安要素を取り除く事が出来ずにリタイアも多数。
「速さは十分ある。安定感を手に入れられたら来年こそ…」と関係者の誰もが感じていたでしょう。
マシンを2台体制にして挑んだ1994年。
強豪チームが潤沢な資金でワークスマシンの台数を増やしてくる中、激しさを増す競争にマツダは遅れをとってしまいます。
この年のクセドス6は最高位8位と低迷。
全21戦中8戦まで出場した後、マツダはBTCCからの撤退を決定しました。
前年に速さを見せていただけに、なんとも残念でなりません。
なお、その後はインデペンデントクラスにクセドス6のメカニズムを移植した323F(※)が出場しています。
※日本名はランティス。海外では、ファミリア・アスティナもランティスも同じ「323F(および323Astina)」の名称で販売されています。
TOYOTA CARINA E
1991年よりカリーナでワークス参戦を開始したトヨタ。
初年度から優勝3回のアンディ・ルース選手がランキング3位、2年目の1992年はウィル・ホイ選手がランキング2位と大活躍。
上り調子のトヨタは、シリーズチャンピオン獲得に向けてマシンをカリーナE(コロナ)に変更します。
高回転チューンが施された2リッター直列4気筒の3S-GE型エンジンをザイテックECUでマネジメントし、8500回転で約300馬力を発生。
Xトラック製の6速シーケンシャルミッションも強力な武器です。
カリーナEの初年度となる1993年はヴィンケルホック選手・ソパー選手を擁するBMWワークスが無類の速さを発揮し、他の追従を全く許さない構図となりました。
BMWの強大な戦力を前にトヨタは苦しい展開を強いられ、シリーズチャンピオン獲得ならず。
アルファロメオに主権が移った1994年、そしてボクスホールがタイトルを獲得した1995年に関しては表彰台にすら上がれないという苦境に立たされてしまいます。
時を同じくして日本のJTCCでは関谷正徳選手駆るコロナが1994年チャンピオンを獲得しているだけに、イギリスでは悔しい結果となってしまいました。
1995年をもってトヨタはBTCCからの撤退を決定。
JTCCへ戦力を集中させていく事となります。
HONDA ACCORD
日本勢のワークスとしては再後発となるホンダ。
1995年に欧州仕様のCB型アコード(アスコットイノーバ)をBTCCに投入します。
同年よりフロントエアダムとウィングの変更が許可されていたため、アコードは参戦当初から戦闘的なスタイリングに仕立てられていました。
心臓部は2.2リッター直列4気筒のH22A型をショートストローク化した2リッターのレース専用エンジンを搭載。
シーズンを追うごとに戦闘力を増していったアコードは、2年目の1996年にデヴィッド・レスリー選手が初優勝を含む3勝、その他にも4度の表彰台を獲得しました。
当時はJTCCでもアコードがデビュー。1997年になるとホンダ内でイギリスと日本の技術的相互関係がより深まっていたと言われています。
その1997年には職人ガブリエル・タルキーニ選手と若手ジェームス・トンプソン選手を擁してマニュファクチャラーズランキングで3位に食い込む健闘ぶりを見せてくれました。
CB型アコードの最終年となる翌1998年もジェームス・トンプソン選手が安定的な速さを見せ、いよいよ1999年のニューマシン登場を迎えます。
欧州専用のCL型アコードをベースとしてあらゆる重量物を車体中心に低く集約し、エンジンは引き続きドライサンプ化されたH22A型改の2リッター直列4気筒を搭載。
熟成を重ねた事でそのパワーは優に300馬力を突破していました。
エースのトンプソン選手は開幕戦の第1レースでいきなりのポール・トゥ・ウィンを成し遂げてみせ、シーズン終了時にはドライバーズランキングで4位。
さらにマニュファクチャラーズランキングでは日産に次ぐ2位を獲得しています。
余談ではありますが、ベース車の欧州仕様CL型アコードには歴代モデルの中で唯一となる「タイプR」が存在したんです。
時を同じくして日本では初代ユーロRが登場していましたが、当時の自動車雑誌等で「欧州アコードTYPE Rを逆輸入か!?」と騒がれていたのを鮮明に覚えています。
まとめ
こうして改めて振り返ってみると、90年代のモータースポーツは本当に元気があったなと感じますね。
各メーカーが本気で作った珠玉のレースマシンを海外に持ち込んで挑戦する姿は、今見ても本当に心が躍ります。
まだインターネットも一般にあまり普及していなかった時代、雑誌やテレビから伝えられる日本車の雄姿にモータースポーツファンは熱狂しました。
そんな時代のマシンだからこそ20年が経過した現在でもヒーローのようなオーラを放ち続け、数々の逸話は世代を超えて語り継がれていくのでしょう。
今回は代表的な車種のみご紹介させていただきましたが、実は三菱がランサーやギャランで同時期のBTCCを戦っていたりもしたんです。
そして忘れてはならない海外の強豪ワークスチームについても、いずれご紹介したいと思います。
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