今でこそ軽自動車以外でオリジナル車種が無くなったダイハツですが、2000年代初めまではオリジナルで個性的なコンパクトカーを作っていました。中でもトヨタ傘下となってから初めて開発されたオリジナルコンパクトカー、初代シャレードはダイハツファンならずとも忘れらてはいけない1台です。
トヨタにたしなめられながらも始動した、コンソルテ後継車「G計画」
「ダイハツさんは、軽自動車に集中してはいかがでしょう?」
トヨタに新型車の開発計画について相談に行ったダイハツの担当者は、こう言われては肩を落とし、スゴスゴと帰っていったと言われています。
1967年、ダイハツ工業はトヨタ自動車と業務提携を結び、トヨタグループ入り。
業務提携といえば聞こえはいいものの、実質トヨタの下請けのようなもので、トヨタで作っていなかった軽自動車を除き、競合する大衆車コンパーノなどは廃止。
代わってトヨタ車を生産していました。
67年11月、ダイハツとトヨタは業務提携を行ない、その結果、ダイハツ・池田にて69年9月よりパブリカセダン、70年10月よりライトエースの委託生産が開始されることとなった(中略)ダイハツは70年に、トヨタ全台数の2%にあたる 3万 4千台のトヨタ車を組立生産していた。
(京都大学学術情報リボジトリ 紅「トヨタ自工における委託生産の展開 – 1960年代トヨタの多銘柄多仕様量産機構(2) -」より引用)
このパブリカとは現在のヴィッツのご先祖にあたる大衆車で、1969年にモデルチェンジされた2代目からダイハツの池田工場と、日野自動車の羽村工場で生産を委託されています。
ただし、乗用車の独自販売から撤退した日野とは異なり、ダイハツは2代目パブリカにダイハツ製1,000ccエンジンも独自ラインナップに加えたOEM車、ダイハツ コンソルテの生産と販売も許されていました。
このコンソルテの後継車をダイハツ独自に作りたい、そうお伺いを立てられたトヨタとしてはもちろん、そんなことをするくらいならトヨタ車の委託生産に注力し、オリジナル車は20系カローラをベースにしたフラッグシップセダンのシャルマンや軽自動車で頑張ればいいじゃないかということになります。
しかし、それでもあきらめずに交渉した結果、パブリカ / コンソルテやその後継車(後のKP61スターレット)より小さく、軽自動車よりは大きなコンパクトカーの開発プロジェクト「G計画」が始動したのです。
直列3気筒エンジンで実現した驚異の「5平米カー」、初代G10シャレード
G計画では、それまでの大衆車がたどってきた「どうせ買うならなるべく大きく広く、少しでも排気量の大きいエンジンを積んだ豪華デラックス路線」に完全に背を向けました。
トヨタの意向もあったとはいえ、なるべく小さく軽く小排気量で、走行性能やスペース効率に優れたコンパクトカーを作ろうとしていたのです。
そうなると小さな車体でも車内を広くするならフロントエンジン・前輪駆動のFFレイアウト、それもエンジンルームを極限まで小さくするためエンジンとミッションを直列に繋げて横置きしたジアコーサ式FFとする必要がありました。
しかし、当時のダイハツにあった1,000ccクラスのエンジンはコンソルテに搭載していた直列4気筒のFE型で、これを横置きすると車体寸法の都合上、フロントタイヤに十分な切れ角を与えられません。
そこで、サーブ 93などに2サイクル3気筒エンジンはあったものの、乗用車用としてはあまり例の無い4サイクル直列3気筒エンジンCB型を新たに開発。
3気筒エンジン特有の振動は、バランサーシャフトで解決しました。
これでパッケージングに目処がつき、1977年11月に初代G10型シャレードとしてデビュー。
FFでありながらステアリング切れ角が大きく、旋回半径は小さいよく走る軽量コンパクトなボディに車内空間の広いシャレードは人々を驚かせたのです。
初代G10型シャレードはこの年、ダイハツ車としては2017年現在に至るまで、唯一の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞。
新たなベーシックカーの基準となりました。
なお、最初は5ドアハッチバックのみでしたが、後にクーペと称する3ドアハッチバックを追加。
リアクォーターピラーに配された丸窓が「マリンウィンドウ」と呼ばれてデザイン上のアクセントになっています。
初代G10シャレードのモータースポーツ活動
ダイハツは四輪車への進出当初から小規模ながらも熱心に独自色あるモータースポーツ活動をしていた自動車メーカーで、1960年代には独力でプロトタイプレーシングカーを開発。
日本グランプリに投入していたほどでした。
それはトヨタグループ入りしてからも方向性を変えながら続けられ、グランプリレースやツーリングカーレースの代わりに軽自動車のミニカーレースや、同じく軽自動車やコンパクトカーでのラリーに参戦し続けているのです。
そして2代目パブリカの兄弟車、コンソルテでもラリーに出場しており、後継のG10初代シャレードも当然のごとくラリーに投入。
JAFのホームページ上からも確認できる記録では、1979年に全日本ラリーが始まるとダイハツワークスのDRS(ダイハツレーシングサービス)からシャレードが早速参戦しています。
スターレットやサニーが走るクラスでリッターカーは不利に思えますが、2017年現在の最も軽い軽自動車並に軽量(630~660kg)にして俊敏。
グロス55馬力の非力なエンジンでも動力性能は十分で、走る・曲がる。止まるのバランスの取れたシャレードは意外にも健闘を見せ、1983年までの5年間で14戦に出場したうち、3勝を上げています。
輸出先のヨーロッパなど、国際的なラリーでも小排気量クラスで多くのG10初代シャレードが活躍しており、1979年のモンテカルロラリーでは地元ディーラーからの要請でDRSワークスが参戦し、見事にクラス優勝。
ハイパワーマシンが活躍する上位クラスでは無いので総合優勝争いにこそ関わりませんが、シャレードはやがて、小排気量クラスに欠かせない「定番の1台」になっていったのです。
まとめ
1970年代後半といえば、まだ日本のみならず世界的にもFF車は4WD車に次ぐ特殊な部類にあった時代です。
ダンテ・ジアコーサが開発しフィアットグループから始まった、エンジンとミッションを一直線に繋ぎ横置きするジアコーサ式FFは日本でも既にホンダがライフやシビックで採用。
世界的にもVW ゴルフのヒットで広まってはいたものの、まだまだ一般的とは言えませんでした。
そこに直列3気筒エンジンとジアコーサ式FFを組み合わせ、コンパクトでも広い車内空間と取り回しの良さを両立させた初代シャレードは、まさにコンパクトカーの革命児だったのです。
そのメリットはモータースポーツでも存分に生かされ、2代目以降のシャレードが大活躍していく原点となっています。
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