大型高級サルーンの7シリーズを除き、M2からM6まで勢ぞろいしたBMWのハイパフォーマンスカー「M」シリーズ。しかし肝心のM1が見当たりません。そんな新時代のM1登場を期待する機運が高まる中、BMWが1970年代後半に初めて作ったスーパーカーが残した悪戦苦闘の記録と、決して黒歴史ではないその実績を振り返ってみましょう。
CONTENTS
BMW M1前史・BMWターボ(E25)
ドイツの高級車メーカー2大巨頭として、メルセデス・ベンツよりちょっとスポーティー寄りなのが個性のBMWですが、意外に市販スポーツカーの販売実績は少なく、ことリアミッドシップとなれば1970年代後半に開発したM1と現代のi8しかありません。
また、ツーリングカーでは数々の実績を残していたBMWですが、その歴史で数少ない、そして初のミッドシップスポーツM1には元ネタというべきモデルがありました。
それは、西ドイツ(当時)のミュンヘンで夏季オリンピックが開催された1972年、同地にBMW博物館を建設した記念として2台製作した開発コードE25、BMWターボです。
BMW 2002ターボの2リッター直4ターボエンジンを280馬力にチューンしてリアミッドシップに搭載、近代的なコクピットやレーダーセンサーなどが搭載された未来的なコンセプトカーで、当時BMW社内デザイナーだったポール・ブラックがデザインしました。
このモデルは2台しか作られませんでしたが、ガルウイングドアこそ受け継がれなかったものの、リトラクタブルライトや薄く小さなキドニーグリル、テール両端のBMWエンブレムなど後のM1の特徴が、既にこのBMWターボには表れていたのです。
打倒ポルシェ!まず立ちふさがるはオイルショック!
BMWターボ完成から数年後の1976年、開発コードE26の開発が始動します。
今度はコンセプトカーではなくレーシングカー!
それもグループ4で934が、グループ5で935が圧倒的に強かったポルシェに対抗するための、4.5リッターV12エンジンを搭載した怪物マシンです。
しかし、タイミング悪く「これならポルシェなど目では無い、勝てる!勝てるぞぉっ!」と意気込んだところでオイルショックの波がモータースポーツにも達します。
そして、「エコの時代にそんな大きく重いエンジンを積むなんて時代錯誤も甚だしい」ということになり、仕方なくツーリングカー用の3.5リッター直6DOHCエンジンに変更。
(ちなみに1976年当時のポルシェはいずれも水平対向6気筒で、934が3リッターターボ、935が2.9リッターターボでした。)
最初からいきなりつまづいてしまったE26でしたが、エンジンのオイルパンを廃せるドライサンプ方式を採用し、エンジン搭載位置を目一杯下げて重心を低くしたリアミッドシップレイアウトにより、絶妙なコーナリングを狙った配置となっています。
イタリアン・ジョブ
BMWターボの経験があったとはいえ、市販車でミッドシップスポーツなど作ったことが無いBMWは、その開発とシャシーの製造までをイタリアのランボルギーニに委託しました。
そして、後にフォーミュラカーのシャシー製作で名を上げるジャンパオロ・ダラーラが設計を担当した角形鋼管セミスペースフレームが採用され、強靭な剛性となったのです。
そこにボルト止めと接着剤を応用して、軽量のFRPボディがペタペタ貼り付けられました。
こうして完成した試作車は1977年夏には走行を開始、ここまでは後のゴタゴタが信じられないほどの順調ぶりでした。
さすがスーパーカーの名門ランボルギーニ!と思いきや、そこから事態はとんでもない方向に向かいます。
嗚呼ランボルギーニ
ランボルギーニと言えば昔は「スーパーカーは作れどレースには出ない」が社是だったようなメーカーでした。
そこにグループ4レーシングカーのベース車を任せていいのかを考えただけで、既に嫌な予感がします。
また、当時のランボルギーニは本業のトラクター販売がボリビアのクーデター(1971年)によって大量キャンセルとなり大打撃を受けていました。
そして、スーパーカー部門もオイルショックによる販売不振というダブルパンチでスイス人投資家の手に渡っており(1974年)、仕事の選り好みが出来る状態では無かったのです。
案の定というべきか、E26の生産段階でランボルギーニは馬脚を現してしまい、そのとてつもない作業の遅さにBMWは悲鳴を上げました。
グループ4レーシングカーは「連続する24ヶ月間に400台を生産する」のが公認の条件でしたが、BMWの見積ではとても無理!かくなる上はランボルギーニを買収し…と計画するも、同社下請けメーカーの抵抗で頓挫してしまいます。
結局、BMWに完全に愛想を尽かされ契約を破棄されたランボルギーニはあえなく倒産、買い手がつくまでの数年間、イタリア政府の管理下に置かれました。
完成までイタリアとドイツを往復するスーパーカー、M1誕生
万策尽きたかに見えたE26ですが、ボディデザインを担当したジョルジェット・ジウジアーロのイタルデザインとの縁か、元ランボルギーニのエンジニアグループがイタルエンジニアリングという会社を設立し、ボディメイクを担当することを提案。
結果、シュツットガルドのコーチビルダー、バウアで生産したフレームをイタリアのイタルエンジニアに送って外装の組み付けと塗装を行い、ミュンヘンのBMWモータースポーツ社で最終的なサスペンションやブレーキなどの組付が行われることになりました。
どう考えても奇怪なこの生産方式が、なぜ採用されたのかは不明ですが、ランボルギーニよりマシとはいえ月産3台で「24ヶ月に400台生産可能かどうか」など、簡単に計算できるはずなのです。
それでも1978年秋、パリサロンでE26はBMW M1として華々しくデビューしました。
しかし、その頃のポルシェ934と935は着実に実績を上げており、935 / 78 “モビィ・ディック”など、2座オープンプロトタイプレーシングカーのグループ6レーシングカーより速くなっていたのです。
「とにかくレースへ」BMW M1プロカー選手権開催
着々と進化していくライバルと1戦も交えぬまま「幻のレーシングカー」として終わってしまうのではないか…焦ったBMWでは、F1選手権のサポートレースとして「BMW M1プロカー選手権」を開催し、とにもかくにもレースでM1を走らせることにしました。
そして、市販モデルの277馬力から470馬力にパワーアップされたグループ4仕様M1は、精悍なボディにオーバーフェンダーやエアロパーツを装着して迫力満点!
さらに、ワンメイクレースとはいえニキ・ラウダやネルソン・ピケら現役F1ドライバーがステアリングを握って激しいバトルを繰り広げたので、人気が出ないわけがありません。
その後、BMWモータースポーツがF1へのエンジン供給を決定、そこに注力するためこのレースはわずか2シーズン、1979・1980年のみで終わってしまいましたが、2008年に往年のドライバーに現役ドライバーを加えたリバイバルレースが、ホッケンハイムで開催されています。
ああ遅かりし由良之助!
プロカー仕様、つまり20台ばかり作られたグループ4仕様を含むM1の生産は相変わらず遅延していましたが、バウアに最終工程の一部も担当させるなど生産計画の一部を見直し、1980年の終わり…ついに!ついに!400台目のM1がラインオフ!
これで晴れてBMW M1は「グループ4とグループ5レースでポルシェに挑戦する。」という当初からの目標に到達できたのです。
この時点で、規定で定められた24ヶ月はとっくに過ぎていたのですが、特例で1981年からのグループ4レースへの参加が認められました。
しかし、時すでに遅し!1982年からグループ4はグループBに、グループ5はグループCへと変わり、新世代マシン時代到来が決定していたので、M1がその当初に描いた計画通りに活躍できるのは、1981年だけになってしまっていたのです。
それにより、結局M1は1981年までにレース用を含め約3年間で477台を生産するに留まり、非常にレアな存在となりました。
※「遅かりし由良之助」:「機を逸して用をなさない」という意味。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」より。
グループ5レース最終シーズンでの奮闘
過ぎたことを悔やんでも仕方がないので、BMWは次に、排気量を3.2リッターに縮小しKKK製タービンを組み合わせた850馬力のグループ5マシン(上写真)で、宿敵ポルシェ935に挑みます。
1981年、グループ4 / 5規定で開催された最後のシーズンは、さすがに熟成が進み最高出力950馬力に達するポルシェ935に対し、いきなり勝てるほど甘くはありませんでしたが、ニュルブルクリンク1,000kmレースで初優勝!
ドライバーは、M1プロカー選手権でステアリングを握ったF1ドライバー、ハンス・ヨアキム・スタックとネルソン・ピケのコンビでした。
この優勝は、ハーバート・ミュラーの不幸な事故によりわずか17周へ短縮されたレースだったとはいえ、世界スポーツカー選手権で唯一総合優勝を果たした、貴重な1勝となったのです。
グループBレーシングカーとして活躍
1982年以降、956を投入してトップカテゴリーのグループCカーで王座を勝ち取るポルシェに対し、トップカテゴリーはF1に注力と決めていたBMWはグループB部門でM1のグループ4仕様(つまりかってのワンメイクレース用プロカー)を出場させます。
そこでもポルシェ930との戦いとなりましたが有力チームの撤退もあり、ついに1984年には世界スポーツカー選手権グループBクラスでシリーズ優勝を果たしました。
結局、1985年を最後にグループBが廃止されるまでM1はグループBクラスに出場、何度かポルシェ911を退けてクラス優勝を遂げています。
変わり種?M1のグループBラリーカー
なお、レース以外で変わったところでは、1982年と翌年のWRC(世界ラリー選手権)ツール・ド・コルスに地元ディーラーチームからグループBラリー仕様のM1が出走したと言われています。
目立った戦績は見当たりませんが、例えば1982年のツール・ド・コルスでは優勝したルノー5ターボはともかく、2位がフェラーリ308GTBで3位がポルシェ911SCと、思わぬマシンが予想外の成果を上げました。
1983年もランチア ラリー037が表彰台を独占するなど、ターマック(舗装)イベントならまだまだ2WD車が活躍できた時代です。
そのような中、BMW M1というスーパーカーにもチャンスがあるのでは?と出場したクルーやチームを思うと、ちょっとした夢を感じます。
BMW M1の代表的なスペック
BMW M1 (市販型) 1980年式
全長×全幅×全高(mm):4,360×1,824×1,140
ホイールベース(mm):2,560
車両重量(kg):1,300
エンジン仕様・型式:M88 / 1 直列6気筒DOHC24バルブ
総排気量(cc):3,453cc
最高出力:277ps/6,500rpm
最大トルク:33.0kgm/5,000rpm
トランスミッション:5MT
駆動方式:MR
中古車相場:ASK
まとめ
BMWが新時代の「M」シリーズにM1をなかなか追加しないことに関しては様々な憶測が飛び交っています。
「結局はプロジェクトとして失敗した黒歴史なので、BMWもあまり触れたくないのでは。」
「遅ればせながら活躍したことは確かなので、M1の名を受け継ぐのにふさわしいマシンを開発するまでの”とっておき”なのだろう。」
真相はわかりませんが、初代1シリーズに存在した1シリーズMクーペにM1の名を冠しなかったことや、「BMW MOTORSPORT FESTIVAL 2017」など公式イベントのパレードランにM1を参加させていることを考えれば、おそらくは”とっておき”なのだと思います。
それがBMW内燃機関としては最後の、あるいはEVとして最初のスーパーカー(ハイブリッドはすでにi8がある)になるかはわかりませんが、いつか再登場に期待したいものです。
Motorzではメールマガジンを配信しています。
編集部の裏話が聞けたり、最新の自動車パーツ情報が入手できるかも!?
配信を希望する方は、Motorz記事「メールマガジン「MotorzNews」はじめました。」をお読みください!