1994年、とあるドイツの青年が単身日本へと武者修行にやってきました。彼の名はミハエル・クルム。その後の今日に到るまで、四半世紀近くも日本で過ごす事になろうとは、この時のクルム青年は思ってもいなかったことでしょう。今では流暢な日本語での軽妙なトークで、モータースポーツファンを楽しませてくれるまでになりました。今回は、そんなミハエル・クルム氏について、掘り下げていきたいと思います。
ミハエル・クルムの経歴
1970年3月19日、ミハエル・クルム氏はサッカーで有名なドイツ バイエルン州のお隣『バーテン=ヴュルテンべルク州』で生まれました。
そして、18歳の時にドイツ国内のフォーミュラ フォードでデビューし、レーシングドライバーとしてのキャリアをスタートさせ、翌年の1989年にはシリーズチャンピオンを獲得。
早速、その才能を覗かせます。
その後、20歳でドイツ フォーミュラオペル ロータスへとステップアップを果たし、シリーズチャンピオンを獲得。
さらに1992年にはドイツF3、1993年にはドイツF3とイタリアF3など、その活躍の場を着々と広げていきました。
#TBT as it is #MonacoGP Thursday @MichaelKrumm walking to his #F3 car on the grid for the support race in the early 90’s pic.twitter.com/s0JPrjj7W1
— Mike Perry (@MikeRDM) 2018年5月24日
F1モナコGPの木曜日。
前座レースとして行われたF3でグリッドに向かうクルム選手。
写真は90年代初頭に撮影されたものということで、92年もしくは93年だと推測されます。
日本へは前述の通り1994年、25歳の時にやってきます。
そして、同年の全日本F3選手権でシリーズチャンピオンを獲得し、以後の全日本F3000選手権 フォーミュラ ニッポンや全日本GT選手権 SUPER GTなど、日本のトップカテゴリーでの活躍は皆さんもよく知るところだと思います。
その後1998年にドイツツーリングカー選手権へ日産 プリメーラで参戦したことを機に、日産のワークスドライバーに抜擢。
今では、日産モータースポーツ活動の”顔”と言っても過言ではない存在となっています。
そんなクルム氏ですが、実は2001年にはアメリカに渡り、CARTシリーズにもチャレンジしています。
しかし、デイル コインレーシングからの参戦でしたが、チームがシーズン途中でCARTから撤退してしまったため、日本への帰国をやむなくされてしまいました。
また2012年より、ル・マン24時間に次世代車枠の“ガレージ#56”でエントリーするデルタウィングのドライバーにも起用されます。
そして2013年9月30日には、日産GT-R NISMOでニュルブルクリンク北コースを7分08秒679で周回し、当時の量産市販車としての世界最速の記録を更新。
現在では現役を退いたものの、ニスモアンバサダーとして日産やニスモの広報活動を行う他、ドイツ生まれのエンジンコーティング剤『レヴィテック(REWITEC)』の日本総代理店を務めるテクニックグループ株式会社の代表取締役として経営のステアリングも握っています。
クルムとSUPER GTの出会い
全日本GT選手権(後のSUPER GT)には、1995年にトヨタ スープラでデビュー!
シリーズランキング5位、優勝1回と好成績を収めます。
翌1996年シーズンはポルシェでのスポット参戦のみで、フォーミュラに集中しますが、1997年には後にF1ドライバーとなるペドロ・デ・ラ・ロサとのコンビでチームトムスから参戦し、シリーズチャンピオンに輝きました。
そして1998年からは日産へ移籍し、前述の通りドイツツーリングカー選手権へ挑戦。
翌1999年シーズンから日産 スカイラインGT-Rで全日本GT選手権に復帰し、以後NISMOのドライバーとして活躍を続る事に。
そして2003年には本山哲選手とともに、2度目のシリーズチャンピオンを獲得。
以後、2009年まで5年間に渡って、日産のエースドライバーとしてフェアレディZやR35GT-Rのステアリングを託されました。
また、2009年から2011年にかけてはSUPER GTからフィールドをFIA GT選手権(2010年にFIA GT1世界選手権と改名)に移して、日産 GT-Rで参戦。
2011年にはルーカス・ルーアと組んでJRモータースポーツからエントリーし、参戦3年目にして悲願のシリーズチャンピオンを獲得しています。
2012年は、ブノワ・トレルイエ選手がSUPER GTと多くの日程が重なる『FIA 世界耐久選手権』へ参戦するためにNISMOを離脱したことから、その後釜としてSUPER GTに復帰。
本山哲選手と8年ぶりにコンビを組んだことで、ファンを喜ばせました。
そして2013年からの3年間はKONDO RACINGに移籍。
その後、惜しまれつつも2015年シーズンをもってSUPER GTからの引退が発表されました。
実は、校長先生やってます!
また、2017年からNISMOオーナーのためにスタートしたドライビングスクール『NISMOドライビングアカデミー』の校長に就任。
ちなみに副校長は柳田真孝選手・藤井誠暢選手が務めており、その他にも松田次生選手や千代勝正選手、ロニー・クインタレッリ選手など、豪華ドライバー陣が講師を務め、ドライビングポジションの合わせ方からクリッピングポイントをとる走り方まで、手取り足取り教えてくれるという、なんとも贅沢なドライビングスクールとなっています。
そんなスクールへの参加資格はNISMO車のオーナーのみとなっているのですが、むしろ熱心なNISMOファンならば絶対に参加しておきたいところ。
またライセンスも不要で、参加費も1万5000円からとかなりリーズナブルなので、少しでも気になった方はぜひHPをチェックしてみてくださいね。
まとめ
. @MichaelKrumm がドイツ語でインタビュー。ドイツ語上手ですね!ドイツ人だったと再認識(笑)
さ)#Nur24jp #n24h pic.twitter.com/PvMew8cUqj— ニスモ@2/9体制発表会 (@NISMO_JP) 2016年5月25日
今回は、日本での生活も長く、我々にとって非常に馴染み深い外国人ドライバーである、ミハエル・クルム氏をご紹介しました。
地元、ドイツで開催されるニュルブルクリンク24時間レースなどで、ドイツ語でのインタビューに流暢に答えている光景を見て、改めて「そういえばドイツ出身だったっけ…」と思わせるほどに、多くの日本のモータースポーツファンから愛されているドライバー!!
NISMOアンバサダーとしてサーキットレポーターなども行なっているので、まだまだその姿を見かける機会は多いと思います。
是非、これからの活躍にも注目してみてくださいね。
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