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[後編]「もっといいクルマを作りたい。」トヨタ社長、豊田章男氏が目指す”いいクルマ”とは

「もっといいクルマを作りたい」。前編・後編に分けて迫る、トヨタ自動車代表取締役社長・豊田章男の軌跡。彼の運命を変えたのは「ニュル・マイスター」の異名をとり、1960年代からトヨタの自動車開発に携わってきた伝説のテストドライバー、成瀬弘との出会いでした。クルマに命を捧げる男との出会いは、自動車メーカーの創業家に生まれた豊田を真の「クルマづくり」へと目覚めさせていったのです。

 

©TOYOTA

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ニュル・マイスターのドライビングレッスン

 

©TOYOTA

 

1960年代からトヨタに在籍し、トヨタ2000GTやスープラ、AE86レビン・トレノ、MR2などのスポーツカー開発に携わってきた成瀬弘。

頑固で職人気質、時には上層部の決定にも食ってかかるクルマ作りへの情熱は、トヨタ社内はもとより他メーカーのドライバーからも「熱い親父」として知られている程でした。

そんな彼はいくつか異名を持っていますが、その中に「ニュル・マイスター」というものがあります。

ニュルとは、ドイツにある世界最難関のサーキットとして知られるニュルブルクリンク・ノルトシュライフェのこと。

20kmを超える全長には172ものコーナーがあり、高低差はおよそ300メートルという桁破りに険しいサーキットで、世界中の自動車メーカーが性能テストを行う世界一のテストコースとしても知られています。

成瀬は車両開発の為に1970年代からそのニュルに通っており、ニュルなら道路のシミひとつまで知っている、と言われるほどこのコースを熟知していました。

そしてニュルで鍛えられた成瀬のドライビングは、クルマの限界を引き出しながらも全く無駄がなく、「彼の運転は美しかった」と多くの人が語っています。

当時、取締役副社長だった豊田章男は、そんな彼に自ら弟子入りを申し出て、多忙の合間を縫ってドライビングを学びはじめました。

彼はやみくもに上手くなることを望んだのではなく、「自動車メーカーの人間なら、クルマを正しく評価出来るようになりたい」というのがその目的でした。

そしてテストドライバーの教育を担ってきた成瀬の指導は的確そのもので、まずはブレーキング、続いてコーナーのライン取りと、豊田は基本を着実に学んでいったのです。

同時に、豊田はテストドライバーが「命がけでクルマを仕上げる職人」であることを身を以て理解していきました。

なぜなら、試作段階のクルマには、市販車ほどの安全の保証はありません。

何か問題が起きた時には、突発的に危機を回避するような「事故を起こさない」テクニックや未然に察知するスキルが非常に重要となるのです。

成瀬は未来の社長を守る為に、こういった技術も惜しみなく伝授していきました。

そんな成瀬と時間を過ごしていく中で、豊田は彼のクルマに対する考え方も徐々に吸収していきます。

彼が事あるごとに口にする「いいクルマづくりに終わりはない」という言葉。

それは走っては直しを繰り返しながら、感覚と感性を研ぎ澄まし、言葉に出来ない良さを形にしていく作業で、それこそがテストドライバーたちの「クルマ作り」だったのです。

いいクルマとは何か。

トヨタに限らず様々なクルマのステアリングを握りながら、豊田の中でも自問自答が始まっていきました。

 

レースが教えてくれた事

 

©TOYOTA

 

豊田のテクニックがついに「レースに出れるレベル」にまで到達しようとしていた頃から、成瀬は彼にある提案をしていました。

それは、社内のメカニックとテストドライバーとともに、ニュルブルクリンク24時間レースへ出場するというもの。

「世界一過酷」とも言われるこのレースは、前述のニュル・ノルトシュライフェをメインとするコースで争われる一大イベントです。

このレースは、ただでさえ難しいニュルを24時間走り切らなければならず、過酷なコース故にアクシデントも多いので、ノートラブルで走り切るクルマはほとんどありません。

そんな過酷なイベントに未経験の社内メカニックと、レーサーではなくテストドライバー、そして豊田を引き連れて挑むという計画で、この経験こそが「人とクルマを鍛える」、という成瀬の考えでした。

そして一応「トヨタ」としてのメーカー参戦ながら、成瀬は誰の手も借りず、選ばれたメンバーだけで全部やることにとことん拘ります。

マシンは中古のアルテッツァを2台自分たちで見つけ出し、これをレース仕様にカスタム。

メカニックは若い社内の技術者たちで、ほとんどの者がレース未経験。

もちろん豊田も、いかに腕前が上がったとはいえレーサーではありません。

そんな中、実際に彼らは2007年のニュル24時間へと挑みました。

さすがに豊田の出走順は日中を予定していましたが、悪天候で一時レース中断が発生した事から、日が暮れ始めた夕方、ナイトセッションに突入してしまいます。

極度の緊張の中、このスティントで豊田が経験したものは、テストコースでの走りでは有り得ない「死の恐怖」でした。

クラス分けが細かく、速いマシンと遅いマシンが200台以上混走するこのレースでは、頻繁にオーバーテイクが発生します。

それによりクルマ2台が並ぶことすら恐ろしい、道幅が狭くアップダウンの激しいコースを、常に注意深く走らなければならないのです。

成瀬の指示は「2秒に1回後ろを見ろ!」というもので、背後から洪水の様に押し寄せるヘッドライトの群れを見て、豊田はその必要性を理解せざるを得ませんでした。

そして豊田は成瀬のマシンの後ろに付きながら、全神経を研ぎ澄ましてステアリングを握り続けます。

結果、多くのトラブルをチーム一丸となって乗り越え、彼らは無事に2台揃っての完走を果たしたのです。

豊田がこのレースで得たものは、レースをやり切ったという達成感以上のものでした。

常に限界を試されるレースという舞台は、人を、クルマを育てるのに必要であるという確信を得たのです。

その極限の経験を市販車に生かし、「いいクルマ」を作ることに繋げていく。

同時に豊田はこの活動を続けなければ、繰り返し挑まなければ意味がない、と考える様になっていきました。

事実、トヨタはこの2007年から2017年まで休む事なくニュルへと挑み、人とクルマを鍛える挑戦を継続しています。

 

クルマを愛する社長の使命

 

©TOYOTA

 

2009年、遂に豊田はトヨタ自動車代表取締役社長に就任します。

トヨタは2000年代に入ってから過去最高益を毎年更新し続け、世界各国の生産拠点を増やし急成長を遂げていましたが、リーマン・ショックの影響で2008年に業績が一気に悪化。

一転して、創業以来初の営業赤字へと転落してしまいました。

そんな中での社長就任だったのです。

その当時のトヨタは品質と使い勝手では高い評価を得ていたものの、一方で「売れ線狙いのつまらないクルマ」「平均的で味気ない」などの評判が目立っていました。

しかし、豊田章男には巨大企業を舵取りする経営手腕に加えて、クルマへの大いなる情熱が備わっていたのです。

加えて、彼は成瀬の手ほどきにより、テストドライバーも認める「クルマの味が分かる」技量を持っており、だからこそ今のままではトヨタ車はダメだ、と強い危機感を持っていました。

そして就任以降の豊田は、社内外問わず「もっといいクルマを作りたい」というようなことを口にするようになります。

しかし、それまで販売台数や世界シェアなどの数値目標を絶対のミッションとしてきたトヨタにとって、「いいクルマ」という言葉は理解し難いものだった様です。

やっぱりね、分かりやすいんですよ、数値目標というのは。

でも、少々分かりやす過ぎる。

私が自分の口から数字を言わないのは、私が言うとそんなふうに分かりやすい方向に行っちゃうからなんだ。

だから「いいクルマをつくろうね」とだけ繰り返し語ってきた。

豊田は効率化を追求し、既に完成の域にあるトヨタ式のクルマ作りを次なるレベルに高める為、ユーザーの期待を超える製品を生み出す為に、敢えて感覚的で曖昧な「いいクルマを作る」というキーワードを掲げたのでした。

そこに正解はなく、ただいいものを作ろう、という試行錯誤の連続がある。

豊田はそれこそが、トヨタの本来あるべき姿だと考えていたのです。

それは、師匠・成瀬の背中から学んだ事でもありました。

 

マイスターの死と新たな決意

 

©TOYOTA

 

豊田が社長に就任してから1年後の2010年、突然の悲劇が彼らを襲います。

ニュル近郊の公道で「レクサス・LFA」のテスト中だった成瀬弘が、反対車線に飛び出し対向車と激突。

この事故により、彼はこの世を去ってしまいます。

このLFAというクルマは、新開発のV10エンジン、量産車初のカーボンモノコックシャシーを搭載し、2010年に発売されたスーパースポーツです。

企画開始当時、上層部から「採算が合わない」という理由で反対されていたものを、豊田が熱弁を振るって市販化まで漕ぎ着け、マスターテストドライバーとして成瀬がニュルブルクリンクで徹底的に鍛え上げたクルマでした。

成瀬が事故当時ドライブしていたのは、LFAの最終モデル「ニュルブルクリンク・パッケージ」と呼ばれるモデル。

成瀬に変わってレーシングドライバーの飯田章がテストを重ね、ニュル最速を目指して開発している真っただ中で、その日は初めて成瀬がステアリングを握り、その評価をしている最中でした。

成瀬は自ら「いいクルマづくりに終わりはない」と語る通り、自社のクルマを手放しで認めたり、満足することはありませんでした。

しかし、彼はこのLFAニュル・パッケージを絶賛。

「これこそ求めていたものだ!」「トヨタもやれば出来るじゃないか!」トヨタを愛し、いいクルマを作る為に戦い続けた成瀬は、その最高傑作の完成とともに、この世を去ってしまったのです。

豊田は「絶望という言葉ではとても言い表せなかった」と語るほど、大きな喪失感と悲しみに襲われました。

同時に、彼が取り組み続けた終わりなき「いいクルマ作り」を、自分が引き継ぐんだ!という強い思いは、豊田の情熱をさらに強く、特別なものへと変えていきます。

やがてその思いは、LFAの世界的な高評価やレクサスの革新的なブランド戦略、そしてトヨタ久しぶりの大衆向けスポーツカー「トヨタ・86」のデビューなどによって、ひとつずつ形になっていったのです。

また、レースにおいても世界耐久選手権(WEC)や世界ラリー選手権(WRC)など、厳しい世界の最前線で激しい戦いに臨んでいます。

それまでは広告塔という意味合いの強かったレース参戦ですが、豊田の社長就任、そしてTOYOTA GAZOO Racing発足以降は「人を鍛え、クルマを鍛える」というブレない信念のもと、活動が続けられているのです。

 

まとめ

 

 

現在、豊田はレクサスのマスターテストドライバーを自ら引き受けるなど、自らの手でトヨタ車の乗り味を日々追求しています。

安全で、魅力的なクルマを作る為には、ユーザーが体験し得ない限界領域を煮詰める事は重要です。

さらに、数値では決して測れないクルマのフィーリングを追求し、「いいクルマだな」という感覚を引き出す。

それこそが、成瀬らテストドライバーの使命でした。

それを社長自らがこなす頼もしい会社が現在のトヨタなのです。

そんな彼にレーシングスーツが似合うのは、当たり前かもしれません。

豊田の座右の銘は、チャーリー・チャップリンの名言でもある、「ネクスト・ワン」。

最高傑作は次回作、という意味です。

いいクルマ作りに終わりはない…成瀬の遺志とひとつになり、情熱溢れる社長の挑戦は続きます。

 

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Writer Introduction
Shinnosuke-Miyano

20代の頃はメカニックをしたり、お洋服の仕事をしたり、とりとめのない日々を送ってきました。 クルマの楽しさやレースの奥深さを、時にマニアックに、時にエモーショナルにお伝えしていければと思います。 https://www.facebook.com/shinnosuke.miyano

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