Gr.A GT-R
当時はオフロード車というイメージが強かった4WD。
星野自身も、「4WDをサーキットに持ち込んでどうする気だ」と当初は懐疑的だったようです。
ところが1990年の開幕戦、デビューレースでの圧倒的なポール・トゥ・ウィンを皮切りに、星野のカルソニック・スカイラインはシリーズ6戦中5勝という圧倒的な戦績を残しチャンピオンに輝きます。
結果的にはシリーズ終焉までの3年間、GT-Rは29連勝という信じ難い戦績を残し、星野はうち15勝という圧倒的なリザルトを残すことになるのです。
なかでもファンならずとも強いインパクトを残したのが、縁石に乗り上げてのダイナミックな片輪走法でしょう。
「車高が高いから、縁石をゆっくり行くとダメ。オートバイで山を飛んで超える時、フロントから落っこちたら転んじゃう。それと同じで、勢いつけて縁石に乗って、ハンドル切るタイミングに合わせてその反動を利用すれば、次の縁石にはノータッチでいけるわけよ。それはモトクロスの技術。タイムが全然違う。これは俺の特技だからしょうがないよ(笑)」(三栄書房 Racing on No.474 24Pより抜粋)
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つまりは、シケインの侵入で縁石に乗り上げイン側をリフトさせた後、フェイントモーションを使って2つ目の縁石をなかば飛び越えて脱出速度を上げる・・・4WDのトラクションがあればこそ最大限の効果が期待出来るテクニックとも言えます。
見た目にもインパクトのあるこのシーンは星野の豪快さを象徴する場面として有名ですが、実は跳んではねるが当たり前のモトクロス・ライダーだった星野ならではのクレバーな「立体的戦法」だったのです。
JGTC、新たなライバルたち
カルソニック・ブルーを伝説にしたのは、正にグループAでの星野の熱い走りでしょう。
通算成績29戦中15勝の圧倒的な速さで星野一義とチーム・インパル、ひいては日本のレースシーンの象徴となったカルソニック・ブルーのスカイラインですが、次なる舞台はGTカーレースへと移っていきます。
GTカテゴリーは、当時ヨーロッパを中心にグループC消滅後のトップカテゴリーとして台頭。
日本では1994年、全日本GT 選手権としてシリーズ化され、エントラントが増え盛り上がりを見せた1995年以降日産・トヨタなどのワークス勢に加え、フェラーリF40やマクラーレンF1GTRなど、本家本元のGT1マシンも数多く参戦し人気を博します。
レギュレーション都合でFR化されたものの、筋骨隆々としたGTマシンに変貌を遂げた、R32の後継車種である”R33型”スカイラインGT-R。
星野の駆るカルソニック・スカイラインはGT最強のMcLaren F1 GTR、トヨタ・スープラ、そしてNISMOワークスとして乗り込んできた同じGT-R勢を相手に苦戦するものの、時にグループA時代を彷彿とさせる熱い走り・執念の勝利でレースを沸かせました。
引退、そしてチーム監督へ
1999年、NISMOはR34GT−Rを投入し1998年に続く2年連続チャンピオンとなります。
しかし、2000年以降はフロントヘビーかつ設計上どうしてもかさばるRB26エンジンが仇となり、空力面で優れたNSXとスープラにそれぞれチャンピオンの座を奪われます。
そんなGT-Rにとって冬の時代ともいえる間、チーム・インパルの星野は別の敵とも戦っていました。
2002年の第5戦、富士スピードウェイ。
シーズン中というタイミングで、星野一義は現役引退を表明します。
実はヘルニアから来る腰痛に長い間苦しめられ、時に唸り声を上げながらステアリングを握り続けていたのです。
星野は「自分自身をクビにするのが良いと思った」と語り、若きブノワ・トレルイエにそのシートを譲ったのです。
最後の勝利は2000年9月。
最強を誇ったカルソニック・ブルーは表彰台の頂点になかなか立てずにいました。
更にこの第5戦・富士を機に、グループA時代から基本設計を変えぬまま採用されて来た、伝統の直列6気筒エンジンRB26DETTに変わり、重量バランスとコンパクトさに優れるV型6気筒ユニット”VQ30DETT”にGT-Rの心臓部が変更されました。
それは初代ハコスカから続いた最強の直列6気筒エンジン、その伝説の終焉であり、同時にRB26の奏でる美しいサウンドとの別れとなりました。
星野はその最後に立ち会い、V6エンジン搭載のGT-Rのステアリングを一度だけ握り、惜しまれながらも花道を去っていったのです。
その後の2007年、V6エンジン搭載の日産・GT−Rが、世界に革命をもたらすスーパーマシンとしてデビューを果たす5年前の出来事でした。
まとめ
星野が引退した翌年、2003年JGTC第4戦。
大雨の富士スピードウェイにて、初の2ヒート制で行われたスプリント・レースでは、1レース目に7番グリッドからスタートした井出有治が「アテーサETSでも効いているのではないか」 という驚異の速さでライバルを抜き去り、そのまま2位以下を引き離しトッブチェッカー。
続く2レース目では、ヘビーウェットの路面でポールからスタートしたブノワ・トレルイエが、現役時代の星野を彷彿とさせる鬼気迫る走りでトップの座を守り切り、またしてもトップチェッカー。
後続を抑えながら最終コーナーを4輪ドリフトで抜けていくその走りは、新たなチームインパルのファンを作ったに違いありません。
それは正しく世代交代の瞬間であり、同時に監督としての星野の人生、そのスタートとしてあまりにも「彼らしいレース」そして「彼らしい勝利」でした。
チーム・インパルが今尚愛される理由。それは、星野一義とスカイラインGT-Rのチームだからでしょう。
このことに殆ど疑いはないはずです。「250キロ以上の猛スピードで走ってたら、細かい塗り分けなんて分からない」そんなこだわりのカルソニック・ブルーには、星野とスカイラインGT-Rの武勇伝、そのすべてが込められています。
そして誰もが、トップチェッカーを受ける青いそのマシンに、得も言われぬ熱い気持ちを抱かずにはいられないのです。
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