日本でモータースポーツが始まったのは、1950年代でした。その黎明期に活躍したのが生沢徹氏です。15歳で二輪デビューし、浅間火山レースで活躍。四輪に転向後はプリンス・ワークスに所属し、図らずも「スカイライン神話」の立役者となりました。その後はヨーロッパを転戦。そんな、生沢氏の足跡を振り返ります。

掲載日:2019/09/27

第3回日本グランプリ(1966年)スカイラインGTと411ブルーバード / © 著作権 2018 日産自動車株式会社

“カミソリ徹”として名を馳せる

出典:http://st.automobilemag.com/uploads/sites/11/2013/02/1964-Japan-Grand-Prix-Skyline-GT-leading-Porsche-904.jpg

1942年生まれの生沢徹氏は1958年、15歳で二輪レースの『浅間火山レース』に出場します。

そしてすぐに非凡な才能を示し、ホンダ・テクニカルワークスで経験を積みますが、二輪での活躍は長くは続かず、1963年にプリンス自動車と契約し、四輪に転向。

この年、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催され、日本のモータースポーツは本格的な幕開けを迎えます。

当時、日本ではレーシングドライバーが職業として確立されておらず、自動車メーカーの実験部の社員が業務の一環としてレースに出場するような体制をとっていましたが、プリンス自動車は生沢氏をはじめ、砂子義一氏、大石秀夫氏ら二輪で活躍していたライダーを四輪に転向させて、ワークスドライバーとして契約したのです。

彼らは、日本の自動車メーカーのワークスドライバー第一世代といえるでしょう。

生沢氏は天才と称されたドライバーで、カミソリに例えられるほど切れ味の鋭いドライビングが持ち味だったそうです。

一方、ライバルとされた浮谷東次郎氏は努力型のレーサーで、ナタと呼ばれるほど豪快な走りで人気を博していました。

そんな生沢氏の名前が全国的に広まったのが、1964年の第2回日本グランプリ。

プリンス・ワークスは、このレースのGT-IIカテゴリーに『スカイライン2000GT』を出場させます。

この車は1500ccのスカイラインの車体に、グロリア用 2000cc6気筒エンジンを搭載した、レースに出場するために製作されたホモロゲーション車両です。

生沢氏はプライベートでエントリーしていた式場壮吉氏のポルシェ904GTSとデットヒートの末破れますが、翌日の新聞はこのレースの模様を大きく報じ、この日を境に生沢氏とスカイライン2000GTは日本中の若者の憧れとなりました。

後年『間違いだらけのクルマ選び』を著した自動車評論家の徳大寺有恒氏は当時、トヨタのワークスドライバーとして活躍していました。

そして第二回日本グランプリでは式場氏のピットクルーを務めていたそうですが、晩年に至るまで「生沢君のスカイラインがポルシェを抜いた時の地鳴りのような大歓声は今でも鮮明に思い出せる」と語っていたほどで、当時の国民は国産車の活躍に熱狂したようです。

海外で活躍するドライバーのパイオニア

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BB910#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1967_Porsche_910.jpg

 

1966年、プリンス自動車が日産自動車と合併し、プリンスワークスが活動を停止すると、生沢氏は海外に活躍の場を求めます。

単身、イギリスに渡った生沢氏はスターリング・モスの仲介でイギリスF3選手権に参戦し、レースの本場で本格的な修行に入りました。

日本ではスター・ドライバーだった生沢氏もイギリスでは順風満帆とはいかず、外貨の持ち出しが制限されていた当時は、資金の持ち運びにも大変な苦労があったそうです。

しかしその後、1967年にはイギリスF3で3勝、翌68年には後にF1で有名になるフランク・ウイリアムズのチームから参戦して5勝を挙げました。

この時期には日本のビッグイベントにもスポット参戦し、67年の第四回日本グランプリではポルシェ906を駆って優勝。

第五回日本グランプリでは、ポルシェ910で2位に入ります。

日本のレースにはいずれもプライベートチームからのエントリーでしたが、資金と技術力に優れたトヨタや日産のワークスチームに一歩も引かない活躍を遂げたのです。

ポルシェでの活躍が縁となったのか、ついにはドイツ本国のワークス・ポルシェから声がかかり、908でワトキンスグレン6時間レースに出場し、チーム最上位の6位を獲得。

当時のワークスポルシェにはエースドライバーだったジョー・シファートをはじめ、ハンス・ヘルマン、ロルフ・シュトメレンといったF1でも活躍した一流ドライバーが揃っていましたが、生沢氏は彼らにも劣らない腕を持ったドライバーでした。

日本人ル・マン初参戦と後進の育成

出典:https://www.drive.ru/

1970年代からは、自らのチーム「テツ・イクザワ・レーシング・パートナーシップ」を率いてヨーロッパF2選手権にステップアップします。

この時代のヨーロッパF2は、後にF1でチャンピオンを獲得する猛者が次々と参戦していた時期ですが、生沢氏は数々のレースで活躍し「日本の生沢徹ここにあり」を強烈にアピールしました。

一方で1973年には元トヨタ・ワークスドライバーの鮒子田寛とのコンビでル・マン24時間レースに参戦します。

参戦したマシンはシグマMC73で、これが日本製マシン、日本人ドライバーのル・マン初参戦でした。

90年代以降、マツダやトヨタのレーシングカーがル・マンを制覇し、日本人ドライバーも1995年に関谷正徳氏、2018年、19年の中嶋一貴氏が優勝していますが、ル・マン参戦の先駆けとなった生沢氏の名前を忘れてはなりません。

70年代後半からは「i&iレーシングディベロップメント」を設立し、監督の立場で後進の育成に努めます。

中嶋悟氏はこの時期に生沢氏のチームで育った1人でした。

日本人として初めてF1のレギュラーシートを獲得した中嶋氏は、日本のモータースポーツ史に残る偉大なドライバーですが、彼を育てた1人が生沢氏であることは記憶にとどめておくべきです。

まとめ

現在では有望なドライバーがキャリア初期の段階でヨーロッパにレース留学し、経験を積むというのは当たり前になっています。

しかし、海外のモータースポーツ事情があまり知られていなかった1960年代に単身イギリスに渡り、意思の疎通や活動資金の確保が困難な中でチームと交渉し、その上でレースに参戦した生沢氏の苦労はどれほどのものだったのか、想像に難くないでしょう。

生沢氏以来、風戸裕氏、桑島正美氏などがヨーロッパに渡り、レーサーとして成功しました。

佐藤琢磨氏が2018年のインディ500で優勝したことは記憶に新しいところですが、海外で活躍した日本人レーサーのパイオニアが生沢徹氏です。

77歳を迎えた現在、現役を引退して久しい生沢氏は、イクザワ・マーケティング・インターナショナルの代表として東京とヨーロッパに拠点を置いて精力的に活動しています。

一方、サーキットで行われるイベントなどでは、往年のテクニックを披露することもあるようです。

Motorzではメールマガジンを配信しています。

編集部の裏話が聞けたり、最新の自動車パーツ情報が入手できるかも!?

配信を希望する方は、Motorz記事「メールマガジン「MotorzNews」はじめました。」をお読みください!