フィアット車をチューニングし、フェラーリやポルシェなどの格上を相手に数々の勝利をもぎ取ってきたチューニングメーカー、アバルト。フィアットに吸収されたことで、ブランドの存続自体が危ぶまれた時期もありましたが、同社のチューニングカー開発などを続け、2007年に完全復活を果たしました。今回は、そんなアバルトの歴史を振り返っていきましょう。

1950年代~1970年 アバルトの全盛期

204Aベルリネッタ

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カルロ・アバルト氏によって1949年に興されたアバルトは、1950年代初頭の資金不足を乗り越え、マフラーなどのパーツを販売していました。

その時の主力商品、フィアット500用のスポーツエキゾーストシステム、「マルミッタ・アバルト」が人気を博したことから、フィアット社とアバルトの関係が始まります。

その後、マルミッタ・アバルトのヒットで経営が安定したことで、カルロ氏はかつて手掛けたレーシングマシン204Aをベースに、205というロードカーの開発に着手しました。

OHV水冷直列4気筒エンジンを改良し、204Aベルリネッタと呼ばれたこの試作車は、マシンの耐久力が物を言うミッレ・ミリアに参戦し、見事1600kmを走破。

大排気量車に1,100ccという小排気量で勝利を収め、総合31位に入ったこのマシンは、1951年4月に行われた第33回トリノ・ショーに、アバルト初のロードカー「205Aベルリネッタ」という名前で、出展されました。

そしてイタリア各地のコンクールに出展された205Aベルリネッタは、数多くの賞を受け、自動車メーカー、アバルトの名を広く知らしめることになります。

以降もアバルトはフィアット社の市販車をベースとしてチューニングカーを開発。レースへと出場しては、フェラーリやポルシェ相手に活躍し、やがて「ジャイアントキラー」という異名で呼ばれるようになりました。

そうして、カルロ氏の誕生月の星座であるサソリのエンブレム(スコルピオーネ)と併せ、アバルトの名は高い知名度を誇るようになります。

1971年~2006年 アバルト、フィアットに買収される

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1960年以降、フィアットが複数企業の買収を進めたことで、以前から関係の深かったアバルトもフィアットに吸収されます。

そしてフィアットのレーシングカー開発を任されるようになったアバルトは、市販車ベースのラリーカーを数多く手掛けていきました。

その1台が、1985年に登場したランチア デルタS4です。

このランチア デルタS4は、グループBクラスカテゴリー車で、WRCの最終戦やモンテカルロラリーで優勝するなど、高い実力を持ったマシンで、駆動方式はミッドシップ4WD。

シャシーはスペースフレームで、水冷直列4気筒エンジンに、アバルト製スーパーチャージャーとドイツのKKK社製ターボチャージャーが備えられました。

この過給器2つを装備したことで、低回転域をスーパーチャージャー、高回転域をターボチャージャーに任せる高いレスポンスとパワーを引き出し、冷却用のインタークラーも大型のものが2基搭載されました。

この時期のアバルトはフィアットに吸収されたことでブランド名こそなくなっていたものの、それまでの高い技術力と職人魂は健在だったのです。

2007年 アバルト完全復活

フィアットが業績を回復したことで、「アバルトの復活」という、多くのファンが待ち望んだ瞬間が訪れました。

2007年、グランデ・プント・アバルト1.4ターボが販売され、同時にフィアットの名で参加していたIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)のワークス名もアバルトに変更。

2009年にはフィアット 500をアバルト仕様にした、アバルト 500をリリースし、以降も限定モデルなどを登場させています。

さらに、マツダのNDロードスターをベースに、エンジンやボディをアバルトが独自に仕上げたアバルト 124スパイダーを販売するなど、復活後もその高い技術力で、多くのユーザーを驚嘆させています。

まとめ

アバルトは誕生以来、数多くの高性能マシンを世に送り出してきました。

ブランドの名が消滅した時期はあったものの、その中でも維持し続けた技術力と職人魂が、アバルトブランドの復活に欠かせなかったことは間違いありません。

今後もアバルトは多くのファンを魅了し続けていくでしょう。