かつては国産車メーカーの多くが複数の販売チャネル(系列)を持つのが当たり前で、それぞれの販売店向けの車を発売していましたが、トヨタ以外は次々に販売チャネルの再編を行ってチャネル統合。あるいは全車種を全チャネルでの販売としていき、ついにトヨタも2020年には全ての車種を全ての「トヨタ」系販売チャネルでラインナップするようになりました。そもそも複数の販売チャネルが必要とされた理由は、いったいどこにあったのでしょうか。

トヨタにもかつてこんなディーラーが。横浜トヨタディーゼル。 /出典:https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section9/item1_a.html

ついにトヨタも全販売店で原則全車種取扱いの時代

トヨタモビリティ東京 調布八雲台店 出典:https://www.toyota-mobi-tokyo.co.jp/shop/26C

2020年5月は日本の自動車界でひとつの大きな動きがあった年でした。

世界の自動車メーカーでトップシェアを争い、もちろん日本国内でも圧倒的な販売シェアを誇るトヨタが、ついに4チャネル販売体制それぞれに専売車種を持たせる体制をやめ、GRブランドの一部車種などの例外を除き、原則として全販売店で全車種を購入できるようになりました。

今まで「トヨタ店」ならクラウンやアリオン、「トヨペット店」ならアルファードやプレミオ、「トヨタカローラ店」ならカローラやノア、「ネッツ店」ならヴェルファイアやヴォクシーといった風に、1車種1系列、あるいは1車種2系列でしか販売されていない車種があるという仕組みが取り払われたのです。

その結果、カローラ店では今まで扱えなかったクラウンやアルファードといった高級車が扱えるようになり、トヨタ店やトヨペットでも同様にヤリスやパッソといったコンパクトカーを売れるようになりました。

また、それに伴ってプロボックスに対する「サクシード」、タウンエースに対する「ライトエース」、ハイエースに対する「レジアスエース」、タンクに対する「ルーミー」など、車名と一部デザイン、取り扱い系列が異なるだけで、実質同じ車を販売していた姉妹車は次々に廃止され、今後も車種整理が続くとされています。

既にライバル他社は基本的に1メーカー1販売系列、「日産プリンス東京販売株式会社」など、過去の名残で販売会社の名前に昔の系列名が残っていても、基本的にそのメーカーの車ならどのお店でも買える体制になっていますが、残るトヨタもついに時代の波に押され、1つになる道を選んだのです。

右肩上がりの拡販に不可欠だった複数販売チャンネル制・始まりも終わりもトヨタから

トヨタの第4チャンネル、トヨタオート店(現・ネッツ店) /出典:https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/entering_the_automotive_business/chapter1/section5/item2.html

一時は国産車メーカーのほとんどが取り入れていたディーラーの複数チャンネル制ですが、始まりもトヨタからでした。

太平洋戦争後の一時期、連合軍の占領下にあった日本では乗用車の生産・販売・所有が厳しく規制されていた時代が続いており、トヨタも戦後に各都道府県に設立した「トヨタ店」だけあればコト足りたていました。

しかし、1949年に乗用車の生産制限が解禁され、販売の割当配給制も廃止されたことに加え、1950年代に入ると朝鮮戦争の特需などもあり、乗用車市場も急拡大します。

一方で、当時の国内乗用車販売の約3割を占める大市場 東京では、トヨタ店の販売基盤が弱く、日産やプリンスなどの競合他社に対抗する販売力を立ち上げる必要がありました。

そこで、トヨタ自販(当時のトヨタは開発・生産担当の「トヨタ自工」と、販売担当の「トヨタ自販」に分かれていた)の直営で1953年3月に東京での乗用車ディーラー「東京トヨペット」が設立されたのが、複数チャネル制の始まりです。

さらに1954年にはトヨペットSKB型小型トラック(トヨエースへ改名後、2020年にダイナへ統合)、1955年には初代クラウンが発売されていずれもヒットすると、全国各地のトヨタ店での販売力不足が顕著になり、1956年3月に名古屋で「名古屋トヨペット」(当初の社名は「名豊自動車」)が設立されたのを皮切りに、全国各地にトヨペット店が設立されました。

当初のトヨペット店取り扱い車種は、SKBと「マスターライン」のピックアップおよびライトバンと、いずれも商用車のみでしたが、1957年には初代「コロナ」が発売され、1968年には初代マークII(当時は「コロナマークII」)が発売されるなど、トヨタ店に次ぐ乗用車ディーラーとしても成長していきます。

もちろん既存のトヨタ店にとっては「これまで売っていた車をヨソに譲る」事への猛反発がありましたが、そもそも売り切れないという大問題を解決しなければ、トヨタ自体がやっていけない状況で、否応はありません。

その後も1957年にディーゼルエンジンのトラック販売店「トヨタディーゼル店」(大型トラックを重視しなくなったため、全て後述するパブリカ店/カローラ店へ転換)、1961年の初代パブリカの発売に合わせて「パブリカ店」(1969年に「カローラ店」へ改称)、1967年には初代カローラの爆発的ヒットで不足した販売力を上乗せする「トヨタオート店」(現在の「ネッツ店」)が次々に誕生しました。

「販売網の活力を維持する」のを目的とした新チャンネルも誕生

国内市場へ新たな活力の注入を期待されて成功した、トヨタビスタ店 /出典:https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter2/section1/item4.html

1970年代前半までは右肩上がりで急成長してきた日本の乗用車販売ですが、第1次オイルショック(1973年)によるガソリン価格の高騰や、マスキー法など厳しい排ガス規制による性能の低下で自動車の魅力が削がれ、国内販売は低迷。

頼みの対米輸出も貿易摩擦で頭打ちとあっては、国内販売のテコ入れを図るほかありません。

そこでトヨタでは、トヨタオート店までの「増え続ける需要に対応した販売力増強」のためではなく、日曜にも営業する新たな販売スタイル(買い物するユーザーに合わせ休日に営業するのは今なら常識だが、当時は違った)や、実験的車種の先行投入といった斬新な手法で国内販売へ刺激を与える目的で、1980年4月に「トヨタビスタ店」を設立します。

その当時、初代ビスタ(1982年)はまだ発売前で、初代クレスタと初代ブリザードを2トップとしてラインナップしたトヨタビスタ店のこけら落としは、保守的イメージのトヨタらしからぬ光景でしたが、結果的にクレスタが大ヒット!

クレスタは初代ソアラ(トヨタ店/トヨペット店の併売)とともに「ハイソカーブーム」の牽引役となり、バブル時代を経てトヨタが不動の国産車トップメーカーへ成長する火付け役として、トヨタビスタ店の設立は見事に成功したのです。

1980年代までの他メーカー動向

複数チャネル制の絶頂期を象徴する「ユーノス」ロードスター / 出典:https://www2.mazda.com/ja/100th/cars/detail_013_eunosrs.html

一方、1980年代前半までの他メーカーは、かつての「BC戦争」(ブルーバードとコロナ)など、トヨタと壮絶な販売合戦を繰り広げた日産を除けば販売規模ははるかに小さく、1980年代までは以下のような動きでした。

【日産】
日産店(ブルーバード販売会社)
日産モーター店(ローレル販売会社)
日産コニー店(コニー販売会社)→日産チェリー店(チェリー販売会社→パルサー販売会社)
日産プリンス店(スカイライン販売会社)
日産サニー店(サニー販売会社)
モーター店はジュニアなど小型トラックの販売開始で、サニー店は初代サニーの販売会社として設立された点はトヨタと似ていますが、コニー店は「コニー」ブランドの軽自動車を生産・販売していた愛知機械工業を傘下に入れた事で、プリンス店はプリンスを合併した事で、それぞれ日産の販売網に加わった販売チャネルでした。


【いすゞ】
いすゞ店
いすゞモーター店
小型トラックや小型商用車/乗用車をメインとしたのがモーター店。


【三菱】
ギャラン店
カープラザ店
1978年に初代ミラージュを発売した時にカープラザ店を設立し、2チャネル体制になっています。


【マツダ】
マツダ店
マツダオート店(1991年にアンフィニ店へ改称)
マツダモータース店(マツダの看板を挙げた整備工場など小規模事業者)
オートラマ店(フォード車販売店)
ユーノス店
オートザム店
6チャネル体制に見えますが、モータース店は正規ディーラー扱いではないため、実際は5チャネル体制。


【ホンダ】
ベルノ店
クリオ店
プリモ店
シビックやアコードの販売も軌道に乗った1978年、初代プレリュード発売とともにベルノ店を立ち上げ、さらに車種が増えた1984年から1985年にかけてクリオ店とベルノ店を設立するまでは、小規模販売店のほかにホンダ直系の販売店「SR(ショールーム)」と整備拠点「SF(サービスファクトリー)」がホンダの販売網でした。


【スズキ】
スズキ店
カルタス店
1983年、本格販売されるものとしては初の小型車カルタスのためにカルタス店を設立し、2チャネル体制へ。


【スバル】
車種が少ない事もあり、直営か独立系かという違い以外、特に販売チャネルは分かれていません。


【ダイハツ】
地域販売網を持つ正規ディーラー(ダイハツ店)、中小規模事業者による1店舗からの認定販売店(ダイハツショップ)という違いだけで、スバル同様に販売チャネルとしては分かれていません。

バブル崩壊!1990年代から2000年代にかけトヨタを含め販売網を統合

ホンダもかつての3チャンネル体制からホンダカーズへ集約 Photo by Chris Lin

このように、スバルとダイハツを除く各社は、日産プリンス店や日産コニー店のように「合併したら販売店がついてきた」というケースを除き、「車種ラインナップ拡大による販売力向上のため」という、トヨタと同じような理由で販売チャネルを増やし、メイン車種に合わせた雰囲気の車種ラインナップや店づくりに努めてきました。

しかし、バブル崩壊で車が売れなくなると、各社の各販売チャネルとも「販売激減→他チャネルの車種も売りたい→それまで作ってきた各チャネルの雰囲気に合わせた姉妹車を開発、投入→不人気→メーカー、販売会社ともに経営不振」という、負のスパイラルへ陥ります。

結果、販売チャネルを複数持つメーカーは2000年代にかけ、全店舗全車種取り扱いと、それによる無駄な姉妹車や不要車種の整理へ踏み切り、以下のように変化していきました。

【日産】
・日産店/日産モーター店→1999年に「ブルーステージ」へ統合
・サティオ店(旧サニー店)/プリンス店/チェリー店→1999年に「レッドステージ」へ統合
・いちはやく全車種取り扱い→「レッド&ブルーステージ」誕生

・2007年にチャネル制廃止、全車種を取り扱う「日産販売店」に統一。


【いすゞ】
・いすゞ店/モーター店→乗用車取り扱い廃止により統合
・いすゞスクエア店→RV販売店として誕生するも、RVからも撤退で2002年廃止、一部はGMオートワールド店へ移行。


【三菱】
・ギャラン店/カープラザ店→2003年に統合、全車種取り扱い。


【マツダ】
・マツダ店/マツダモータース店→存続して全車種取り扱い。
・アンフィニ店/ユーノス店→1996年にマツダアンフィニ店へ統合して全車種取り扱い。
・オートザム店→マツダオートザム店として一部存続し全車種取り扱い。
・オートラマ店→1994年にフォード店となり名実ともにフォードディーラーへ転換。


【ホンダ】
・ベルノ店/クリオ店/プリモ店→2006年に「ホンダカーズ店」へ統合し全車種取り扱い。


【スズキ】
・スズキ店→存続して全車種取り扱い
・カルタス店→2000年にスズキアリーナ店へ改称し、その後全車種取り扱い。


【トヨタ】
・トヨタ店/トヨペット店トヨタカローラ店→従来通り存続。
・ネッツトヨタ店(1998年にトヨタオート店から改称)/トヨタビスタ店→2004年に統合しネッツ店へ。

「作れば売れる時代」の終焉と、「売れる車へ集約する時代」の始まり

作れば売れるかもと、いろいろな車種であふれた時代は終わった(マツダ エチュード) / Photo by Riley

かつて、各メーカーとも高度経済成長期からバブル崩壊までの販売機会さえ増やせば、作るほど売れて儲かる時代に合わせて販売網を拡大し、次々に新車を買っては乗り換えを繰り返すユーザーに車を供給してきました。

そして1990年代半ばくらいまでは「車なんて10年10万kmも走ればもうポンコツ、価値はない」とされていましたが、猛烈な不景気に加えて1995年には「新車登録から10年以上経つと毎年車検」から「いつまで乗っても2年ごと車検」へと制度も変わり、10年で車を買い換える理由もなくなります。

そうなると慎重なユーザーに認められてヒット作になる車はごくわずかで、そういう「売れる車へ全てを集約」し、ディーラーを全車種取り扱いへ転換することで、余計な姉妹車や売れ行きの見込めない車は廃止するか国内市場から引き上げ、看板や社名はともかく実質1メーカー1チャネル体制に集約させたのが、現在の国内自動車市場です。

その過程で各ディーラーは「自社販売店との競争」に勝ち残らねばならなくなり、特にバブル崩壊後にはマツダの販社がバタバタつぶれたり、そうでなくとも地域の有力企業からメーカー直営へと変わったディーラーも多かったことを見れば、トヨタディーラーも今後はどうなるのか、興味深いところです。

25年ほど前には、「筆者のコロナExivと先輩のカリーナED、どっちがカッコイイか」なんて姉妹車ネタで盛り上がっていたものですが、そんなすっかり過去になった時代の話が懐かしく感じます。