バブル景気が一足遅く訪れ、ズルズルと数年遅れで引きずられた地方都市のバブル時代カーライフをご紹介。1974年生まれ、第2次ベビーブームど真ん中の筆者が、猛烈に混雑して予約を取るのも大変だった、当時の教習所(自動車学校)を回想します。

最近の免許更新で教本を見ると、免許取ったばかりの頃とだいぶ違うな~と思うこともあって新鮮です / Photo by cozymax

高校卒業を前に訪れた教習所、予約を取るのもコネ次第?!

まさか自分が運転免許を取ることになろうとは…と思ってから、はや28年 / Photo by ekkun

1974年(昭和49年)4月生まれの筆者が18歳になり、晴れて普通自動車運転免許を取得できるようになったのは、1992年(平成4年)4月のことでした。

ただし通っていた高校は「家業の手伝いなど特段の事情がなければ、免許を取っても学校で保管。」という校則で、おまけに当時の筆者は車に乗ればひどくクルマ酔いをする体質だったので、「俺は自転車乗りで一生を終えるんだから、免許などいらんのだ!」と言っていた、偏屈な子供だったことを覚えています。

しかし時は(後から考えれば)バブル崩壊の翌年で、田舎の地方都市(宮城県仙台市)には高校生ですら実感するような不景気はまだ来ておらず、「そのうち何とかなるだろう!」という時代。しかも、中学からエスカレーター式で大学に上がれる私立校に通っていたため受験もせずに遊び回っていると、見かねた親から「金なら出すから免許くらい取りなさい」と言われます。

正直メンドクサイと思いつつ、「母親の親戚のコネで教習の予約は優先してもらえ、1日何回でも教習してもいいから、すぐに免許が取れる」と言われ、大学に入る前には免許が取れるだろうと気楽に構え、1993年(平成5年)の1月に、近所の教習所(自動車学校)へ入学することになりました。

そんな気楽さとは裏腹に、当時ど真ん中だった第2次ベビーブーマー世代が一斉に教習所へ押しかけていた上に、1991年11月に始まったオートマ限定免許の影響で、今まで免許を持っていなかった主婦層も殺到していたため、教習所は激混み。さらには都合のいい時間に予約を取るのも大変な上に、「1日1~2回のみ」という教習の回数制限もあったのです。

昔は第4段階まであった~所内教習までは順調~

これはトヨタ コンフォートの教習車ですが、筆者の頃は6代目X80系マークIIセダンでした / Photo by photoAC

今の教習所は所内教習と路上教習の2段階だそうですが、1993年当時は第4段階まであり、第1段階が最初だけAT車で残りはMT車の運転操作、第2段階で車庫入れや縦列を含む応用操作が所内コースでおこなわれ、筆記試験に通れば仮免です。

学科の方は第2段階まででほとんど終わるのですが、何しろ教習生が多かったので教室は常時満員。教室はいつもガヤガヤしており、教習所側も生徒集めに苦労しなかったため、「こら今喋ったそこのお前!覚えておくからな!ハンコやらないぞ!」と、教員からの怒号も飛び交うような状況です。

とはいえ大勢の若者で活気にあふれていたのも事実で、座学のスペアタイヤ交換で女子と仲良くなったり、受付の若いお姉さんと仲良くなったり、昼休みには教習用の二輪車をナナハンからスクーターまで総動員した教員レース?を観戦したりと、とにかく退屈しませんでした。

所内教習の方も、初日こそ他の教習車を追い越した途端に「誰が追い越ししていいと言った!」と怒られましたが、初めて乗ったMT車(教習車は大抵、6代目X80系マークII)をエンストさせずに動かすと、「ホウ、今まで何時間くらい運転してた?」と感心されるなど、割と順調です。

教員によると、「一人で牡鹿コバルトライン(宮城県北部の観光道路)を完走したから免許を取りに来た。」という人もいたそうで、筆者が運転未経験であることを伝えると「教習所に来るまで運転した事がないの?!」と驚かれる、なんともノンキな時代でした。

今でも思い出す「急ブレーキ教習」と、謎の「スピン教習」

これはレース車のスピンですが、筆者の初スピンは教習所でした… / Photo by jason goulding

所内教習で忘れられないのは「急ブレーキ教習」ですが、今でもやっているのでしょうか?

それは、所内コースの外周を2速で回り、校舎前の直線に差し掛かったらアクセル全開で3速へシフトアップ。直後に思い切りブレーキを踏め!というものでした。

教習生の多くはそもそもスピードを出せない、急ブレーキも踏めない人が多かったものの、筆者の場合はアクセルもブレーキもなかなかの踏みっぷりだったようです。

車が止まった後にもう1周しろと言われ、アレなんで自分だけ?と思いつつも再びホームストレートで全開加速。すると、「今度はブレーキを踏まずにカーブを曲がれ」と言い出す始末。

「こんなスピードでは曲がれない気がするけど、まあいいか」と思いつつノーブレーキで全開、狭い所内コースのカーブがアッと言う間に迫り、ハンドルを切った瞬間に、助手席の教員が脇からハンドルを握って切り足し、補助ブレーキ全開です!

3回転ほどスピンした教習車はどうにかどこにもぶつからずに止まり、促されるまま降りると他の教員も駆け寄ってきて、「見事に回ったねぇ!」「(ガードレールまで)10cmじゃん!」と、好き勝手を言っている状況。

怖いもの知らずの教習生を脅かそうと思ったのか、あるいは勢いのいい教習生がいたらとりあえずやってみるという教員の趣味なのか、とにかく他でやったという話を全く聞かない、謎の「スピン教習」でした。

第3・第4段階~運転が好きになってしまったがゆえの?反抗期~

夜の教習所を見ると、卒業できなくて悶々としていた頃を思い出す / Photo by Naoya Fujii

仮免を取った頃には、「キミは運転操作がうまいけど、反射的に無意識な操作をしてる時もあるから気をつけてね。」という評価をいただき、いよいよ第3段階の路上教習です。

その頃には前述の急ブレーキ&スピン教習で味わったスリルも合わせて運転が楽しくなっており、何より「乗せられている」時にはひどかった車酔いが、ケロリとなくなっていました。

車も運転も好きになり、ちょっと自分の腕前にも自信を持ってくると、今度は横から教員にアレコレ言われるのが嫌になる「反抗期」が始まります。

それも第3段階では問題なかったものの、第4段階だと意図的に注意力をそらそうとしているのか、盛んに教員が雑談をしてきます。

調子に乗って雑談が盛り上がったところで、「ハイ歩行者に気づかない」と助手席から補助ブレーキを踏まれる事が増え、だんだん不機嫌に。教員が「さ~今日もキミの運転で酔っちゃおうかな~」と軽口を叩きながら乗り込んできた時に、ついに頭の中で「プチッ!(怒)」と音を立てて堪忍袋の緒が切れました。

ギアを1速に叩き込み、アクセルを煽ってホイルスピンしながら急発進!教習車でそんな運転をする教習生が「見極め(段階修了)」をもらえるわけもなく、それでも悔しいから教習を受け続けます。

気づけば親に出してもらった教習代は底をつき、虎の子の貯金に手を出し自腹で教習を受け出したあたりでようやく頭が冷え、卒検に通った時には5月になっていました。

そう、「コネと親の金を駆使して進学前に免許を取ろう」どころか、とっくに大学は始まり、春も終わろうという頃までかけて、最後は自分の貯金を使い果たす直前でようやく免許が取れたのです。

念願の自動車通学を果たし、カーライフの一歩を踏み出し28年

初心者マークを貼ってカーライフを始め、はや28年… / Photo by photoAC

通っていた大学のキャンパスは郊外の山にある住宅地のさらに上で、自宅からは公共交通機関を乗り継ぐと片道1時間以上です。往復の交通費もバカにならない田舎だったこともあり、同級生で早々と免許を取った人は、もうとっくに自動車通学していました。

おかげで同級生には「なんだよまだ免許取れないのか?俺の車見せてやろうか?」などとさんざんコケにされましたが、遠慮なく教習生に厳しく接する時代の教習所で大苦戦したおかげか、車の運転で一番大切な「運転中の平常心」を養えたと思います。

その後の教習所は、生徒集めに苦労したり、やめられたりクレームがついても困るので、厳しい指導はしにくくなったと聞きますが、「正しい操作さえできればいい」程度だった運転への甘い考えを厳しい教習で吹き飛ばし、卒業まで苦労させてもらえたのは、今思えばいい経験でした。