ル・マン24時間耐久レース。その100年近い歴史の中には、スポーツの域を超え”戦争”とまで呼ばれた時代がありました。いくつかの視点から紐解く、フォードVSフェラーリのメーカー対決。今回はフォードを優勝させる為に雇われた男、キャロル・シェルビーに迫ります。

掲載日:2019/07/17

出典:https://www.aftermarketnews.com/carroll-shelby-trust-to-finish-last-of-the-427-shelby-cobra-competition-chassis-race-cars/

自前のマシンでレースへ。キャロル・シェルビーの原点

出典:https://www.rodauthority.com/features/editorials-opinions/is-carroll-shelby-responsible-for-chevys-late-1960s-racing-success/

キャロル・シェルビーは1923年、テキサス州リーズバーグの郵便屋を営む家庭に生まれます。

14歳で免許を取り、ハイスクール時代にはJeepの前身 ウィリス社のクルマを乗り回し、ドライビングに熱中。

当時、若気の至りで公道を140km/hで走り、警察に捕まったエピソードからは、シェルビーのアウトローな一面が垣間見えます。

その後1943年にはアメリカ空軍に入隊し、パイロット養成所の教官やテストパイロットの任に就くなど、一時はエリートへの道を躍進。

終戦以降は軍隊を離れ、養鶏を営んだシェルビーですが、ワトキンス・グレンで開催されたロードレースに出場したことをきっかけに、モータースポーツに魅せられていきます。

当時、アメリカ製の本格スポーツカーは未だに存在せず、レースの主役はヨーロッパから輸入されたマシンでした。

一方、アメリカの誇る大排気量エンジンには、それらにはない圧倒的なパワーがあったのです。

そこでシェルビーは「ヨーロッパ製の車体にアメリカンV8を積んだら速いハズだ」と考えました。

そして彼は、ブガッティのレプリカなどを製造していた英国 Allard社製の車体に、アメリカ製 V8エンジンを載せてレースに出場。

この経験は、後の「シェルビー・コブラ」誕生への布石となりました。

自作のマシンで数多くの勝利を手にし、凄腕レーサーとして名を挙げた彼には、ヨーロッパのトップチームからのオファーも届くようになります。

そして1958年にはF1へのスポット参戦も果たしており、一流ドライバーへの道を突き進んでいったのです。

ドライバーとしてルマン制覇!しかしその年に引退?

出典:https://www.washingtonpost.com/sports/carroll-shelby-driver-and-designer-of-high-speed-sports-cars-dies-at-89/2012/05/12/gIQAvPoBLU_story.html?utm_term=.df546a0ffb86

キャロル・シェルビーにとって最大の転機は、1959年に訪れます。

アストンマーチンのワークスドライバーとして、ル・マン24時間に初出場した彼は、強敵フェラーリを打ち破り、総合優勝を勝ち取ります。

しかしル・マン優勝の年、早くも彼はレーシングドライバーとしてのキャリアに終止符を打つ決意をしていました。

キャリアはまさに絶頂でしたが、持病の心臓疾患により、レーサーを続ける事が難しくなっていたのです。

そのため、ル・マンへもギリギリまで参加をためらっていましたが、ニトログリセリンを飲みながら、なんとか乗り切る事に。

こうしてマシンを降りた彼ですが、レース以外の生き方など眼中にはありません。

現役を引退すると、すぐにシェルビーは世界中から集まった数名のメカニックとともに、「シェルビー・アメリカン」を設立。

そこには、「世界一速いスポーツカーを作る」というシェルビーの思いに応え、凄腕のメカニックが続々と集まりました。

軽い車体にフォードV8!シェルビー・コブラ誕生

出典:https://www.npr.org/sections/thetwo-way/2012/05/11/152519990/carroll-shelby-race-driver-and-designer-of-the-shelby-cobra-dies

シェルビー・アメリカンを設立して間もなく、シェルビーはイギリスのACカーズがエンジン供給元を失い、危機的状況であることを聞きつけました。

ACカーズは軽量・高性能なシャシーを売りにしており、当時のル・マンでも活躍を見せていたメーカーです。

そこでシェルビーは、搭載するエンジンを手配することを条件に、ACカーズとシャシー提供の契約を結ぶことに成功。

彼が思い描いたエンジンはもちろん、アメリカンV8でした。

シェルビーは、生産能力の高さからフォードが理想的だと考え、早速交渉を試みます。

フォードは当時アメリカ車で最速だったシボレー・コルベットに勝てるクルマを持っておらず、レースには負け続けていました。

そこでシェルビーらは、フォードの副社長リー・アイアコッカに「エンジンさえ用意してくれれば、マスタングを超えるクルマを作れる」と直談判。

この時、交渉のために与えられた時間は、わずか10分程度だったと言われています。

するとシェルビーの情熱に負け、アイアコッカはこう言い放ったそうです。

「その男を追い出せ。金とエンジンを渡してな。お手並み拝見だ」

フォードからエンジンを受け取ったシェルビーらは、ACカーズ製の強化版シャシーにこれを搭載。

そのマシンは「コブラ」と名付けられ、テスト段階から高いパフォーマンスを発揮します。

これを受けてフォードとの本契約も成立し、コブラの量産が決定。

そしてコブラVSコルベットの初対決となった、カリフォルニア州・リバーサイドで行われたレースにて、大差で勝利を収め、全米中にシェルビー・コブラの速さを見せつけたのです。

この勝利により、フォードから一目置かれるようになったシェルビー・アメリカンは、”フォード”ブランドの一翼を担う存在として、その存在感を増していきました。

デイトナ・コブラで製造者としてルマンを制覇

出典:https://www.carmagazine.co.uk/features/car-culture/were-getting-the-band-back-together-all-six-shelby-daytona-coupes-reunited-for-2015-goodwood-revival/

速いクルマが出来たなら、次に狙うはル・マン24時間です。

1963年、シェルビーはコンストラクターとしてのル・マン参戦へ足を踏み出します。

まずはプライベートチームからテスト参戦を行ったところ、空気抵抗の大きいコブラのボディ形状が仇となり、最高速が伸びないという問題に直面。

そこでシェルビーは翌年に向けて、クローズドボディの新型マシンの開発を決意します。

そして、初のデザインスケッチから90日後にはシェイクダウンが行われたと言われる「デイトナ・コブラ」は、テスト時点で従来のどのマシンより3.5秒も速く、ポテンシャルは恐るべきものでした。

そして迎えた1964年のル・マン24時間、シェルビーのマシンはGTクラスのフェラーリに大差をつけて、見事クラス優勝を果たすのです。

さらに、総合でも4位と大健闘し、シェルビーには「フェラーリに勝った男」として熱い視線が注がれるようになりました。

一方、この年から打倒フェラーリを掲げ、ル・マンに参戦したフォード勢は、スタートから11時間までの間にあえなく全滅。
小さなファクトリーチームに過ぎないシェルビー・アメリカンの成功が、余計に際立つ結果となったのです。

フォードに総合優勝を!シェルビーの新たなる戦い

出典:https://www.hemmings.com/blog/2014/03/07/first-ford-gt40-delivered-to-shelby-american-to-cross-the-block-in-houston/

1965年のル・マンに向けて、フォード率いるヘンリー・フォード2世は、背水の陣を迫られていました。

巨費を投じ、ヨーロッパに新会社まで立ち上げたにも関わらず、前年のル・マンでは散々な結果に終わっていたのです。

そこで彼は、はるかに小さな規模でクラス優勝を成し遂げたキャロル・シェルビーに、社運をかけたフォード・GT40を託す決断をします。

そしてカリフォルニア・ベニスビーチにあるガレージに運ばれたフォードGT40は、優秀なクルーたちの手によりブレーキ、サスペンション、そしてエンジンまでもが作り替えられました。

完成したGT40 MKⅡは、走るたびに速さを増し、シェルビーらメンバーは大きな手応えを感じます。

そして迎えた1965年シーズン。
シェルビー・アメリカンが改良したGT40はデイトナ、セブリングで2連勝を達成し、そのノウハウと技術力を証明してみせました。

しかし万全で迎えたル・マンの舞台で、彼らを再び悪夢が襲います。

なんとフォード勢はこの年のル・マンでも、トラブルにより全車リタイアを喫してしまうのです。

その結果、優勝を使命として抜擢されたシェルビーには、より大きなプレッシャーがかかることに。

ヘンリー・フォードからも、翌年のル・マンで勝てなければ、フォードを解雇することを示唆されてしまうのです。

勝てなければクビ!1966年、運命のルマン24時間

出典:https://www.digitaltrends.com/cars/gt40-that-won-le-mans-in-1966-restored/

1966年シーズン、フォードは新たにアラン・マン・レーシングとホルマン&ムーディーにもシェルビー・アメリカンと同じワークスチーム運営の役割を与え、総勢8台という盤石の体制で臨むことになります。

シェルビーとしてはライバルの増加は歓迎できないものでしたが、前年のリタイアの原因と言われた7.0リッター “427”エンジンも熟成が進み、今度こそ盤石の体制を整えました。

そして迎えた決戦では、前哨戦となるデイトナ24時間、セブリング12時間を完全勝利で飾っていたフォードにもはや死角はなく、圧倒的速さを見せつけます。

シェルビー・アメリカンは3台のフォードGT40MKⅡを持ち込みましが、1台がヘッドガスケットのトラブルでリタイア。

しかしケン・マイルズ/デニー・ハルム組1号車は、3周以上のマージンを築き、トップを独走。

ブルース・マクラーレン/クリス・エーモン組2号車がこれに続きます。

一方でフェラーリ勢はそのペースについていくことが出来ず、トラブルやアクシデントにより全滅。

最後はフォードの意向により「僅差のゴールを」というチームオーダーが入り、その混乱でマイルズが2位に後退。

結果マクラーレン組が首位という結果になりますが、見事シェルビーチームの2台が1、2フィニッシュを達成。

3位にもホルマン&ムーディーのGT40が入賞し、フォードは表彰台を独占しました。

こうしてキャロルシェルビー、そしてフォード長年の悲願は、完璧な形で果たされたのです。

まとめ

出典:https://www.autoblog.com/2012/05/11/carroll-shelby-1923-2012/

キャロル・シェルビーのキャリア、いかがでしたか?

レーサー、メカニック、経営者、すべてにおいて一流。

彼はモータースポーツの歴史上、まさに唯一無二の存在だったと言えるでしょう。

遅咲きなキャリア、そして持病を抱えながらも、レースで勝つことへの情熱が、彼に力を与え続けていたのかもしれません。