空気を切り裂く様に、鋭利なそのフォルム。1998年のル・マン24時間耐久レースに登場した「TOYOTA GT-One TS020」が与えたインパクトは、ライバルたちの誇るモンスター・マシンを一気に大人しく見せてしまう程でした。このマシンを作ったアンドレ・デ・コルタンツが起こしたスポーツカー・デザインのイノベーションは、言わば21世紀のスタンダードになったとも言えます。今回はそんなコルタンツのキャリアとともに、TS020が生まれるまでの軌跡に迫りました。
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異形のバイク「モト・エルフ」
アンドレ・デ・コルタンツは1970年代、ルノー初のF1マシンであるRS01のシャシー設計を担当。一流エンジニアとしての第一歩を踏み出しました。
しかし、そんな彼がクリエイティブな人物として広く知られるようになったのは、とあるバイクの開発に関わった事がキッカケだったのです。
オイルメーカー「elf」によるGPバイク開発プロジェクト「モト・エルフ」で、コルタンツはその処女作である「ELF X」の開発を手がける事に。
何とも独特な佇まいを持つこのマシン、実はエンジンそのものがフレームの役割を持ってるのです。
そこから前後に伸びた片持ち式のスイングアームがタイヤを支持する構造で、これはF1で主流となりつつあった「エンジンをストレスメンバー化する」アイディアを2輪に落とし込んだもの。
一見イロモノですが、軽量化と高剛性化を同時に実現するという狙いがありました。
結局、このアイディアは信頼性などの問題から実践投入には至りませんでしたが、目指した理想そのものは理に適っていたと言えるでしょう。
それにしても、この違和感と機能美が同居したようなルックスは、コルタンツの作品ならではの味わいです。
プジョー205T16
その後1980年代に入ると、WRC参戦に向けて新たに発足した「プジョー・タルボ・スポール」に加入したコルタンツは、類い稀なリーダーであるジャン・トッド指揮のもと、テクニカル・ディレクターとしてグループBラリーカー「205 T16」の開発に携わります。
コンパクトなハッチバックボディにミッドシップ4WDの組み合わせは、当時最強を誇ったアウディ・クワトロを一気に過去のものとし、1985年と1986年にマニュファクチャラーズ&ドライバーズのWタイトルを獲得しました。
ここでコルタンツはF1で得た空力ノウハウ元に、ラリーカーには珍しかったフロントカナードやリアスポイラーなどのデバイスを続々と導入。
持ち前のアイディアを遺憾なく発揮していきます。
そしてその後1987年にグループBが消滅した後も、パリ・ダカール・ラリー連覇を果たすなど、205T16は活躍と進化を続けていきました。
ル・マン制覇に向けて
ラリーで大成功を収めたプジョーは、より知名度が高くチャレンジングな活躍の場を求めます。
そこで行き着いたのが、ル・マン24時間耐久をシリーズの1戦に抱える、世界耐久選手権でした。
コルタンツらが新たに開発したプロトタイプ・マシンは「905」と名付けられ、剛性を重視したカーボンモノコックはドアを持たず、ウインドウから乗り降りする構造を取るなど、例の如く挑戦的なマシンに仕上がっています。
しかし、プジョーが選手権にデビューした1991年に、最もマシン開発が進んでいたチームが他に存在したのです。
それは強豪「TWRジャガー」であり、新型マシン「XJR-14」が開幕から異次元の速さを発揮。そのままチャンピオンをさらう結果に。
既にF1で名を馳せていたロス・ブラウンが設計したこのマシンのコンセプトはズバリ「カウルを被ったF1」で、テストでも某F1チームのコンマ5秒落ちというタイムを叩き出す速さを持っていました。
そんなジャガーとプジョーの決定的な差は、空力性能の差だったと言えます。
初期の905は空気抵抗を少なくすることに特化した結果、表面がほとんどツルツルに見えるほどダクト類がありません。
その為、フロント開口部から侵入した空気の逃げ場がなく、ラジエターの冷却効率もダウンフォースも芳しくない状態でした。
そこでコルタンツらは空力の改善に取りかかり、その結果シーズン中盤には全く違う形をしたマシンへと変貌。
大まかにはフロント形状の大幅な変更とラジエター用ダクトの移設など、異例の大変更を行いました。
その結果、タイトルこそ奪われはしたものの、プジョーは後半戦を迎える頃にはジャガーを凌駕する戦闘力を示し始める進化を遂げたのです。
「スーパー・コプター」
1992年シーズン、一転して選手権はプジョーの独壇場となります。
理由はジャガーなどライバルの相次ぐ撤退もありましたが、巨費を投じて挑んできたトヨタ勢に完勝したことは評価されるべきでしょう。
ル・マンでも1.2フィニッシュを決め、トヨタに付け入る隙を全く与えませんでした。
そんな優位な状況の中でも、チームはさらなる進化を視野に905の開発を続けます。
その結果登場したのが「905 Evolution 2」と呼ばれる、この異形のマシン。
余りの前衛的なフォルムに「スーパーコプター(SF作品に出てくる超音速ヘリコプター)」という渾名が付けられていました。
そこにはモト・エルフ以来の強烈なコルタンツらしさが現れていると言えるのではないでしょうか。
905の様なスポーツプロトタイプの場合、F1マシンとは違いカウルがある為、フロントセクションのデザインは制限されてしまいます。
そこで、彼はフロントの造形そのものを大胆に変え、ウィングとして機能する様にしようと考えたのです。
その手法はF1マシンを参考にしたもので、ノーズ部分を持ち上げて車体下部にエアを導入すると同時に、フェンダーとノーズの間のトンネル状スペースに気流を取り入れ、ここで流速を上げてダウンフォースを稼ぐというものでした。
しかし、リアセクションの造形はそれ以前の905と大きく変わっておらず、前後バランスが充分では無かった様です。
一方で、アイディアそのものは一定の成果を挙げており、リアタイヤを過剰に磨耗させるほど、フロント側のグリップ確保には成功していました。
結局、既存のマシンほど速くなかった為に予選投入だけで終わってしまいましたが、このマシンのフロントセクションが現在のLMPマシンとよく似た形状をしている事実は見逃せないでしょう。
このEvo2の様に、コルタンツにはアイディア先行で「結果を恐れずカタチにする」力があったと言えるかもしれません。
オベ・アンダーソンからの誘い
1992年のル・マンで1.2フィニッシュを飾り、シリーズも制覇したプジョー・タルボ・スポール。
しかし翌1993年シーズンは選手権にエントリーするメーカーが彼ら以外になく、またしてもトヨタとの一騎打ちとなったル・マンで完全勝利を挙げた後、チームは活動の場を失ってしまいます。
コルタンツはその後F1に戻り、テクニカル・ディレクターとして活動したものの、スポーツカーレースに比べて制約の多いF1の世界に、かつて程のやり甲斐を見出せずにいました。
そんな折、コルタンツはプジョー時代のボスだったトッドの旧友であるオベ・アンダーソンから「うちでル・マンカーを作らないか?」という誘いを受けるのです。
アンダーソンは当時、ラリーでのキャリアを生かしトヨタの欧州チーム「TTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ」でトップの座に就いていました。
彼らはかつてのプジョーの様に、ラリーに次いでル・マンへ向けたマシン開発を行おうとしていたのです。
コルタンツはこの誘いを引き受け、TTEに加入すると1997年初めから新型マシンの開発に取り掛かりました。
コルタンツが目指したもの
当時ル・マンは、GT1クラスがトップカテゴリーの時代でした。
GT1は市販車がベースのクラスであり、かつての グループCの様にレースに最適化されたプロトタイプを一から開発する、という訳にはいきません。
しかし一方でメーカー間では、何台か名目上のロードカーを作り、実質的なプロトタイプマシンを作ってしまうという方法が横行し始めてもいました。
口火を切ったのは1996年のポルシェ911GT1でしたが、その翌年にはメルセデスと日産が更に過激な「ほぼグループC」なマシンをそれぞれ導入。
市販車ベースという建前は、既に有名無実化しつつありました。
しかしコルタンツはそんな状況を見守りつつ、「私ならもっとやれるはずだ」と考えていたのです。
しかし、事実上レース専用マシンが開発出来るとしても、やはりグループCに比べると大きな制約はありました。
一番のネックは、ロードカーを想定している為に存在していた「一定容量以上のトランクスペースが必要」というレギュレーション。
これを設けるとすればフロントのボンネット下、あるいはマクラーレン・F1の様に車体側面のいずれかが主な選択肢となります。
彼が描いていたアイディアでは、905 Evo2の様に フロントを極限まで低く絞り込み、更にリアセクションもダウンフォースに特化した薄い形状にする為、ラジエターをF1マシンの様にモノコックの両サイドに設ける必要がありました。
そうなると、レギュレーション通りのトランクルームなど設ける余裕はありません。
そこで彼が着目したのは「トランクスペースに燃料タンクを配置しても良い」というルールでした。
市販車をベースとするレースの多くでは、レース用の安全燃料タンクをトランクルームに設置することは一般的と言えます。
ところがコルタンツはこのルールを逆手に取り、明らかに燃料タンクを設置する為の、座席後ろのわずかなスペースを「トランクスペースである」と主張。
なんと、主催者から許可を取り付ける事に成功してしまうのです。
この事が後に他チームから「規則違反だ」という抗議が殺到する原因ともなるのですが、確かにルールの文面上、何の問題もないこともまた事実でした。
TS020誕生
巧みにレギュレーションを味方につける事によって、コルタンツのアイディアを妨げる障壁は取り払われました。
こうしてわずか1年で完成まで漕ぎ着けた「TOYOTA GT-One TS020」は、それまでのレースカーとはかけ離れた外観を纏い、1998年のル・マンで鮮烈なデビューを飾ります。
905 Evo2の面影を残すフロントセクションは、前方からの空気をモノコック両サイドに効率よく抜くことで、強力なダウンフォースを発生。
更にボディ側面に抜けたエアは直後のインテークに吸い込まれ、両サイドにあるラジエター&インタークーラーを冷却するという無駄のない構造です。
またリヤカウルの造形も特徴的で、3.6L V8ツインターボユニットが搭載されているとは到底思えないほど低く、そして薄くシェイプされています。
これにより、リアウイングのダウンフォースを最大化させることに成功しているのです。
ゼロの状態からたった1年足らずで作ったとは思えない完成度を誇るTS020ですが、それだけプジョーの活動休止以降、コルタンツの中での「構想期間」が長かった、という見方も出来るのではないでしょうか。
TS020が残した「爪痕」
TS020は、デビューイヤーである1998年のル・マンで恐るべき速さを見せつけました。
予選ではいきなり僅差の2番グリッドを獲得し、決勝でもラスト1時間までトップを快走。
最後はギヤボックストラブルに泣いたものの、そのインパクトは強烈なもの。
そして遂に翌1999年シーズンには、主催者がGT1クラスの撤廃を表明。
変わって新たにLM GTPクラスを設けたことで、事実上プロトタイプ時代の再来が果たされたのです。
この変革のきっかけは、GTマシンのルールでプロトタイプマシンを作ってしまった、TS020の登場だったと言えるでしょう。
この年更なる進化を果たしたTS020は、前年の最速ラップをなんと6秒も更新する強烈な速さを見せつけ、ポールポジションを獲得。
ライバルのメルセデスやBMW、日産より抜きん出た速さを示し、2年目の熟成も相まって「トヨタ楽勝」というムードすら漂わせていました。
しかし決勝では相次ぐ不運に見舞われ、3台のうち2台が次々とリタイヤ。
最後は日本人トリオの3号車が猛然と追い上げたものの、ラスト1時間でのタイヤバーストにより結果は2位に終わります。
またしても、あと一歩のところで優勝の夢は潰えたのです。
ドライバーからも「フォーミュラカーの次元で走るクルマ」と評され、速さとドライバビリティは突出したレベルにあったと言われるTS020。
しかし、ル・マンの歴史に勝者として名を刻まれる事はありませんでした。
それでも、2003年のル・マンを制したベントレー・スピード8などの外観を見れば判る通り、コルタンツのアイディアが後に与えた影響は大きかったと言えるでしょう。
まとめ
ル・マン参戦計画が終了した後、コルタンツはトヨタ ・F1プロジェクトにテクニカルディレクターとして関わることになり、トヨタ初のF1マシン「TF101」を生み出しました。
しかしこのマシンは充分な速さを発揮することが出来ず、実戦投入を待たずコルタンツはトヨタから更迭されてしまいます。
この時代のF1マシンとしてはやや古臭い気もするTF101と、このTS020を見比べてみると、なんとなくコルタンツのモチベーションの違いが見える気がしてなりません。
彼の本領はアイディア勝負が出来るフィールドであり、F1の堅苦しさは肌に合わなかったのではないでしょうか。
そんなコルタンツの人生における「最高傑作」は、ル・マンで優勝したプジョー・905ではなく、勝てはしなかったものの、彼のノウハウ全てを注ぎ込んで生まれたTS020なのではないか…。
少なくともスタイリングだけで言えば、そう思えてしまうのです。
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