F1中継を見ていると、タータンチェックのハンチング帽をかぶり、ドライバーにマイクを向けている小柄な紳士にカメラが向けられる事があります。この紳士こそ、世界チャンピオンを3度獲得し、その功績からナイトの称号を与えられた、サー”ジャッキー・スチュワート”その人なのです。今回は”フライング・スコット”と呼ばれた ジャッキー・スチュワートをご紹介したいと思います。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャッキー・スチュワート#/

 

ジャッキー・スチュワートのいた時代背景

グラハム・ヒル(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/グラハム・ヒル#/)

ヨッヘン・リント(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨッヘン・リント#/)

ジム・クラーク(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジム・クラーク_(レーサー)#/)

ジャッキー・スチュワート は生まれ故郷であるスコットランド出身の先輩ドライバー、「ジム・クラーク」とともに、フライング・スコット(空飛ぶスコットランド人)と呼ばれた天才ドライバーです。

活躍した年代は、ジム・クラーク、グラハム・ヒル(デーモン・ヒルのお父さん)、ジャック・ブラバム、ヨッヘン・リントといった多くのイギリス人ドライバーがグランプリを席捲していた1960年代中盤~1970年台後半でした。

 

BRMでのGP初優勝から離脱までの軌跡

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/H型エンジン#/

シュチュワートはローカルレースで活躍したのち、ケン・ティレル率いるF3チームに加入し、翌年の1964年のイギリスF3チャンピオンを獲得したことで注目を集めました。

そしてこのケン・ティレルとの出会いが、後のスチュワートのF1人生を決定付けたのです。

1965年にF1のトップチームであったBRMでF1デビューすると、2戦目に3位表彰台、8戦目のイタリアGPでは初優勝を達成し、同郷の先輩ジム・クラークと共にフライングスコット(空飛ぶスコットランド人)と呼ばれるようになりました。

しかし、翌1966年にはモナコGPで優勝するものの、H16気筒エンジンの不調によりチームは低迷、1967年は1勝も挙げられず、BRMを離れることになったのです。

 

マトラで初のワールドチャンピオンへ

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャッキー・スチュワート#

1968年からは、マトラのセミワークスで走ることになりましたが、その当時チームを率いていたのはなんと、F3時代にスチュワートの才能を開花させたケン・ティレルだったのです。

そして、当時フォードエンジンを搭載したマトラで、濃霧のドイツGPで圧勝しするなど卓越したテクニックを見せつけ、合計2勝をあげ、G・ヒルに次ぐシリーズランキング2位を獲得します。

さらに、翌1969年に入ると開幕から8戦6勝という驚異的な成績でシリーズを席捲し、3戦を残して初のワールドチャンピオンに輝きました。

 

ティレルで2度目のチャンピオン獲得

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャッキー・スチュワート#/

マトラとフォードの契約が終了すると、1970年にティレルはスチュワートとともに新興コンストラクターのマーチにフォードエンジンを搭載するマシンで、新チームを指揮します。

すると、スチュワートは2戦目に優勝し、マーチに初勝利を捧げたのです。

さらに、シーズン途中のドイツGPからティレルは本格的なコンストラクターとして参戦すると、スチュワートはポールポジションを獲得し、ティレルのデビューレースに華を添えてみせました。

翌1971年は参戦2戦目で、早くも ティレルの初勝利をあげると、全11戦中優勝6度という圧倒的な成績で、自身2度目のワールドチャンピオンに輝くのです。

これは、ケン・ティレルとチームメイトのフランソワ・セべールとの見事なチームワークによる勝利でもありました。

 

3度目のタイトル獲得と引退

出典:https://de.wikipedia.org/wiki/Mike_Kranefuss

1972年シーズンは体調不良とマシンの不調にもかかわらず、4勝したものの新星エマーソン・フィッティパルディにタイトルを奪われてしまいます。しかし1973年にはそのフィッティパルディへの雪辱を果たし、5勝を挙げ、3度目のワールドチャンピオンとなったのです。

そして、当時34歳でレーサーとしては円熟期を迎え、さらなる活躍も可能だったスチュワートですが、先輩であるJ・クラークらの事故死が続いたことにショックを受け、シーズン後の引退を決意し、後をチームメイトのF・セベールに託すつもりでした。

しかし、F1通算100戦目となるはずの最終戦アメリカGPの予選中に、そのセベールが事故死。スチュワートはレースを前に現役を退くことを決めるのです。

 

ジャキー・スチュワートの記録

2008年にシルバーストンで行われたデモラン時のティレル・001(Photo by Russell Whitworth)

1965年のデビューから1973年の引退までのGP出走99回と3度の世界チャンピオン、そしてGP通算27勝は14年後の1987年にアラン・プロストが更新するまで14年もの間、F1最多勝記録とされていました。

27勝というのは、数字だけ見ればプロスト以降も、複数のドライバーによって抜かれている記録です。

しかし、年間11~12レースしかない時代での記録であり、約倍のレース数がある現在のF1とは異なることからも、偉大な記録であることは間違いありません。

 

スチュワートグランプリでF1に参戦

出典:http://www.wikiwand.com/fr/Stewart_Grand_Prix

引退後は現役時代から関係の深いフォードのコンサルタントや、レース界の安全性を高めるためのスポークスマン的な活動をしていました。

そして1997年にフォードの全面的支援を得て、息子ポールの率いるF3000チームを母体にしたフォードのワークスチーム「スチュワートグランプリリ」でF1に参戦することになります。

1999年には初優勝を果たしますが、息子ポールの病気やフォードの意向もあり、チームは売却されることになります。

その後チームは2000年からジャガーとなり、そして2005年からはレッドブルへと移り変わっていきました。

 

まとめ

現役時代から安全問題について積極的に発言していたスチュワートは、サーキットの設備改善やフルフェイスヘルメットの普及などを訴えていました。

関係者や、ドライバー自身も無頓着であった安全性への意識を変えさせたスチュワートは、GP出走99回と3度の世界チャンピオンという華々しいキャリアだけではなく、レースでの安全性に改革を起こした新時代のドライバーの元祖でもあったのです。

 

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