エル・マタドール(闘牛士)という愛称で呼ばれ、荒くれるWRCマシンを手懐けた凄腕ドライバーがいます。彼の名は「カルロス・サインツ」。スペイン人として初めてWRCを制覇したサインツは凄まじい勝利への執念を持っており、数々の逸話を生みだしてきました。そんな彼のキャリアはどのようなものだったのでしょうか。
文武両道だった青年がめざした世界
スペイン出身のカルロス・サインツは学生時代テニスなどのスポーツに打ち込み、スカッシュでチャンピオンを獲得したほかサッカーなども得意とした、スポーツ万能な青年でした。
また大学時代には弁護士を志しており、彼は文武両道な青年だったといえるでしょう。
そんな学業にも運動にも優れていた彼が次に興味を示したのは、自動車でタイムを競い合う「ラリー」という競技だったのです。
ラリー競技は、コ・ドライバーと呼ばれる道の案内役とバディー組み協力しながら戦う競技です。
競技に勝つためには運転技術はもちろんのこと、コ・ドライバーとの協力と綿密な事前準備が必要不可欠といえます。
弁護士の資格を得るほどの高い頭脳を持ち、どんなスポーツでもこなしてしまうサインツにとって、下準備と臨機応変さが必要とされるラリー競技はうってつけだったといえるのではないでしょうか。
経歴を見るとインテリともいえるサインツですが、ひとたびステアリングを握るととてもインテリといわれる人物が運転しているとは思えないような激しい走りを見せました。
その激しい走りから、彼の出身地であるスペインでは大人気の競技であり、人々からの尊敬を集めるエル・マタドール(闘牛士)という愛称で呼ばれていたのです。
彼はいったいどんな闘牛士だったのでしょう?
彼の戦いっぷりを振り返っていきたいと思います。
叶わぬ夢と叶えた夢
カルロス・サインツは、1987年にフォードのワークスチームからWRCの舞台にデビューを果たします。
彼のデビュー当時、最強チームの一つであったランチアチーム入りに憧れていたサインツでしたが、フォード時代のチームメイトであったディディエ・オリオールが目立つ活躍を見せていたため、彼の夢であったランチア入りはオリオールの手に渡ってしまい叶わぬ夢となりました。
失意の中にいたサインツでしたが、そんな彼に目を付けた人物がいたのです。
その人物はTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)の監督である、オベ・アンダーソンでした。
アンダーソンからオファーを受けたサインツはTTE入りを決意し、1989年に移籍します。
この移籍はサインツにとって本望ではなかったかもしれません。
しかしこの決断が、結果として良い方向に向かい始めるのです。
移籍した1989年、シリーズ終盤で3戦連続表彰台を獲得します。
そして翌1990年には初優勝を挙げ、通算4勝を記録しデビュー4年目にして初のワールドチャンピオンに輝いたのです。
このチャンピオンはスペイン人としては初、そして日本車に乗ったドライバーが初めてタイトルを獲得した記念すべきものでもありました。
またこの年の1000湖ラリーでは、北欧勢でないと勝てないといわれた同大会で史上初となる北欧選手以外での優勝も記録し話題となったのです。
翌1991年は、ユハ・カンクネンに敗れ、ランキング2位となるも、その翌年となる1992年には、宿敵であるランチアを駆るディディエ・オリオールと熾烈な争いを見せ、最終戦まで縺れた勝負に勝利し2度目のワールドチャンピオンを獲得します。
憧れのランチアのシートをオリオールに奪われ悔しい思いをしたサインツでしたが、そのランチアを駆るオリオールを倒し2度目のチャンピオンを獲得するという夢を叶えたのです。
また、その後もTTEと良好な関係を築き素晴らしいキャリアを積み上げていたサインツですが、残念ながらスポンサーの関係で1992年をもってTTEを離脱することとなってしまいました。
狂い始めた歯車
TTEから離脱したサインツは、その後プライベートチームのランチア、ワークスチームであるスバル、フォードへとチームを移籍しますが、チームや車の戦闘力、自身のミスや怪我、チームメイトや首脳陣との確執などがあり、あと一歩のところでチャンピオン獲得を逃すという不遇な時期を過ごします。
特にスバルに乗った1994・95年は最終戦まで縺れたチャンピオン争いに敗れ、不本意な結果に終わりました。
また、サインツは完璧を求められる弁護士の資格を所持しており、それを示すかのように自身や車、コ・ドライバーやチームにも完璧な仕事を求めていたといわれています。
TTEと良好な関係を築けたのは、ドライバー・チーム・マシン全てが完璧を求め一丸となって取り組んでいたからでした。
しかし、TTE移籍後のチームやマシンは、それのどれか一つが欠けてしまっていたため、歯車が噛み合わなかったのかもしれません。
勝利への執念が人一倍強かったといわれるサインツの意識は、時にチームに不協和音を奏でてしまうこともあったようです。
事実、スバルチーム所属時にはチームメイトであるコリン・マクレーとの確執があり、それが発端となりチーム首脳陣との関係も悪化していきました。
それもこれもサインツの勝利への強い執念が生んだ結果ともいえますが、残念ながら成績として表れることはありませんでした。
サインツの勝利への強い執念を表すエピソードとして、こんな逸話があります。
サインツは1グラムでもマシンを軽くするために、走行後の車両に付いた泥や汚れを必ず洗い流させていたというのです。
車重は出来るだけ軽い方が有利ですが、ただ車を綺麗にするだけではなく、汚れが重さに繋がるというサインツの考え方には脱帽してしまいます。
そこまでして勝利にこだわる姿勢は生死をかけて戦う闘牛と通ずるものがあり、彼が「闘牛士」と呼ばれた理由にも繋がっているといえるでしょう。
「元サヤ」への恩返し
1997年、サインツは古巣であるTTEに復帰しチームのマニファクチャラータイトル(チームタイトル)獲得に貢献します。
翌1998年には自身の個人タイトル獲得目前で、マシントラブルにより惜しくもタイトル獲得を逃してしまう場面もありました。
2000年からは三度フォードと契約し勝利をプレゼントするも、マシンにはチャンピオン争いをするだけのポテンシャルはなく自身3度目のチャンピオンを獲得するには至りませんでした。
ちなみに、TTEとフォードは以前にもサインツが所属したことのあるチームです。
特にフォードは、デビューから数えて3度所属をしています。
これは、チームからサインツに対する信頼や評価の高さが表れているといえるでしょう。
競技の世界で「たら・れば」はありませんが、スポンサーの関係でお互いの信頼や評価が高かったTTEから離脱していなかったらとしたら、彼のキャリアもまた違ったものとなっていたのかもしれません。
有終の美と新たな挑戦
2003年シトロエンに移籍したサインツは、移籍後初戦を優勝で飾ります。
翌2004年にはアルゼンチンで彼にとってWRC最後となる勝利を挙げ、その後アクシデントにて負傷し欠場を余儀なくされてしまいます。
そのまま引退かと思われたサインツでしたが、シトロエンのマニファクチャラータイトル獲得に貢献するべくWRCへ復帰し、見事にその役割を果たし、シトロエンにタイトルという置き土産を残してからWRCを引退をしていきました。
正に「有終の美」といえる最後だったといえるでしょう。
WRCから引退したサインツはフォルクスワーゲンのモータースポーツ活動に参画し、アドバイザーを務める傍ら自らサーキットレースにも参加するなど精力的な活動を行っています。
また、サインツは現役活動を継続していきたいとも考えているようで、パリ・ダカールラリーに参戦を表明したプジョーに移籍し、2017年の同大会にも現役で参戦しています。
サインツがこの先も現役活動を継続していけば、いずれ現在F1で活躍するカルロス・サインツJrとコンビを組んでレースに参戦する可能性もあり得るかもしれません。
こうした、新たな活躍にも期待したいです。
まとめ
カルロス・サインツの現役時代を振り返ってみましたが、いかがでしたか?
現役時代には「右リアの車高が2mmほど高いようだ。調整をたのむ。」とフォーミュラマシン並みのセッティングを要求したこともあったようです。
それほどまでに勝利にこだわり追求の手を緩めない姿勢は、生きるか死ぬかを争う闘牛士そのものだったといえるでしょう。
そのスピリッツは息子であるJrにも受け継がれており、現在F1で大活躍を見せています。
「闘牛士」と呼ばれたサインツは現役活動を継続中です。
今後の彼の活躍と活動に是非注目してみて下さい。
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